佐々木氏信の娘が大江親広の息「佐房」に嫁いでいた。(佐房の妻ではなく、その息の佐時の妻という方が正しいのかもしれない。)
http://www.arakawa-yasuaki.com/information/sasaki-kyogoku-ujinobu-graveyard.html
上のページから部分を拝借する。
氏信の正妻は将軍家女房右衛門督局であった。彼女は武家祇候の公卿・阿野実遠の娘であり、実遠は母が阿野全成(源頼朝・弟)の娘だったため、阿野家を称していた。
氏信の5人の娘は、庶子家ではあるが有力御家人である佐々木加地経綱(佐々木加地庶流)妻、吉良満氏(足利庶流)妻、上田佐時(大江庶流)妻、武石宗胤(千葉庶流)妻、や皇族8代将軍・久明親王家女房として嫁いでいる。
氏信がいかに得宗家との結び付きが強く、得宗被官に近い立場であったかは、氏信の長男頼氏が安達泰盛追討の賞で豊後守になり、娘のひとりが、こののち得宗家が擁立した皇族8代将軍家・久明親王家女房になっていることでも理解できる。
~~~*~~~
wikipediaの「上田氏」によると「佐々木氏信の娘と尾張守佐時ー佐々木広宗ー佐々木宗清(道勧)」という系図となる。
この上田というのは信濃国上田荘に由来するという。
また、大江親広の妻は二人おり、竹殿は「はじめは大江親広の側室であったが、承久3年(1221年)承久の乱において親広が失脚。離別して京都の土御門定通に再嫁してその側室となる。」もう一人の平時家の娘は竹御所の官女。
その平時家を遡ると若狭国とつながる「平時信」は師季の孫で永田太野守平朝臣(網野善彦による)で、東氏の祖(東殿)と言われている人物となる。
遡ると、時家ー時忠ー時信という系図になる。
千葉氏流の東氏は、六男胤頼が香取郡東荘を領して東氏を称し…とあるので、また別の東氏であろうか。
~~~*~~~
他にも大江氏と佐々木氏の接点があった。佐々木哲氏のブログよりだが、「佐々木広綱が大江広元の女婿」「広綱の諱字から、母 は宇都宮朝綱の娘(定綱の本妻)で、大江広元が烏帽子親あるいは舅であったと推定 できる。」とある。
http://blog.sasakitoru.com/201102/article_3.html
横山郷と大江広元そして佐々木氏の関りが述べられている。
http://www.arakawa-yasuaki.com/information/sasaki-kyogoku-ujinobu-graveyard.html
上のページから部分を拝借する。
氏信の正妻は将軍家女房右衛門督局であった。彼女は武家祇候の公卿・阿野実遠の娘であり、実遠は母が阿野全成(源頼朝・弟)の娘だったため、阿野家を称していた。
氏信の5人の娘は、庶子家ではあるが有力御家人である佐々木加地経綱(佐々木加地庶流)妻、吉良満氏(足利庶流)妻、上田佐時(大江庶流)妻、武石宗胤(千葉庶流)妻、や皇族8代将軍・久明親王家女房として嫁いでいる。
氏信がいかに得宗家との結び付きが強く、得宗被官に近い立場であったかは、氏信の長男頼氏が安達泰盛追討の賞で豊後守になり、娘のひとりが、こののち得宗家が擁立した皇族8代将軍家・久明親王家女房になっていることでも理解できる。
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wikipediaの「上田氏」によると「佐々木氏信の娘と尾張守佐時ー佐々木広宗ー佐々木宗清(道勧)」という系図となる。
この上田というのは信濃国上田荘に由来するという。
また、大江親広の妻は二人おり、竹殿は「はじめは大江親広の側室であったが、承久3年(1221年)承久の乱において親広が失脚。離別して京都の土御門定通に再嫁してその側室となる。」もう一人の平時家の娘は竹御所の官女。
その平時家を遡ると若狭国とつながる「平時信」は師季の孫で永田太野守平朝臣(網野善彦による)で、東氏の祖(東殿)と言われている人物となる。
遡ると、時家ー時忠ー時信という系図になる。
千葉氏流の東氏は、六男胤頼が香取郡東荘を領して東氏を称し…とあるので、また別の東氏であろうか。
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他にも大江氏と佐々木氏の接点があった。佐々木哲氏のブログよりだが、「佐々木広綱が大江広元の女婿」「広綱の諱字から、母 は宇都宮朝綱の娘(定綱の本妻)で、大江広元が烏帽子親あるいは舅であったと推定 できる。」とある。
http://blog.sasakitoru.com/201102/article_3.html
横山郷と大江広元そして佐々木氏の関りが述べられている。