九里 【九里】を探して三千里

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千葉氏の【中沢氏】

2020-01-17 | 千葉氏

いろいろな中沢氏が歴史上に存在していて、下総国の八幡荘中沢郷の「中沢」の代官はどのような人たちだったのかかを少し探ってみようと思う。

まず、鎌倉時代八幡荘は千葉氏(千田氏)の所領であったようなので、千葉氏と中沢氏で調べると、
http://chibasi.net/ichizoku7.htm

中沢氏がいたのである! この中沢氏が八幡荘の「中沢郷」と関係があるのではないだろうか?
しかも「千葉介胤正の嫡子・千葉介成胤の二男・千田泰胤(次郎)の末裔と伝わる。」とあり、ぴったりである。
この「中沢氏」が八幡荘の中沢郷の中沢の管理・居住していた人として、因幡国とも関係があったのだろうか?
つまり、富城氏(富木氏)と何等か関係がある氏なのだろうか?

やはり、久下氏とつながっている方の中沢氏につながりがある様に思えてしまう。
丹波国の河守庄の蓮忍・那珂氏の経久…
しかし、まだまだ調べ始めたばかりである。

室町幕府の奉行人であった「中沢氏」↓

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/651/651PDF/tanaka.pdf
室町幕府奉行人在職考証稿(1)―元弘3年(1333)~康永3年(1344)―田 中 誠 氏  より

1333年に「中沢性忍」が石清水造営奉行として「石清水八幡宮御修理造営之記・ 建武回禄之記石清水文書」に二度ほど名前が挙がっている。
この人物は、どこの中沢氏から室町幕府奉行人となったのだろうか。



中沢信綱〈定阿〉掃部允源信綱 小除目聞書案 園太暦(貞和4.8.11)纂集
中沢信綱〈定阿〉中沢掃部允信綱 足利直義下知状(貞和4.10.17)長門三浦家文書

いろいろなところから情報を集めてみると、

中沢三郎入道(性忍)
中沢又次郎
中沢信綱(定阿・掃部充・掃部大夫)(次郎左衛門尉)行靖とも(東大寺百合文書)
中沢(定阿・掃部大夫入道)

http://syurihanndoku.hatenablog.com/entry/2019/01/27/200026
中沢 性忍 三郎入道

中沢 又四郎(又次郎)

中沢信綱 定阿 掃部允・掃部大夫・掃部大夫入道

中沢氏綱 行清・行称・行靖 次郎右衛門尉・次郎左衛門尉・備前守・備前入道・越前入道

中沢季総(季綱カ) 次郎左衛門尉

中沢之綱 掃部允・掃部大夫・備前守

中沢 孫四郎

中沢光俊 浄永 掃部助・備前守

中沢 新三郎

中沢 玄蕃允

コトバンクによると「中沢氏」
中世武家。信濃国の豪族諏訪氏一族で,同国伊那郡中沢郷に拠ったものが著名。諏訪系図に真重(中沢神太)がみえる。《吾妻鏡》に中沢成綱など一族の名がみえ,南北朝初期以来,室町幕府奉行人として中沢性忍・信綱・定阿・氏綱・秀綱・之綱などがいる。彼らは御前奉行となり,有力社寺の担当奉行となった。室町後期,中沢氏の所領は丹波国(広瀬・久富荘)や洛中(烏丸・錦小路西頰屋地)などに分布している。鎌倉期以来出雲国にみえる中沢氏もこの一族。

「大山荘」
 鎌倉時代,承久の乱(1221)後に中沢基政が地頭として入部して以来,東寺と中沢氏は所務をめぐる争いをくり返した。1241年(仁治2)に始まる地頭請でも年貢抑留が続き,東寺の訴えにより94年(永仁2)下地中分が決定,翌年池尻村内一井谷・賀茂茎谷・西田井村の田25町,畠5町と山林が東寺分と定められた。





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