九里 【九里】を探して三千里

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下総国 八幡荘

2020-01-16 | 雑記

wikipediaよりのコピー
八幡荘(やわたのしょう)は、中世の下総国葛飾郡にあった荘園。現在の千葉県市川市の北部地域に相当する。谷中郷・蘇谷(曽谷)郷・中沢郷・大野郷の4郷から構成される。

保元3年12月3日(1158年)付官宣旨に記された石清水八幡宮領「下総国 葛餝別宮」が前身と考えられる。

『吾妻鏡』文治2年3月12日(1186年)条の関東御知行国々内乃具未済庄々注文にも「八幡」とみえるが荘園領主の記載がなく、鎌倉時代には千田泰胤から娘婿の千葉頼胤に継承されたとされ、富木常忍・曾谷教信・太田乗明らが代官を務めていたとされる。彼らは迫害を受けていた日蓮を迎え入れてこれを保護した。そして富木常忍は日蓮の没後出家して日常と号し、日蓮のため自邸に建てた法華堂を法花寺と改め第1世貫首となった。

太田乗明の子日高は父の屋敷を本妙寺として日常を後継し第2世貫首となり、後の天文14年(1545年)に古河公方足利晴氏から法花寺・本妙寺の両寺を統合する寺号として贈られたのが今日の法華経寺であるとされている。

元応2年(1320年)には、本妙寺俗別当であった頼胤の嫡孫胤貞から猶子であり第3世貫首の日祐に八幡荘の一部が譲与され(『中山法華経寺文書』元応2年12月1日付千葉胤貞譲状)、以後南北朝時代を通して八幡荘のほとんどの地域が胤貞流千葉氏によって寄進されて(『中山法華経寺文書』観応3年4月25日付千葉胤継寄進状など)法華経寺領として伝えられたとされている。

==+==

これを読むと、「富木氏も曽谷氏も、太田氏も」八幡荘の代官を務めていたようである。

もともと「谷中郷・蘇谷(曽谷)郷・中沢郷・大野郷」と呼ばれていたとすると、曽谷郷は曽谷氏、大野郷も曽谷氏の母方の姓であり、日蓮が曽谷教信の母方の伯父大野政清という説もあるため、やはり曽谷氏関係となる。

谷中氏と中沢氏は今はまだわからない。
どちらかが、大田氏や富木氏と関係があるのかもしれない。

中沢氏;http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakazawa.html
富木氏に関係がありそう!
武家家伝「中澤氏」「別院中沢氏」
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakazawa_w.html

中沢(澤)氏は武蔵国那珂郡中沢郷の出身といわれ「武蔵七党秩父氏系図」「久下氏系図」などに中沢がみえている。源頼朝の石橋山における旗揚げの頃より、頼朝の麾下に参加していた。

承久の乱(1221)における基政の功により本領を安堵された上で、新恩として丹波国多紀郡大山荘の地頭に補任された。大山荘の荘園領主は京都の東寺で、中沢氏は東寺と激しく所領支配をめぐって相論を繰り広げたことで知られている。現在中沢氏諸家に共通する紋に「丸に二つ引」があり、基政らは源氏を称していたようでもある。また、一族のなかには、長沢を名字とした家もある。

この久下氏は私は知っているのである。丹波国御河守庄で、蓮忍の100年後におなじ荘の地頭となっている人物である。(足利尊氏の時代)

その久下氏(くげ・し)が出てくる頁
https://tangonotimei.com/kasagun1.htm

加佐郡内の古代の郷には12世紀中頃から各々ほぼ郷名を負う荘園が立荘されていったが、有道郷は立荘された様子がみられず、中世にも郷として存続していた。(虫損で郷名不詳が3郷あるが、倉梯・凡海・川守と見られている)。

川守郷には13世紀中ば頃の大江町観音寺文書に河守御庄がみえる。

氷上郡に新補地頭として補任された久下氏の一族が、14世紀中頃には河守郷の代官として名をみせて(久下文書)、丹波における同氏の広範な活動がうかがわれる。

また、武家家伝の「中澤氏」のページに
「栗作郷の久下氏とは鎌倉開府以前より室町後期まで、「久下、中沢の一族」と呼ばれる程の緊密な関係を続けていた。 」とある。

この【くりつくり】という部分も気になるが、とにかく「久下氏は中澤氏の一族」という部分を記憶にとどめて、
次を見ると、「熊谷直実」との関係につながってくる。http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.kugeshi.htm

「康治元年(1142)、隣領の熊谷直貞が17歳で死去すると、直貞の妻は久下直光の姉妹だったため、2歳になるその遺児を直光が引き取って養育した。
この男児は成長すると、熊谷次郎直実と名乗った。直光は直実を家人郎党として扱い、熊谷郷の横領も行った。
この待遇に不満を持った直実は、直光の下を離れて平知盛に仕えた

その直貞の母親は平貞叙の娘という説と、別説に左近衛将監中原師直の娘、ただし大外記中原師直とは別人、という説がある。
熊谷氏の中に「蓮忍」(頼直の兄)もいる。熊谷直実の高孫あたりと思う。
熊谷直実の息である直家の妻は「土肥実平の娘」である。

治承四年(1180)に源頼朝が挙兵すると、直実も久下直光・重光父子も、はじめ平氏方で参戦した。
後に3者とも頼朝方に転じ、各地で活躍した。
その功により、久下氏は丹波国栗作郷などを与えられた一方、直実は晴れて頼朝の直参御家人となり、熊谷郷を回復した。

この上記から思うに、熊谷直実と同じ時代に久下氏はもう丹波国に進出していたことになる。
中澤氏は那珂氏でもあるという。

という事は、大中臣略系図に登場する那珂氏の「金山氏」とつながってくる。
さらに、この中澤氏は後に一流が長澤氏となっている。長澤氏に養子として入ったという。

以下はwebページから検索して出てきたのだが、もう一度アドレスをつけようと再検索したが、ページが見つからず、勝手に一部分お借りします。

土岐光信ー光長ー光経ー光助、住越中国、成 長澤という系図だそうで、
越中国長澤に居した人物 長澤光助のあとに中澤氏が入ったようなのである。(長澤伯耆守光綱の養子)

長沢光助(土岐光経の二男。出羽国守。越中国長沢居住。長沢、百瀬の祖)─…─土岐長沢治部少輔(永享年中〔一四二九年~四一〕及び文安年中〔一四四四~四九〕の「御番帳」)─…─長沢善慶(氷見市の海老瀬城主)。


長沢光国(長沢善慶の一族。長沢筑前守。越中国人。後に上杉氏の家臣。天正六年、子の七次郎と共に討死)─七次郎。


そして、もう一つ氷上郡という言葉に反応すると、江戸時代には九里氏がいた「柏原藩」もその中にあったのでは…と思う。
私の曽祖母の苗字は「荻野」で、やはり柏原藩士であった。
丹波の赤鬼と言われた人物の裔ではないかと思う。

柏原藩の九里氏から分かれた系かと思うのだが「青垣」という所にも九里氏が今でもお住まいと思うが、この青垣も中澤氏(長澤氏)と絡めると重要な場所である。

じっくりとお読みいただきたいのが、以下の記事で、ココを読むと不思議な感覚に襲われる。
http://kuwaichi.dip.jp/u_1_1.html

【栗作郷】だが、久利郡久利という称もあったようで「高山寺文書」に出てきているそうである。



===*===

何故、八幡荘の郷に「中山」という文字が出てこないのだろうか。
中山法華経寺の「中山」という地名のもととなった「中山」も探している。
前に調べた中山重政の他にも「中山」を名乗っているものがいたのではないだろうか?
中山忠親の系だろうか?

中山氏も調べてみると丹治姓青木氏と、また、丹党とつながっているようである。

中山氏は武蔵七党の一つ丹党の後裔と伝える。丹党は宣化天皇の後胤で、彦武王のときに多治比古姓を賜り、峯時のときから関東に居住、 その孫の武綱のときに秩父郡領になったといわれる。武綱の曾孫秩父基房には数人の男子があり、嫡子直時が勅使河原を、二男綱房は新里を、三男の成房は榛原を、四男の重光は小島を、そして経家が高麗五郎を名乗った。
 高麗五郎経家の次男家季は加治二郎を名乗り、元久二年(1205)六月、武蔵国二俣川において畠山重忠と戦って討死した。その子の加治豊後守家茂は亡父の菩提を弔うため円照寺を建立、以後、同寺が加治氏歴代の菩提寺となった。また、二男の助季は『吾妻鑑』『承久記』に散見し、仁治元年(1240)二月、鎌倉将軍頼経が上洛のとき随兵のひとりとして加わっている。この助季の子孫がのちに中山を領して、地名によって中山を名乗るようになったのだという。

こちらの中山氏かもしれない。




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