九里 【九里】を探して三千里

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清原祐隆の息祐安→中原祐安(有安)→中原景康→多景康→多忠久 多景康→大江久康(久兼の実息) 

2024-03-01 | 九里【まとめ】
参考文献・論文



↓ 今まで書いてきた当ブログの中より気にかかる部分を繋げてみる。

中原有安の養子と云われている【中原景安】は多氏の養子となり楽統を継いだ。景康に養子として入った多忠久もいる。

 【大中臣景康】が元は中原景康で、多氏に養子に入ったことで大中臣になったのではなかろうか?と思っている。(想像)

大江久兼の息(または孫)の久康は中原景康の養子となる。

この部分こそが久兼と蓮忍入道とを繋げている!

景康は近江国の系図にいる人物である。

つまり、清原頼業の弟でもあった中原有安
有安に養子として入った中原景康(景安)
多氏となった景康
多景康に養子として入った大江久兼の息久康

大江久兼の所領を相伝した中原中太蓮忍(九里の祖・九里太郎経久)…丹波国河守御荘

清原・中原・大江・多氏が交錯しているのである。

さらに、蓮忍の祖父と思われる久経は源朝長の異父兄弟であったため源氏とも近く、母親は藤原秀郷流・宇都宮中原氏ともごく近い

さらに、千葉氏との婚姻関係もあったと思われ、桓武平氏ともつながりを持つ。そのため経久の甥か息であった常忍が千葉頼胤の執事的存在となる

さらに大中臣氏(多氏)であったためか、三崎荘の片岡氏に経久の父経任(経政)が入っている(ここは想像)

近江国系図の中にいた中原景康
系図にはその名がみえず、賢清という法名か僧名ではないか?と思われる中原久経
大江久兼
多氏系である大中臣
…を繋ぐ糸は、真ん中に「経久」が存在することでつながる。

河守御荘の「久兼」がそれを繋げてくれたのではないか?と思う。

こだわっていた部分が過不足なく繋がった感があるが、また疑問が生まれてくるかもしれない。

今日のところは、初めて手ごたえがあり、満足!である。


 
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2 コメント

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Unknown (jikan314)
2024-03-02 19:28:55
書道字典によると、等ではありませんでした。
不明の字の一つは、也でした。見事に跳ねた字を蔵書の中に有りました。
肝心な字は未だ不明。雪解け状態(歩くのもままならない)
ありがとうございます! (kunorikunori)
2024-03-02 21:27:47
Jikan様
ありがとうございます。

右件 山林者為観音寺御本尊の敷地幷坊敷寺之寄進〇然者奉存天●(切れている)
〇久兼者御領主〇 →等ではなく〇
の子孫繁富故〇 →この部分が【也】…「故也」

…という事になりますでしょうか?

久兼の前の字は「地」ですよね?

天領地とか、天養地とか…最後が「地」で文が終わり、「久兼は…」となるという認識で大丈夫でしょうか?

良いようでしたら、新たな記事にしたいと思います。

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