『石園坐多久虫玉神社の祭神と竜神(竜王)』を中心に他の項も交えてご紹介したいと思います。
(田中昭三氏の「記・紀」「大和志」の片塩の都・浮孔の宮考より)
第一章 石園と安寧天皇・浮孔の宮
1.諸、史料・伝承
2.石園坐多久虫玉神社の祭神
3.秦氏と園韓神、「古事記」
4.秦氏の渡来、石園居住と山城への移住(石園の秦氏)
5.三倉堂遺跡の被葬者
6.「記・紀」に帰された安寧天皇の妃
7.「安寧天王、浮孔の宮」の意味の推察
8.天皇の漢風諡号の撰進、及び「記・紀」成立の時期
9.浮孔の地名が伝承されてこなかった訳
10.石園と安寧天皇・浮孔宮の「大和志」説の根拠、推論のまとめ
第二章 竜王の社
1.三輪山の蛇神、葛城の竜神
2.石園坐多久虫玉神社の祭神と竜神(竜王)
…この後は、第三章 片塩の都、第四章 諸家の日本人の祖先・民族説、あとがきとなっております。
10.のまとめを書いてみようと思います。
(1)石園坐多久虫玉神社は、石園坐多久豆玉神社のことである。
(2)多久豆玉神社は、多久都玉命より出た名称であり、爪工連(ハタクミノムラジ)の祖である。爪工氏の職掌、および、百済遠征軍の将軍秦造多来津の存在などから、多久豆玉神社は秦氏との関係が推察される。
(3)石園坐多久虫玉神社の由緒によれば、祭神は北殿が建玉依比古命、南殿が建玉依比売命、の二座とされている。この二神は山城の賀茂神系の神々である。
(4)山城の賀茂神は「秦氏本系帳」の丹塗矢伝承により秦氏の聟となり、山城にある上賀茂神社(祭神:賀茂別雷)、下賀茂神社(祭神:建角身命、建玉依比売命)は、松尾大社と同様、秦氏の奉斎する神社であることが推察された。
(5)山城の両カモ社と同様の祭神を祀る石園坐多久虫玉神社は、秦氏が奉斎した神社であることが推察された。
(6)秦氏は平安京の大内裏、宮内省において南に園神、北に韓神を祀っていた。この園韓神は、平城京の時も祀られて秦氏が奉じ斎していた渡来神であった。
(7)石園坐多久虫玉神社は秦氏が奉斎した神社であったことにより、北殿の祭神・建玉依比古命は、初めは韓神であり、南殿の建玉依比売命は、初めは園神であったものと想われる。園韓神は秦氏がカモ社を奉斎するようになった後になって賀茂神に代わったものと推察されるのである。
まだまだ興味深いことが満載なのですが、あと一つご紹介して次に進もうと思います。
(10)石園坐多久虫玉神社の石園は「イソノ」であり、イは神聖を表す接頭語とされ「イソノ」は「ソノ」である。
朝鮮語では「ソ」は新羅の原号である。
園は二語で「ソのフル」であり新羅の都を意味する。従って、掖上から指呼の間にある石園の地に秦氏が移住してきて地名を「イソノ」と命名し、渡来人の居住地域を造るとともに、氏族や地域の守護神として秦氏の祭神である園・韓神を祀る社を建てたのが、石園坐多久虫玉神社であると思われる。
~~~*~~~
爪工連:爪工部は「はたくみべ」と読み朝廷に直属する工人で、翳(さしば)をつくるのを職業とする 部民である。翳というのは、貴人の頭上に左右から差出してかざす団扇に長柄をつけた ようなものをいう。(有名な高松塚古墳の壁画にこの絵が描かれている)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
上記のまとめには少ししか触れられておりませんが、秦氏の聟に賀茂氏がいたそうです。
秦氏と賀茂氏とは婚姻関係を持つほどに近い関係であったとみていいのではないでしょうか。
そして、、松尾大社も上賀茂神社・下賀茂神社と同じ系の神社であったと思われます。
wikipediaより
松尾大社:京都市西部、四条通西端に位置し、東端の八坂神社(祇園社)と対峙して鎮座する。元来は松尾山(標高223メートル)に残る磐座での祭祀に始まるとされ、大宝元年(701年)に文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勧請して社殿を設けたといわれる。その後も秦氏(はたうじ)により氏神として奉斎され、平安京遷都後は東の賀茂神社(賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)とともに「東の厳神、西の猛霊」と並び称され[1]、西の王城鎮護社に位置づけられた。
秦氏:秦氏は、秦王朝の始皇帝の後裔とする弓月君の子孫を称したことから「秦」を名乗った氏族で、同様に漢王朝の遺民を称した漢氏(あやうじ)とともに渡来系氏族を代表する氏族である。同じ渡来系の漢氏が陶部・鞍作部・工人等の技術者集団から成ったのに対して、秦氏は秦人部・秦部等の農民集団から成り、これらの人々は日本全国に分布して古代日本において最も多い人口を誇ったといわれる。
~~~?~~~
では、鏡を作っていたのは、漢氏の渡来人だったのだろうか?
…もしそうならば、九里の祖かもしれない久利・久里氏(または中原氏・清原氏)は、祭祀を司る方の人間で、鏡や農耕具を作っていた人々(漢氏)と農業に従事していた人々(秦氏)との中間の役割を担っていたのかもしれない。
~~~*~~~
さて「竜神」の件に入ろうと思います。
葛城の竜神
龍神に関する古い伝承が、竜王宮(石園坐多久虫玉神社)の近くを流れる葛城川や甘田川(高田川の支流)の上流地域にみられた
こと。御所市大字蛇穴の蛇穴(サラキ)村に鎮座する野口神社に伝わる由緒にみられる。
明日香村大字豊浦(トユラ)にも小字蛇穴がある。この蛇穴集落の西端に野口神社が鎮座している。祭神は神武天皇、日子八井命であるが、神体は竜(木彫)で、龍神信仰が見られる。神社西南方の湧水は、各村の灌漑用水に利用されている。野口神社はこの水を守る神として奉斎されたものであろう。
御所市では、古来より牛馬市が開かれていたそうだ。
サラキは新来(サラキ)・今来(イマキ)と同義。
葛城の龍神伝承のある蛇穴と石園坐多久虫玉神社の鎮座する石園の地とは、見通せるほどの近い距離である。
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まだ先が長いので、明日続きを書きたいと思います。
(田中昭三氏の「記・紀」「大和志」の片塩の都・浮孔の宮考より)
第一章 石園と安寧天皇・浮孔の宮
1.諸、史料・伝承
2.石園坐多久虫玉神社の祭神
3.秦氏と園韓神、「古事記」
4.秦氏の渡来、石園居住と山城への移住(石園の秦氏)
5.三倉堂遺跡の被葬者
6.「記・紀」に帰された安寧天皇の妃
7.「安寧天王、浮孔の宮」の意味の推察
8.天皇の漢風諡号の撰進、及び「記・紀」成立の時期
9.浮孔の地名が伝承されてこなかった訳
10.石園と安寧天皇・浮孔宮の「大和志」説の根拠、推論のまとめ
第二章 竜王の社
1.三輪山の蛇神、葛城の竜神
2.石園坐多久虫玉神社の祭神と竜神(竜王)
…この後は、第三章 片塩の都、第四章 諸家の日本人の祖先・民族説、あとがきとなっております。
10.のまとめを書いてみようと思います。
(1)石園坐多久虫玉神社は、石園坐多久豆玉神社のことである。
(2)多久豆玉神社は、多久都玉命より出た名称であり、爪工連(ハタクミノムラジ)の祖である。爪工氏の職掌、および、百済遠征軍の将軍秦造多来津の存在などから、多久豆玉神社は秦氏との関係が推察される。
(3)石園坐多久虫玉神社の由緒によれば、祭神は北殿が建玉依比古命、南殿が建玉依比売命、の二座とされている。この二神は山城の賀茂神系の神々である。
(4)山城の賀茂神は「秦氏本系帳」の丹塗矢伝承により秦氏の聟となり、山城にある上賀茂神社(祭神:賀茂別雷)、下賀茂神社(祭神:建角身命、建玉依比売命)は、松尾大社と同様、秦氏の奉斎する神社であることが推察された。
(5)山城の両カモ社と同様の祭神を祀る石園坐多久虫玉神社は、秦氏が奉斎した神社であることが推察された。
(6)秦氏は平安京の大内裏、宮内省において南に園神、北に韓神を祀っていた。この園韓神は、平城京の時も祀られて秦氏が奉じ斎していた渡来神であった。
(7)石園坐多久虫玉神社は秦氏が奉斎した神社であったことにより、北殿の祭神・建玉依比古命は、初めは韓神であり、南殿の建玉依比売命は、初めは園神であったものと想われる。園韓神は秦氏がカモ社を奉斎するようになった後になって賀茂神に代わったものと推察されるのである。
まだまだ興味深いことが満載なのですが、あと一つご紹介して次に進もうと思います。
(10)石園坐多久虫玉神社の石園は「イソノ」であり、イは神聖を表す接頭語とされ「イソノ」は「ソノ」である。
朝鮮語では「ソ」は新羅の原号である。
園は二語で「ソのフル」であり新羅の都を意味する。従って、掖上から指呼の間にある石園の地に秦氏が移住してきて地名を「イソノ」と命名し、渡来人の居住地域を造るとともに、氏族や地域の守護神として秦氏の祭神である園・韓神を祀る社を建てたのが、石園坐多久虫玉神社であると思われる。
~~~*~~~
爪工連:爪工部は「はたくみべ」と読み朝廷に直属する工人で、翳(さしば)をつくるのを職業とする 部民である。翳というのは、貴人の頭上に左右から差出してかざす団扇に長柄をつけた ようなものをいう。(有名な高松塚古墳の壁画にこの絵が描かれている)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3
上記のまとめには少ししか触れられておりませんが、秦氏の聟に賀茂氏がいたそうです。
秦氏と賀茂氏とは婚姻関係を持つほどに近い関係であったとみていいのではないでしょうか。
そして、、松尾大社も上賀茂神社・下賀茂神社と同じ系の神社であったと思われます。
wikipediaより
松尾大社:京都市西部、四条通西端に位置し、東端の八坂神社(祇園社)と対峙して鎮座する。元来は松尾山(標高223メートル)に残る磐座での祭祀に始まるとされ、大宝元年(701年)に文武天皇の勅命を賜わった秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勧請して社殿を設けたといわれる。その後も秦氏(はたうじ)により氏神として奉斎され、平安京遷都後は東の賀茂神社(賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)とともに「東の厳神、西の猛霊」と並び称され[1]、西の王城鎮護社に位置づけられた。
秦氏:秦氏は、秦王朝の始皇帝の後裔とする弓月君の子孫を称したことから「秦」を名乗った氏族で、同様に漢王朝の遺民を称した漢氏(あやうじ)とともに渡来系氏族を代表する氏族である。同じ渡来系の漢氏が陶部・鞍作部・工人等の技術者集団から成ったのに対して、秦氏は秦人部・秦部等の農民集団から成り、これらの人々は日本全国に分布して古代日本において最も多い人口を誇ったといわれる。
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では、鏡を作っていたのは、漢氏の渡来人だったのだろうか?
…もしそうならば、九里の祖かもしれない久利・久里氏(または中原氏・清原氏)は、祭祀を司る方の人間で、鏡や農耕具を作っていた人々(漢氏)と農業に従事していた人々(秦氏)との中間の役割を担っていたのかもしれない。
~~~*~~~
さて「竜神」の件に入ろうと思います。
葛城の竜神
龍神に関する古い伝承が、竜王宮(石園坐多久虫玉神社)の近くを流れる葛城川や甘田川(高田川の支流)の上流地域にみられた
こと。御所市大字蛇穴の蛇穴(サラキ)村に鎮座する野口神社に伝わる由緒にみられる。
明日香村大字豊浦(トユラ)にも小字蛇穴がある。この蛇穴集落の西端に野口神社が鎮座している。祭神は神武天皇、日子八井命であるが、神体は竜(木彫)で、龍神信仰が見られる。神社西南方の湧水は、各村の灌漑用水に利用されている。野口神社はこの水を守る神として奉斎されたものであろう。
御所市では、古来より牛馬市が開かれていたそうだ。
サラキは新来(サラキ)・今来(イマキ)と同義。
葛城の龍神伝承のある蛇穴と石園坐多久虫玉神社の鎮座する石園の地とは、見通せるほどの近い距離である。
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まだ先が長いので、明日続きを書きたいと思います。