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夢窓疎石のつなぐ糸。佐々木流乾氏と土岐流乾氏(1)

2019-10-06 | 雑記

試論なので、間違いかもしれませんが。。。こんな可能性もあるのではないだろうか~という意味で書いてみました。

夢窓疎石の母は、乾氏か北条氏か…と言われているのだが、佐々木流乾氏(浅小井・深尾氏)と北条氏は非常に近いと思う。

以前書いた記事と、昨日より調べていることをプラスしてみると以下のようになる。



浅小井氏系図(近江蒲生郡志)によると浅小井家長の息は公宣「治部・播磨守」その弟「乾五郎」とある。
公宣の息「氏輝」はもう一つの名前を「重宣」と言った。
その氏輝の弟は「北條師方:北條師時成猶子娶大佛宣時女」とある。

ココが鍵となる。(浅小井氏と北条氏のつながり)
この系図の示していることは、浅小井公宣の息が北条師時の猶子となった。

文字の通りとすると、師方が大佛信時(宣時)の娘が師方の妻に…となりそうなのだが、もしかするとこの場合は、師時の妻として「娶り」二人の子として迎えるという意味なのかもしれない。

北条師時が1275年生まれ、信時が1238年生まれである。

浅小井公宣の「宣」も宣時から拝領した一字だったと思われる。


北条師時の父宗政の妻に北条政村の娘が嫁いでいる。師時の母である。
政村には複数の女子がいた。
しかも、その娘の一人が夢窓疎石の母という説もある。
北条政村は1205年生まれとなっている。
夢窓疎石は1275年生まれである。
北条師時と同じ年に生まれている。
が、ココも一つの鍵と思われる。(北条政村の娘と夢窓疎石・北条師時のつながり)
もしも、本当であるならば「いとこ同士」である。

何かしら関係があるためにそのような説も出てくるのでは、と思う。

?-1320 金沢殿(北条実時室)
娘(北条宗政室)
娘(安達顕盛室)
娘(北条業時室)
娘(六波羅探題北方 北条時茂室)





北條師時を調べると(コトバンク)
「1275-1311 鎌倉時代の武将。
建治(けんじ)元年生まれ。北条宗政(むねまさ)の子。母は北条政村(まさむら)の娘。長門(ながと)守護,小侍所,評定衆,引付頭人(ひきつけとうにん)をへて,正安(しょうあん)3年10代執権となる。応長元年9月22日出家,その日に評定の座で没したとつたえられる。西殿とよばれた。37歳。通称は武蔵四郎。法名は道覚。」
「生年:建治1(1275)

鎌倉後期の幕府執権。北条宗政の子。弘安7(1284)年7月小侍所に就任,永仁1(1293)年6月19歳で評定衆・三番引付頭となり,正安3(1301)年8月,出家した貞時のあとをうけて10代執権となった。師時は貞時の女婿である。この師時の執権就任は,貞時の子高時が成人するまでの間の中継相続的な性格のものだったとみることができる。同年9月相模守。嘉元2(1304)年10月従四位下。応長1(1311)年9月22日出家(法名道覚),同日死去。一書には23日評定の座で死去したと伝えられている。<参考文献>福田豊彦「北条師時」(安田元久編『鎌倉将軍執権列伝』)

(新田英治)
…とある。

===*===

上記に「師時は貞時の女婿である。この師時の執権就任は,貞時の子高時が成人するまでの間の中継相続的な性格のものだったとみることができる。」とある様に、この師時の妻となったのが、貞時の娘かつ高時の姉妹であった、と言われている。

その高時は夢窓疎石との親交も持っていたそうである。
さらに北条貞時の娘は土岐頼貞の母と言われているが、これは明らかに間違いとなる。
北条貞時1272年生まれで、土岐頼貞は1271年生まれなので、ありえない。
しかし、ココで北条氏と土岐氏が繋がっていたということが事実にあったと思われる。(北条氏と土岐氏)

佐々木哲学校の記事では、その北条貞時は北条時定の間違いであろうと、言うことである。
http://blog.sasakitoru.com/201312/article_1.html
部分を紹介させていただくと
「時定は得宗北条経時・時頼兄弟の同母弟で、肥後国阿蘇社領を管理して阿蘇氏を名乗り、元寇では肥前守護・鎮西探題に補任されている。孫太郎定親の名乗りは外祖父北条時定に由来すると考えられる。また頼貞妻の父北条宗頼(相模修理亮)は、得宗北条時宗の異母弟であり、豊後守護大友頼泰女を妻とし、元寇に際して周防・長門守護を兼帯して長門探題に補任されている。頼貞の名乗りは摂津源氏の通字「頼」ではなく、北条氏に由来すると考えられる。このように土岐氏の外戚北条氏がいずれも元寇で西国に赴任しており、これが鎌倉末期に土岐氏の活動拠点のひとつが伊予にあった理由と考えられる。」

北条師時も長門守護代となっている。(ただし、名前だけであったかもしれない。師時9歳である。)
土岐氏の鎌倉時代後期の様子が垣間見ることができる。

===*===

さて、本題の乾氏に入りたい。

乾氏は上記にも書いたが
「浅小井家長の息は公宣「治部・播磨守」。その弟が「乾五郎」である。

北条師方の叔父にあたる「乾五郎朝房」 この「房」という字は北条貞房(大佛)の「房」であるかもしれない。
もしも貞房とすれば、父は大佛流の北条宣時である。



夢窓疎石の父方は、

佐々木経泰の孫で、佐々木朝綱の息である「夢窓疎石」。
経泰の詳細は分からないが、佐々木哲学校の記事によると
http://blog.sasakitoru.com/200505/article_8.html

「寛仁四年(一二四六)名越光時の乱(宮騒動)で将軍藤原頼経と名越流北条氏が失脚、宝治元年(一二四七)五月四日の宝治合戦で三浦氏が滅亡した。このとき泰綱・氏信兄弟は北条方に転身して三浦氏被官長尾景茂を討伐している。実はこのとき佐々木氏も動揺し、泰綱は長男経泰(左近衛将監)を廃嫡している。そして次男頼綱が建長二年(一二五〇)執権北条時頼邸でわずか九歳で元服した。足利氏でも、名越朝時の娘腹の長男家氏・次男義顕を廃嫡され、北条時頼の妹腹の頼氏を家督としている。両氏ともに嫡子の廃嫡で危機を乗り越えたといえる。このとき廃嫡された経泰の孫が夢窓疎石だ。」とある。

その綱泰の息朝綱の妻が北条氏か乾氏という事である。
もしかすると、佐々木朝綱と北条氏に嫁いだ乾氏との娘(=北条氏)との子どもであった可能性もあると思う。それが、乾五郎朝房の娘ではないか。または、何かしらつながりがあるのではないか、と思うのだ。

つまり、北条氏で且つ佐々木流乾氏の出という事を示唆しているのではないだろうか。

浅小井・深尾・乾氏と北条氏は、ちょうど同時代婚姻関係がある。


この佐々木経泰の父泰綱の母親は北条義時の娘である。これも年代的には少し?が付くが。

「仁治三年(一二四二)三月父信綱が没したが、このときの遺産相続は、母が本妻川崎為重の娘である長男重綱と次男高信には薄く、母が正妻北条義時の娘であった三男泰綱と四男氏信には厚いものであった。」とある。

佐々木氏と北条氏はこのように婚姻関係を繰り返し、幕府の中でも重きをなすようになっていったと思う。
その中に浅小井氏(深尾氏)も含まれていたという事になると思う。

但し、佐々木秀義からの系ではなく、いわゆる本佐々木と言われている系よりという事になる。
秀義につながる佐々木氏は、秀義から見て義光流の祖母がいて、本佐々木氏の方には行實・行定・行範からみて紀氏の母がいる。
紀盛家の娘は、浅小井盛実の祖母でもある。(三上盛実とも同一人物という。)

紀氏と言えば、源頼政と石清水八幡宮の紀氏、土岐氏の関係も出てくる。


(本佐々木氏と紀氏、源頼政周辺、土岐氏とのつながり)

===*===


土岐氏との関係に戻ると、

【美濃源氏土岐氏の歴史と文化】のぺージより

http://minogenji.html.xdomain.jp/page015.html

土岐頼貞   とき よりさだ
(1271~1339)は室町幕府初代美濃守護で、光定の七男である。
北条宗頼の女を妻とし、母が北条氏であり幼少期より鎌倉にて多くの名僧と知己を得、特に永保寺(多治見市)を開いた夢窓疎石との縁は深く、頼貞の生涯に亘っても、又美濃国の禅宗隆盛の礎ともなった。

佐々木氏も1300年中頃ではあるが土岐頼忠と佐々木京極氏が婚姻関係を結んでいる。
頼忠の養父が上記の頼貞となる。

室町時代になると、深尾氏も江北の佐々木京極氏に属すようになった。

(ほぼ同じころに佐々木京極氏の配下となる)

===*===

夢窓疎石の幼年時代は可哀想で、建治元年(一二七五)、伊勢国にいた佐々木朝綱(ともつな)の子として生まれ、四歳の時には騒動があり、一家は既に甲斐(かい)の国へ移り、そこで父に捨てられ母と二人で生き延び、更に母も亡くなってしまう。そうしてわずか8歳で寺の門をたたくこととなる。

私の疑問は、
何故伊勢国に佐々木氏がいたのか。
・その頃、浅小井氏の直系である深尾氏の深尾は北伊勢郡員部郡の深尾谷村にある。

何故甲斐国に逃げたのか。
・源義光の息義清の系が甲斐に流され土着していた。甲斐国市河庄。(夢窓疎石が門をたたいたお寺=平塩寺と同じ場所である。)
+加賀美遠光との縁があったのではなかったか。(遡ると兄弟)

何故東大寺を選んだのか。(1292年に奈良の東大寺で受戒する。)これは偶然かもしれないが、
・奈良に叔父がいて東大寺にとweb情報にあったが、東大寺に乾氏がいたという。

鎌倉時代には賢舜である。(建久2年から美濃国厚見郡茜部庄の件で文書が残っている。文永には預所に登用されていた。)彼の子孫は乾殿・乾方と呼ばれていたそうである。乾の方向と関係しているだけの呼び名であったかもしれないが。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/240142/1/shirin_093_5_603.pdf

<論説>東大寺大勧進円照の歴史的位置 小原嘉記 著

「寺領経営に長けた人物」と書かれている。

===*===

浅小井師方の妹は金澤流へ嫁ぎ、

浅小井師方は得宗家から分家した「宗政流」師時が始祖であったところに猶子となった。


乾五郎は、何流かはわからないが何か北条氏とつながりがあっても不思議ではないと思う。
これが今回の収穫であり、夢窓疎石の母が乾氏ではないか…という所から想像したことである。









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1 コメント

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Unknown (りひと)
2019-10-07 09:30:46
北条さんはなんだか本当知識があるんで家系もやたら入り組んでいるという印象があります。私が気になっている頼朝の辺りでの経験なんですけど。で現世でもちょっと北条さんの女系との縁がチラッと気配見せてきたんでどうなるか?今ワクワクしている所です。

夢窓疎石さんは、この前も調べていてかなり気になりましたよ。鍵握ってますよね。

南禅寺も中学か高校のグループ行動に入れた場所、なんかそうだったんだと昔の事が新しい知識で違う意味合いを感じましたよ。嵯峨野も気になるんですよね。
私は北条はかなり混乱させられるキーワードなので嵯峨天皇あたりで探索してみようかな?思ってます。
父は曹洞宗なんですけど臨済宗がこの辺りでは絡んでくるんですよね。禅宗とまとめて考えてみようかな?特に今また鎌倉辺りが気になってきて行基さんの観音のある杉本寺も自分の父のワークに関係してきそうなんですよね。柄の付く八幡もどうも藤太あたりに関係しているように思うんで関係者が間違いなくいっぱいいそうなんですよね。カラで変換したら、乾って出てきましたよ。なんか乾飯(ほしいい)って言葉もあるので乾燥させた物という意味もあると保存食の知識ある古代から関係者でもあると思いますよね。あと今東京では、粕という字の方がいっぱいいる地域に出会ったんですよ。麹とか糟とか粕っていうと食べ物のプロの家系いそうですよね。饗庭とか膳所とかも含めちゃいますね。

夢窓疎石さんのお父さん知らなかったです。
いい情報ありがとうございます。
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