[ 『日本書紀』は、元正天皇の養老4年(720)に完成したとされるわが国最初の勅撰国史(天皇の命で編修された国の歴史)。撰者(編者)は天武天皇の皇子の舎人親王(とねりしんのう)ですが、ほかに紀清人(きのきよひと)や三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)らが編纂の実務を担当しました。
全30巻のうち、巻1・2は神話的性格の濃い「神代紀」。巻3の「神武紀」以下、巻30の「持統紀」までは、年月の順に歴代天皇の事蹟や歴史上の事件が漢文で記されています。
『日本書紀』が用いた資料は、『古事記』と較べはるかに多彩で「帝紀」「旧辞」のほか、朝廷の記録や個人の手記、中国の史書、さらに朝鮮半島に関しては、「百済記」等も用いられています。巻28以降(天武紀・持統紀)は朝廷の日々の記録に基づく記述も増え、記述の信憑性を高めています。]
‥‥とwebページにある。
信憑性を高めている‥‥とのことだが、もちろん書きたくない事は省かれているのであろうと思う。
そのように編集したのが、舎人親王と思うが、持統天皇・藤原不比等からの圧力もあったろうと思う。
だが、崇峻天皇のことについて暗殺された後のことまで含めると16ページも割かれている。重要な事件であったと位置づけられていると思う。
なぜ、事細かに書かなければいけなかったのだろう。
本当にこの事件があって、あまりにショッキングな事件であったためその真相を明らかにしておきたかったのか、
はたまた、あたかも真実であったかのような印象を与えるためであったのか。
さらに、天智天皇・天武天皇の項のはじまりもアップしておこうと思う。
国立国会図書館デジタルで読めます!
天武天皇(下)