今日の記事には間に合わなかったが、下記の本、読んでみたいと思っている。
【六角定頼:武門の棟梁、天下を平定す (ミネルヴァ日本評伝選) 村井祐樹 著】
この六角定頼の父は高頼であり、高頼の弟が永原氏の娘聟高賢となったのだが、
そこで勘違いをした。
六角高頼の弟二人、が、二人共に「永原氏」に養子に入っていたのである!!

永原重行の娘聟として入ってきたのが【重賢】であった。高賢の弟の【重賢】であった。
ということになる。
九里と関係があるのは、永原重賢の妻=永原越前守重行の重賢の妻となった娘本人ではなく、たぶん、其の娘の姉妹である
そして、匿うために連れ出したのが、深尾元範の息元秀か、孫の秀長である。
【深尾元範】は、永正四年(1507年)卒去している。
という事は、その後は元秀が城主と為っていたであろうと思われる。
1507年から1525年の間に(1520年という話もあり)、ともかくその間に九里の【玉松】は六角高頼か六角氏綱・定頼の誰かに人質として出すように強要されたのだ。(1520年はちょうど水茎岡山城を開城した時である。可能性は大きいヵ)

深尾秀長の祖母は永原越前守の娘であったことになる!!
この深尾氏の祖母宅である永原氏が、九里の源兵衛を育ててくれたのではないかと思っている。
源兵衛が玉松とは限らないのだが、可能性はあると思っている。
若しくは、兄弟・親戚など、九里の血の入っている人物であると思う。
そのことが原因となったのか、この後には、深尾氏も、永原氏も、その直系はその後六角氏家臣ではなくなっていたようにも見える。(系図に書かれていなかったため、そのように想像)
同族内の別の系から仕えている人が出るようになっているのだ。
永原高賢の系が、その後の六角氏に仕えている。


深尾氏系図


永原氏系図


===*===
今回改めて-見た結果、九里備前守が騙されて殺された件は、定頼が16歳になったかならぬか、の頃である。
定頼は、酔ったふりをして備前守の膝上に横になり頭をもたげ、そこで寝入った真似をして備前守を油断させ、そのタイミングで六角家臣たちが入ってきて誅したのである。



定頼は、景徐周麟の弟子であり、幼き頃よりその教えを受けていたにもかかわらず…
しかし、きっと九里も似たようなことを多々やってきたに違いない。もっともっとひどいことも。
それが戦国の世であり、武士の世界であろうと思う。
さて、そんな中、九里の幼子に憐憫をかけてくれた【深尾秀長】
元秀1480年あたりに生まれ、1500年あたりに秀長が生まれたとすると、秀長は20歳の時に九里の幼子を連れ出して、その祖母である永原氏のところに連れて行き、その後逐電という事になったのだろうか。(秀行も、共に永原の許にいたような気もする)
自分の命もかかっているにもかかわらず、である。
これは、私が思うに、母か、妻か、許嫁が九里氏の出であったと思うのである。
若しくは、幼馴染同志であったか。
深尾氏・永原氏を巻き込んで「九里遺児を守る」ことに突き進んだのである。
有難い事に、そのご九里源兵衛が現れ(育ち)、その息たちもたくさんいたと思われる。
治兵衛?・三左衛門、采女正、…十左衛門までは源兵衛の息カ孫と思われる。
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ともかく、源兵衛につながった事で、今現在も【九里氏】が存在している。
他にいた可能性としては、菖蒲佐々木氏の許にいたかもしれない九里氏、割と初期に別系に分かれた和歌山の九里氏、だろうか。
九里氏とは名乗っていないものの、近いと感じられるのが千葉原氏の【原氏】であるが、こちらは良峯姓(前野氏につづく)とも関係がある為にそう思ったのかもしれない。
ともかく、源兵衛は、周辺環境が私の系に限って見てもぴったり!
きっと文字通りの源であるために、他の系の方々の周辺環境とも合っているのではないだろうか?
九里氏再興の祖が【九里源兵衛=九里対馬守】だったのである。


鹿苑日録の中の源兵衛は1539年の頃、永原氏と共に働いている!!
この源兵衛が1510年に生まれたとすると、山内一豊の父と同世代と成る。