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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

分かる字 分らない字〇 欠字● 

2024-02-13 | 九里【只今の状況・まとめ】

下 河守御荘観音
四至
東限 前岬水落 
西限 中尾西隠迫北
南限 私市庄境長尾
北限 赤坂尾上り貞久重色境なる槻 

この外中楽通梧(あおぎり)椆(しげる)迎土坪在之・・・「土」の文字は〇


右件 山林者為観音寺御本尊の敷地幷坊敷寺之寄進〇然者奉存天●(切れている)
〇久兼者御領主等の子孫繁富故〇
領内の沙汰人等亙(わたる)存代旨仍寄進〇件(必件?)以下
              
延應元年己亥 十一月六日 地頭沙弥蓮忍
******
以上、わからない文字が〇 欠字● 
やはり、久兼とは、人物名かと思う。
領主の「主」があっているか?

沙汰人:荘園においては下司・公文などの在地の荘官、あるいは在地の有力者で荘官の職務を代行する者を指す場合があり、「沙汰人職」と呼ばれる独自の所職が成立した例(若狭国太良荘)もあった。 (wikipedia)

そこで、久兼と地頭沙弥蓮忍とは「領主と地頭」という関係でありながら、地頭が寄進の文書を書いているのは、何故だろうか。依頼された?もしくは血縁関係があって相伝し、寄進した?

久兼の前の一文字が「地」に読めたが、実は「〇」こそが、名字なのではないだろうか?「紀」か?
「江」ではないようだが。

紀久兼、確かに鎌倉初期あたりにまだ存命であると思う。

本の内容は見えなかったが、【藤原隆親母・藤原雅長】と共に文書がある。
年代も鎌倉前期のようである。河守御荘は四条家と関係があったので、これは「紀久兼」有力かもしれない。


藤原維俊・紀久兼・中原為弘・紀成兼ともあるが、これは年代が1156年周辺と思われる。






右辨官史 伴朝臣久兼 従七位上 (1148年)

2024-02-12 | 九里【只今の状況・まとめ】
大江久兼・中原久兼の他に、同世代と思われる【伴朝臣久兼】を見つけた。

稲沢市の市史に載っていたのだが、稲沢市とは古代には尾張国の国府が置かれて政治の中心であった。旧中島郡の一部であったそうだ。


尾張国 中島郡 拝志郷 一宮市南西部、稲沢市北東部、稲沢市国府宮町。

久安四年(1148年)伴朝臣久兼がみえる。


1144年に右史生 大江久兼・1148年に右辨官史朝臣久兼
1158年に外記史生中原久兼
と、3つの名がみえる。

その後が確認できたのが、山城介久兼(大江)である。
1166年に左少辨(従五位下)となっている。

ここに留めて置き、また機会が訪れた時に検討したい。



蓮忍寄進状 文書に挑戦 お願いいたします。

2024-02-08 | 九里【只今の状況・まとめ】
福知山市大江町南山  観音寺蔵  十七冊
 蓮忍寄進状 延応元年(1239)
 観音寺は『略年代記』によれば、貞永年間(1232)に僧蓮乗によって再興され、十一坊が建立されたとあるが、この文書は、その直後に、当地方の地頭、沙弥蓮忍が観音寺に寺領を寄進した際の寄進状である。観音寺が、河守御庄観音と表記されていることが注目される。また、中世の当地方で地頭と称する人物が確認できる唯一の例が、この沙弥蓮忍である。


此の後に見えるのが【左衛門尉頼広寄進状】 文和二年(1353) で、
秀郷流の尾藤氏で、尾藤頼広 と思われるそうである。

この関係自体も中原久経と経久(沙弥蓮忍)を思い起こさせる。
領主は久兼で、地頭が沙弥蓮忍という事であろうと思う。

この土地自体が大江山であるため、久兼も中原であったが【大江】を名乗ることになった…など、何かしらあるかもしれない。

文書の真ん中にある、「寄進◇然者」、其の下の「天◇地」◇は何と読めるだろう。

「久兼者領主」‥‥御をつけているという事は、血縁関係者ではない可能性があるのではないだろうか。ただの領主と地頭の関係。
しかし、そうであるならば勝手に寄進をしてはいけないのでは‥‥?と心配になる。領の主…もアヤシイ。違っているようにも、見える。

特に寄進の後から、おねがいいたします!!!!!



大江久兼(中原久兼)としていたが、本当に同一人物なのだろうか?

2024-02-08 | 九里【只今の状況・まとめ】
保元三年(1158年)

この後、中原久兼は見えなくなり、

仁安元年(1166年)大江久兼




仁安元年 の大江久兼 従五位下となったようだ。


仁安二年 大江久兼 山城介となる。

そうして、1189年迄の文書がみえる。

同一人物のようにも見えるし、中原の久兼が若くで亡くなった…とも考えられる。
もっと調べてみると、1144年にすでに「大江久兼」を見つけた。
両方を使い分けていたか、もしくは別人か…判断がつかない。

(文書の右にある康和は間違いで、康治のことと思われる。)


1144年がデビュー(初の出仕)であったかもしれない。(想像)
とすれば1120年代の生まれであろうと思われる。

中原久経の父とすると、年代はぴったりである。
(因みに大江久経も存在するが、年代が合わない。)

中原か、大江か、わからなくなってきた…

以下の高松院は姝子内親王のことだそうだ。


大江久家と中原久家、同世代である。 西浅井町阿弥陀寺の胎内納入文書には中原吉弘の名が!

2024-02-07 | 九里【只今の状況・まとめ】
この大江久家は【山城江次久家】となって文書に登場する。
(久兼は山城介であった。)
下記の文書では【若宮陪従江右近将監久家】とある。







【多好方】コトバンクより
1130-1211 平安後期-鎌倉時代の雅楽家。
大治(たいじ)5年生まれ。多近方(ちかかた)の子。建久2年源頼朝にまねかれて鶴岡八幡宮の楽人らに秘曲を伝授し,飛騨(ひだ)(岐阜県)荒木郷をあたえられた。一者(いちのもの)を22年間つとめた。建暦(けんりゃく)元年6月5日死去。82歳。

*****

一方、延応元年(1239年)に譲り状を書き、その後、朝厳法師が亡くなる。
その嫡子が1247年に
能登国高畠荘加納小柴村(こくぬぎ・むら)の地頭職を相伝したという。【中原久家】という。







中原久家の父は【朝厳】という。中原には親厳・基厳がいるため、つながりがあるかもしれないが、系図には見えない。





そして、太政官使 中原吉弘が気になって調べてみると、近江国の人物らしい。

以下の胎内納入文書の中にその名が残されていた。もと伊香郡であった西浅井町である。



中原景康と中原経久 ほぼ同時代の生まれと思われる。

2024-02-04 | 九里【只今の状況・まとめ】
近江国御家人井口中原系図で、年代を調べてみた。

中原成俊が両系統の先祖であり、経行と成行の兄弟の父である。

成俊ー経行ー光経―経盛ー経貞ー経賢ー賢清ー経任ー経久
成俊ー成行ー隆行ー依景ー吉景ー景基ー景真ー景康

系図ではひと世代分違うが、成行は年の離れた兄弟であったかも知れず、また婚姻の年代もばらつきがあったとも考えられる。
また、養子縁組もあったのではないかと思う。特に名前が隆行から依景と変化しているあたりが気になっている。

さて、活動期だが、
景康は1205年右兵衛尉に任ぜられてから、右近将曹 、左近将監、と昇進し、
1225年に東国へと赴き、1237年に鶴岡八幡宮への御神楽奉納のため、大江久康に神楽歌を伝授するよう御教書 が出され、伝授し、大江久康を養子とすることとなる。

景康は、1190年前後位に生まれたのではないだろうか?1185年とか。
息の友景は1210-15年頃に生まれ、後嵯峨院(1242年から在位)の北面武士であるので、だいたい良いのではないだろうか?

一方の経久は1175年生まれと思っている。孫が1235年に唐崎で討死していると思うので、だいたい合っているだろうか?

なぜ、久兼の所領(河守荘)が沙弥蓮忍に相伝されたのか。
その久兼は、本当に大江久兼なのかどうか、中原久経の父なのかどうかも含め、調べてみようと思う。

何かしら情報が出てくると良いのだが…

大江久兼を山城介久兼で検索すると、新たな情報も出てきた! 次へ続く。
山城介久兼は文治五年あたりまでの記述がある。(吾妻鑑)



大江久兼の息(または孫)の久康は中原景康の養子となる。だが、中原景康と大江景康は別人である。

2024-02-04 | 九里【只今の状況・まとめ】
大江久兼(平安中期から後期・鎌倉初期)と紀久兼(平安前期・鎌倉初期~後期))も別人であった。

『大江久兼』
天養元年(1144年)に帷子がネズミにかじられ…と…(大江久兼は右史生)
まだ若い頃と思われる。↑

仁安元年(1166年)に山城介(従六位上)、同じ年に左少辨(従五位下)となっている。
(大外記清原頼業と同時代に名前がみえる)

さて、大江久兼の息カ孫の『久康』が中原景康より秘曲伝授させてもらったのだが、気に入られたのか、景康の養子となっている。
この二人、実はあまり年が違わないのでは?と思うのだが、雅楽の世界では伝授した場合このように養子縁組するものなのかもしれない。

景康の息光氏も狛氏に唱舞を伝授してもらい、養子(猶子)となっている。
光氏1218年生まれである。

因みに経久(蓮忍)の息カ甥の常忍は1216年生まれである。



河守荘の領主であった『久兼』は沙弥蓮忍の先祖とも思われる。
沙弥蓮忍は地頭となって丹波国河守御荘にいたわけだが、領主でもあったのだろうか?

彼の後に沙弥明浄、平賀氏、細川氏、京極氏とこの荘園が渡っている。なぜだろう。

大江久兼の息に久家・久康(・久経…想像)がいて、久経の息カ甥に経久がいたのではないだろうか? 

中原経久は九里太郎で、かつ沙弥蓮忍・蓮忍入道のことである。

この時代大江氏と中原氏は系図上でも重なりがあり、また、両方を使い分けている節もある。別人のこともある。
非常に紛らわしい状態なのだ。

大江久経が一名見つかった。
『1261年に北面』は中原久経ではありえず、別人となる。






楽家録 巻之十六 絃管系図に 畠山重忠と梶原景秀(季)の名が! そして大江久兼

2024-02-02 | 九里【只今の状況・まとめ】




畠山重忠と梶原景秀(季)は、ちゃんとレッスンを受けて、伝授されていたのだ!

突然担当になってよくできるなぁ~と感心していたのだが、正当な教えをいただいた後に鶴岡八幡宮で奏したのであった。

其の重忠の右に 大江久家(江次久家)の名がみえる。
父の久兼は大江とも中原とも名乗っていたようで、どちらの名でも検索に引っかかる。
さらに紀久兼も、紀久経も存在している。こちらは年代がわからないことからも別人の可能性も大きいカ?

さて、加佐郡河守荘はその後どのようになっていたのか。





尼きやうくわんは貞泰の室であったと、砺波市史 資料編 1にある。
1321年のこととなり、沙弥蓮忍の文書から82年もあとのことである。

大江氏が事情があり手放したか、もしくは婚姻関係により渡ったか。


平賀氏を調べてみると、平賀義信の息が大内惟義となる。
コトバンクによると以下のようになる。
「生年:生没年不詳
鎌倉初期の武将。源義光の曾孫で平賀義信の子。一の谷の戦(1184)では源義経に従って戦い,その直後に伊賀国守護に任じられた。大内の呼称は同国大内庄(上野市)に由来するが,惟義がこのときに同庄に本拠をおいたのか,あるいは以前からなのか,定かではない。伊勢,伊賀両国の鎮圧に功があり,文治1(1185)年には相模守に任じられた。源頼朝の死後は在京することが多かったようで,後藤基清らの逮捕,梶原景時の残党の追捕などを行っている。また後鳥羽上皇にも仕えるようになった。源氏一門が次々と排除されていくなかでよくその地位を保ち,数カ国の守護を兼任,駿河守,修理権大夫などに任じた。承久1(1219)年ごろに死去したと思われる。
(本郷和人)」

*****


大内惟義の妻は藤原秀宗の妹となっており、此処で、源光基(土岐氏)とつながる。光基の娘は藤原秀宗の室となっているのだ。

更に平賀氏と日蓮宗は深く繋がっており、過去帳が残っている本土寺平賀氏の屋敷であったそうだ。

また、平賀氏から【日朗】
(父:平賀二郎有国。母:印東治郎左衛門尉祐昭娘 )
という弟子が育っており、富木常忍が病に陥った際には付き添って一週間も看病してくれたそうだ。ありがたい。


*****

此の河守荘と関係のある平賀貞泰の先祖が平賀義信・朝雅か?

武家家伝平賀氏に詳しい系図があり、それによると義信・朝雅とは別の系のようである。残念…

大江久兼 息の久家・孫?久康 が 【中原景安】(中原祐安の養子 : 近江国?)とつながる

2024-02-01 | 九里【只今の状況・まとめ】


沙弥蓮忍の河守荘の文書より大江(中原久兼)からの相伝と思われ、それを基に調べることとした。

以前からお世話になっている論文
『初期鎌倉幕府の音楽と京都社会 ―の音楽受容とその基盤 ー』渡邊浩貴 著

この中にとびきりのヒントが隠されていた。
鎌倉幕府が多好方に鶴岡八幡宮神事のために大江久家以下十三名に神楽秘曲伝授を依頼し伝習させたという。(1191年)
さらに中原景安が大江久康に秘曲伝授することとなり(1237年)

此の音楽儀礼のために雅楽・舞楽の伝授をし、鎌倉に持ってくる役目を担っていたメンバーに大江久兼・久家・久康が入っていた事は、大きなつながり!と思う。



なぜこのメンバーに選ばれたのかを考えるに、長男であろうと思われる久経の母が東国・下河辺の裔であり、源義朝の妻であったことが大きかったのではないだろうか?

次男久家・右近次郎?久康(久家の息か?)もまた、東国とのパイプはできていたが、軸足は京であったようだ。
この論文によると久家は近衛府官人久康は蔵人所の所衆とある。

此処で、近江国の中原氏とつながったのである。
大江久康の「」は、中原景安(景康と系図にはある!)の「康」をもらい受けていることが証のように思えるのである。

そのあたりを調べると、本当に出てきたのである。奇跡~!





久経の名の書かれている、大江広元の文書も見つかった。


今回のことで、沙弥蓮忍が大江久兼とつながっていること。
また、近江国御家人井口中原系図の中の、九里の祖と同じ系図の中の景康と大江久兼の孫が繋がっていることが判明された。

此の蓮忍入道が経久で、久経とつながっていることはまだ未解明だが、近くなったように感じている。

大江久兼 コトバンクによる
?-? 鎌倉時代の幕府官僚。
源頼朝の招きで,幕府の神宴をとりおこなうために元暦(げんりゃく)2年(1185)京都から鎌倉におもむいた陪従(べいじゅう)(楽人)。文治(ぶんじ)2年には幕府の使節として京都にいく。その後,伊勢(いせ)(三重県)治田御厨(はったのみくりや)の所領紛争の調査などにもかかわる。
伊勢常楽寺荘の地頭であったともいわれる。 







関東流中原氏 と 因幡国の大江広元裔の中原氏

2024-02-01 | 九里【只今の状況・まとめ】
復習の意味も込めて、勉強し直し!

基本ともいえる「姓氏家系大辞典 ナカハラ」より 中原久経や九里と繋がりそうな項目を選んでみよう。


① 広宗ー広忠ー広季ー親能・広元(広光)・章弘
この太字人物達の年代少々後に中原久経・政経がいたはず。



②江州中原系図の【賢清】に続くのが 経任ー経久(九里の祖・沙弥蓮忍)となる。




③25にある若狭の中原氏と伊香郡にいた経行(経憲)の系は関係がありそう。
27にある因幡の中原氏 も 沙弥蓮忍と常忍が赴いていることから、大江氏と中原氏の重なりの中にいる中原氏が九里とつながっているのだろうと仮想している。28の矢部氏も後に冨城郷にも所領があったそうである。(Wikipedia:暦応3年(1340年)には矢部綸綱による因幡国千土師郷の押領が確認されるほか、法美郡富木郷にも所領があったことがわかっている。 )



ピンポイントで言うと、この辺りにいるはずの【中原久経・経久】である。

また、丹波国加佐郡 守荘も室尾谷観音寺に寄進をしていることが文書に残っており、同一人物(蓮忍)と思われるが、確定はできないでいる。
大江山の近くの荘園である。
延応元年(1239年)の文書なので64歳となる。(が、生まれ年も1175年と仮定しているが違っている可能性もあるので、此処に書き留めておこう。)



大江久兼(中原久兼)が文書に残っているのが保元~仁安ナノで、此の沙弥蓮忍の父親に当たる? 
(読みがあっていれば…だが。)

もしもそうだとすると、大江久兼(中原久兼)が久経の父となるか?!

このあたりは、麻呂子親王の伝承(鬼退治)がある場所である。

多禰寺