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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

比企氏を巡る雑感。

2019-01-24 | 大中臣氏

ここ、何日間か比企氏のことを調べ考えている。

① 比企局に関して

web情報を総合してみると、比企局は三善康信の伯母にあたることとなる。

三善康信の母親は大中臣倫兼の娘であり、長女は源頼朝の乳母であった。
その長女が「比企局」にあたると思われるのである。
つまり、比企掃部允の妻は、大中臣氏であったこととなる。

京から三善康信が近々の様子を送り届けていた際には、直接ではなく、この比企局を経由して手紙と武蔵国で採れた食料を共に頼朝に届けていたのではないだろうか。

そして、この比企という土地の近くに毛呂があり、藤原季仲の子孫が住んでおり、お米の足りないときには、毛呂氏のお米を譲り分けてもらい頼朝に送り届けていたそうである。

比企掃部允という比企局の夫となる人物も、京にいた人物となり、頼朝を支えるために比企に、戻ってきたようである。
「戻ってきた」という事は、もともとはこの土地の人であったのではないだろうか。

比企の周辺地図と歴博の荘園の情報を見ると
『和名抄』比企郡都家郷の地が「トキ 都畿庄」とある。(トキという名も気にかかるが。)
すぐ近くには、吉見庄(源範朝の領地)、亀井庄(亀井六郎重清の亀井か?)、大河原庄(坂戸)、がある。



比企氏は江戸時代には斎藤を名乗ったそうだが、それも土岐氏が斎藤氏とつながっていたことや、大中臣氏(清原氏)が斎藤氏と関係があったこととも関係があるのではないかと想像できるのである。鎌倉幕府の評定衆の斎藤浄円も清原の系図の中にいる。その清原氏は大中臣氏と系図が重なっていたりもする。


上記の三善康信の母は大中臣であり、同じ系かどうかは分からないが、越後の三善氏は親鸞の妻となる恵信の出身地である。

つまり、藤原日野氏と三善氏は、その関係から繋がっている。



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②比企能員のことである。

能員は、比企局の実の息ではない。

東京大学史料編纂所のデータベースの大日本史料総合データベースの102件の中には、能員は三浦義澄の家子とある。(家子=武士団の構成員のこと)
本にもそのように書かれていた。






また、比企能員の息である能本の創った妙本寺にある墓の?記載に「能員の妻 三浦氏 妙本」とあるのだ。
という事は、妻を三浦氏からもらい、比企氏となる前は三浦氏の婿養子であった可能性があるのではないだろうか。そして比企氏の乱後に能員の妻とその息を預かった和田義盛も三浦氏である。








比企家に残る『系図』らしきものによれば、若狭局の実弟(圓顕…当時2歳)が比企能員の妻(圓顕の母)と共に『和田家』お預けになり、許されて、京都の『東寺』に帰依したとあります。(真言宗の学匠とある)…と
また、
比企能員の嫡男(比企四郎時員)が『比企の乱』で自害した時に、その妻が既に妊娠しており、無事生誕し『比企次郎員茂』を名乗り、『圓顕』の保護のもと、京都の順徳院の北面武士として仕えたとあります。…と、

以下のページに詳しく載っていたので、一部を紹介させていただいた。↑
http://www.hikoshima.com/bbs/heike/100220.html

もう一つ能員で気になったことは、愚管抄の記載である。
「阿波の出」と愚管抄にはある。その「阿波」は「安房」ではないか、とwebにもあったので、これも参考としたい。

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/hiki1.htm


三浦一族の主な人物・系図 https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/2120/culture_info/miura_ichizoku/keizu.html

三浦義明(1092一1180)『衣笠城で討死。源氏の再興に忠誠を尽くした老将』
義明は三浦庄司義継の嫡男。世襲の官である相模介に任じ、三浦大介を称しました。三浦介の称号は武家の名誉称号として、こののち三浦氏宗家に世襲されました。
義明は一族団結のもとに、周辺豪族との姻戚関係を築き、房総の各地にもその勢力を拡大し、三浦一族発展の基盤をかためました。治承4年(1180)源頼朝の挙兵で、衣笠城は河越重頼・畠山重忠ほか平氏勢に囲まれました。ときに三浦大介義明89歳「老命を武衛(頼朝のこと)に投げうって子孫の勲功に募らん」と、義澄ら一族を頼朝のもとに赴かせ、ひとり源家再興に殉じました。
この義明の決断で三浦一族はその勢力を保ち、頼朝の安房(千葉県)再起の原動力となったのです。

三浦義澄(1127一1200)『源頼朝の信任厚く、幕府を支えた智将』
義澄は三浦義明の次男。通称荒次郎。三浦介・相模守護。三浦郡矢部郷に在住しました。義澄は頼朝挙兵で衣笠城に囲まれましたが、義明の指示で一族とともに安房(千葉県)に渡り、頼朝軍に合流しました。敗残の頼朝軍は、三浦勢に歓喜したのです。
鎌倉入りをはたした頼朝は、累代に亘る三浦一族の忠誠に篤く報いました。義澄は幕府御家人の長老の一人として重きをなし、和田義盛・佐原義連ら庶流の興隆もめざましいものがありました。建久3年(1192)義澄は、鶴岡八幡宮において、頼朝の征夷大将軍叙任・除書請取りの大役をはたし、その面目絶妙なりと称えられました。

三浦義村(?一1239)『三浦一族の最盛期を築いた謀将』
義村は三浦義澄の嫡男。通称平六。その生年は不詳。駿河守・幕府評定衆。頼朝挙兵に父義澄とともに転戦しました。義澄は重厚篤実な武士として知られましたが、義村は北条氏と連帯し、そのしたたかな政治手腕を発揮して、北条氏に次ぐ実力者として繁栄をきわめました。
正治元年(1199)頼朝の没後、北条氏は執権体制強化のために、有力御家人を相ついで誅殺していきました。この間義村は北条氏に加担して、その連帯は変わることがありませんでした。
こうして北条氏の勢力はゆるぎないものとなり、皮肉にも三浦氏は北条による執権体制確立に、最後の障害となったのです。義村の死を待つようにして起こった宝治合戦で、嫡男泰村はあえなく敗れ、ここに鎌倉幕府創業の豪族三浦氏宗家は滅亡しました。

佐原義連(生没年不詳)『「鵯越の逆落とし」で真っ先に駆け下りた勇将』
義連は三浦義明の子。通称十郎。三浦郡佐原郷に在住。左衛門尉。平氏追討一ノ谷・鵯越の合戦では、先陣を駆けて勇名をはせました。養和元年(1181)義連は三浦の地で、頼朝に対し「下馬の礼」をとらぬ、上総介広常をとがめました。また頼朝臨席の宴で広常と岡崎義実の論争を、「老狂のなせるわざか」と制した義連の器量は、頼朝の意にかない、側近に近侍してその栄達は目覚しいものがありました。
ついで北条時政の三男時房の元服に、加冠の役をつとめるなど、北条氏との調協にもぬかりはなかったのです。佐原氏は三浦氏宗家・和田氏にならぶ豪族として発展していきました。
そして、宝治元年(1247)宝治合戦で三浦氏宗家が滅亡したとき、佐原氏の主流は北条氏を支援して、義連の孫「盛時」が三浦介を継承しました。
こうして、「佐原流三浦氏」は、盛時からさらに270年、戦国時代の初頭、永正13年(1516)三浦道寸義同(よしあつ)が新井城に滅亡するまで、動乱の時代を相模の雄族として活躍しました。

和田義盛(1147一1213)『鎌倉幕府創業の功臣初代侍所別当』
義盛は三浦義明の嫡孫。父は椙本義宗。通称小太郎。三浦郡和田郷に在住。左衛門尉・侍所別当。頼朝の安房再起に義盛は、「平氏を討って我を日本国の侍別当になし賜え」と頼朝に願い出ました。「世にあらば左右にや及ぶべき、約定ぞ」と頼朝は応じ、この場違いな応酬に笑声もあがり、士気は高揚したといいます。
この剛直な義盛の言動から、「三浦大介義明の嫡孫は我なり」の気魂を見ることができる。しかしそこには三浦宗家との対立の萌芽もあったのです。のちに和田氏はその官職・所領でも、三浦氏の宗家を凌ぎました。
正治元年(1199)頼朝の急逝で、北条氏は幕府執権体制確立を急ぎ、御家人粛清に動きだしました。和田氏はその最大の標的となったのです。
執拗な北条氏の挑発に、義盛は兵を挙げ勇戦しましたが、起請文を交わした宗家三浦義村に背かれて敗れました。この和田氏の滅亡により、三浦一族の勢力は大きく後退し、北条氏による覇権の成立は確かなものとなったのです。


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大中臣氏と比企氏
大中臣氏と清原氏
大中臣氏と野本氏(三浦氏からの妻あり)
大中臣氏と三善氏
大中臣氏と…

ここには、中原能兼はいないので、この迷路は、これにて終了とします。
和田宗実とも近いところにいて、秀能など「能」の字も付いているので、つながりはどうかな?と調べてみたのでした。

比企氏、こんなにも働き者であったのに、悲しい結果になってしまって。
梶原氏も、比企氏も、和田氏も、三浦氏も、毛利氏も、…「昨日の敵は今日の友」の反対のようなことになってしまう鎌倉時代。

よく生き延びたなぁ、ご先祖様方。




春日社 中臣氏と大中臣氏 

2019-01-03 | 大中臣氏

突然であるが、「能兼」を探している間に見つかった論文である。鹿島と奈良をつなぐ中臣氏など今まで知らぬことばかり。興味深く読めた。

https://core.ac.uk/download/pdf/96979151.pdf 国立公文書館所蔵『春日社行幸記』石附敏幸 著

春日行幸の開始と春日社神主職の成立

神主・正預・若宮神主を春日社の三惣官といい、彼らに従う社司・神人もそれぞれ三方に別れている。若宮神主は院政期に正預方から分立したものであるから、それ以前は神主と正預の二系統に分かれていたことになる。
両系統とも中臣系氏族により占められているので、両者は一見親密な系譜関係にあるかのように錯覚するが、実は全く異なる氏族である。すなわち、正預は中臣姓(正確には中臣殖栗氏)で、奈良時代の神護景雲二年(七六八)に鹿島の祭神を春日に鎮斎した神宮預時風・造宮預秀行の兄弟の子孫である。春日社を創始して以来、その地に居住して奉斎してきたのは、この正預の系統の中臣氏であった。一方、十世紀後半以降、中央貴族の大中臣姓(正確には大中臣氏「一門」)の神祇官僚が春日の地に下向し、やがて現地に居住するようになったのが、春日社の神主の系統なのである。正預方=中臣氏、神主方=大中臣氏という別は絶対であり、人事面で中臣氏と大中臣氏が混交することは決してなかったのである。

春日大社は、奈良朝の神護景雲二年(768)鹿島の武甕槌神を奈良の御蓋山に迎え、次いで香取の経津主命、枚岡の天児屋根命と比売神を併せて、同年十一月九日、麓の現在地に南面する四所の神殿を造営したのにはじまる。と、同社に伝わる『古社記(鎌倉初期に成立)』に記されている。

平安ごく初期には官祭となていた『春日祭』が、三勅祭(加茂・石清水・春日)のなかでも氏神祭の典型といわれることからも理解されるが、この氏神信仰は藤原氏が最も栄えた摂関制の十一、二世紀代その頂点に達する。行幸啓や春日詣とそれに伴う神宝の奉献、社領荘園の増大、社頭の整備、そして長承四年(1135)には若宮の創建と、例祭の『おん祭』がその翌年から始まり、信仰層は貴族からしだいに武士、庶民へと広がっていった。

春日大社の神主は中臣氏で、鹿島の神が御蓋山に迎えられたとき、お供をしてきた中臣時風・秀行の子孫という。兄弟は鹿島からの長い旅路の途中、名張の薦生山に御休みの際、神様からいただいた焼栗を植えて芽が出たという芽出たい故事によって、殖連という称号を賜った。
そして、奈良の御蓋山に無事鎮座された神様に、二人は自分たちの住む所を伺ったところ、この榊の枝の落ちた所に住むがよい、と投げられた榊の落ちた場所は、近世の「添上郡辰市郷」で、春日社からは約五キロの所であった。平安末期の社家の日記には「市預」とか、「三橋預」「椎木預」などの文字が見える。これは名字の生まれる以前の時代、春日の預職が管理していた各神領(荘園)の地名を冠して呼ばれていたもので『市預」とは辰市に住む預、という意味であった。したがってこの時代は、平素は神領の在地荘官を兼ね、お祭などの日には春日の神前へ参勤していたものと考えられる。

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別なweb情報より。http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/nakatomig.htm

栗原勝、中臣栗原連(録・右京未定雑姓。栗原-美濃から甲斐に分る)、栗原宿祢、宮勝、宮宿祢、均田勝、中臣美濃連(中臣美乃連)。なお、美濃国不破郡の岩手、竹中(半兵衛家)、栗原、四宮等は栗原連の族裔か。

栗原勝関係諸氏は居住地(美濃国不破・各務郡など)や勝姓などから、百済国人淳武止等の後という不破勝・不破宿祢(不破郡南宮神社祠官の不破は後裔か)と同族であった可能性がある。そうすると、雷大臣命の子の日本大臣命の後裔と称する栗原勝の系譜に疑問が出てくる。中臣美濃連を含めて、中臣連とは別系(例えば、和邇氏族ないし物部氏族)の流れか。
美濃国安八郡大井庄の大中臣氏はこの族裔か、その苗字に大井があり、江戸初期の大名で後に断絶した美濃出身の西尾も一族か

下記とも関係があるように思う。
 
http://hidemichitanaka.net/?page_id=244「高天原は関東にあったーー鹿島神宮とタケミカズチの神の研究」




甲賀郡「牛飼」と 杣(そま)

2018-04-25 | 大中臣氏

牛飼という土地の名前から何がわかるのだろうか? と探した結果、「杣」というお寺に使う用材の産地だったのではないだろうか?(私の記憶では東大寺再建の際に杣出しとして、佐々木高綱が周防にまで行っている。その「杣」)

行ったことのない土地なので、違っていたらスミマセン。



確かに、甲賀郡杣という場所の中に「牛飼」の名前が見える。

古くは、大中臣諸魚が、近江国司であったこと、また次の代には近江国司紀梶長が東大寺の造営に関わっている事、も何等か関係があるだろうか?

ともかく、大中臣氏は牛飼に住んでいたのだと思う。
その地の近くに九里乗如が「飯童寺」の(昔は「般童寺」)僧としていたはずである。




近江に住んでいた「大中臣親光」 この人が美作で、本郷氏になったのか???(メモ)追記記入

2018-04-24 | 大中臣氏


この系図の「住近江国」の下に「牛飼い」とある。親光は近江国で牛飼いをしていたという処まで続いているようである。
とすれば、その右横の「女御道子 行長」は何を意味しているのだろうか。

女御道子と言えば、白河天皇の女御である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%81%93%E5%AD%90_(%E5%A5%B3%E5%BE%A1)

父は内大臣藤原能長、母は源済政の娘

どのように行長とつながるのであろうか?
女御道子と行長…

親光の父「親宗」の註には「女御基子侍長」とある。
この親光も「女御道子侍長」なのではないだろうか?

とすれば、その職の後に、牛飼いになったのであろうか?
その当時の「牛飼い」には何か隠された意味があるのだろうか?

馬飼いの間違いもあるかもしれない。午年と書くので。