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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

佐々木備中入道崇西「金田殿」の娘の嫁ぎ先は【土岐頼清】であった。

2019-06-03 | 土岐氏

1315 正和4年 9月7日 宮城家本明智系図 ○土岐頼清の男頼康池田郡小島で誕生、
母は佐々木備中崇西の女。



佐々木頼綱(一二四二-一三一〇)泰綱の次男。
母は足利氏(沙々貴神社所蔵佐々木系図・六角佐々木氏系図略では「母足利頼氏女」とするが年代が一致しない)。
壱岐三郎。左衛門尉、検非違使、大夫判官、従五位上、備中守(『吾妻鏡』『尊卑分脈』など)。
佐々木備中入道崇西。「金田殿」(『比牟礼八幡宮領条々』)。

金田と言えば、九里氏の居城であった「本郷城=久里城」があった場所。
この時に佐々木氏の娘について行った家臣もいたかもしれない。



土岐氏と伊予国河野氏

2019-05-22 | 土岐氏

土岐頼貞の息に「道謙」がいる。
「宮内卿律師 道謙」「道謙法師」である。「乾氏の祖」と記述されている系図もある。

いろいろと調べているうちに、この道謙のことが少しわかってきた。

まず、和歌が上手で土岐頼貞とともに何首も歌が残されている。
太平記第14巻には『土岐弾正少弼頼遠、舎弟の道謙』という記述もある。

「道謙」は「道源」と書かれている系図もある。

下記の系図は「渋川系伝本補、附士岐頼貞一族考証(下)」佐々木紀一 著 からである。 



『伊与六郎』という名がこの系図にある。
そこが気になり調べてみると、以下の如くであった。

http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/jiten/to.html

【土岐頼清】
土岐頼貞の子で、「伯耆六郎」と呼ばれた。もともとは「頼宗」と名乗っていたという。兄弟順とは別に母親の身分からか当初から嫡男と見なされていたようである。

その事績はほとんど不明だが、父・頼貞に従って足利尊氏について各地に転戦していたと思われる。『梅松論』では建武3年(1336)に足利尊氏が九州から東上する際に伊予から「土岐伯耆六郎」が河野一族と共に合流したとの記述があり、早くから四国方面で活動していたことをうかがわせる。

上記の説明では伊与六郎(伊予六郎)と頼宗、伯耆六郎、頼清が同一人物となっていると思う。

が、上記の系図では、頼清と頼宗は別人となっており、頼宗が「伊与六郎」を名乗っていることがわかる。隣の「々々」が「伯耆六郎」であるため頼清のことと思われる。

さて、道謙の話に戻そう。
「道源」「道賢」「道謙」と系図に拠って様々に書かれている。
が、この法名の「道」の部分は共通で、「道」が自分の本来の名前(や、一族の通し字)と共通している可能性を感じる。

つまり、土岐氏の通し字は「頼」であるが、この人は違っているのである。

法名をつける際、全く別の名前になる場合もあるが、自分の本来の文字を一字入れたり、音を入れたり、もある。

この場合「道」に通じる「漢字」か「音」が本来の名前についていたとすると、それは伊予国河野氏の通し字ではないだろうか?

河野氏は「通」が通し字である。音がおなじ「みち」である。

頼直と同じ母というので、土岐氏系が母親であったかもしれない。
父は=つまり土岐女の嫁ぎ先は「伊予国河野氏」であったのではないだろうか?
ちなみに、この頼直は「伊予守」 侍所頭人・尾張国守護代であった。

かなりいい加減な発想であるかもしれない。が、自分の勘なので、もう少し調べてみようと思う。



三栗は「美作」で「みまさか」ではなく、「みつくり」であった。本郷氏の前身はこの【みつくり】だったのではないだろうか?

2019-05-17 | 土岐氏

土岐氏の本 「美濃・土岐一族」谷口研語 著 新人物往来社 をご紹介いただき読んでいる。

その中の117・118頁【名字分出を中心とした土岐略系図】
土岐光時の二男「光仲」(三栗)とある。
三栗⇒美作⇒箕作 と音は同じなのである。

しかも箕作阮甫の註に
箕作家は宇多源氏佐々木氏の支流といわれ、室町時代に六角定頼が、近江国箕作城(現在の滋賀県東近江市)に住んで箕作を称したのに始まる。その後箕作家は、戦乱の世幾多の変遷を経て、美作国に移り、現在の岡山県美作市楢原に住んだのである。」とある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E4%BD%9C%E9%98%AE%E7%94%AB

http://gos.but.jp/mitukuri.htm

箕作阮甫の寄寓先であった「永田敬蔵(桐隠)」の系の一人は、称九里…と九里氏を名乗っていたことがある。

http://gos.but.jp/nagata.htm

つまり、三栗氏も土岐氏でありながら、佐々木氏とも重なっている可能性がある。(光仲の時代からは大きく間は空いているが。)

美作の方に注目すると、近江八幡の久里城の他の名前は「本郷城」
その本郷は、美作朝親の息「本郷有泰」の本郷なのではないかと思っていたので、
この美作がもしも「みつくり」であるとすれば、久里(九里)の場所は美作氏(=三栗)の管轄の地であった可能性があるのではないだろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%BD%9C%E6%9C%9D%E8%A6%AA

こじつけの様かもしれないが、私には点が線になったような感覚である。

土岐氏の家臣(郎党)であったとすると、因幡国富城郷(庄)の地頭となった際には「はばかり」の気持ちがあって「土岐」とは書かずに「冨城」「富木」と書いたのかもしれない。





全くの想像だが、本佐々木氏の中にその後「土岐氏」となる者たちがいたのではないか。

2019-05-15 | 土岐氏


宝賀寿男の「古代氏族系譜集成」の系図を念頭に置きつつ書いていく。

本佐々木氏と呼ばれているのは「佐々木行定」「行実」「家行」「行範」あたりだろうか。
このなかから、木村氏・井上氏・愛智氏らが生まれた。

細かに見て行くと、
「佐々木行定」の母は下野守紀盛家女で、長男は「佐々木木村太郎定道」は佐々木宮神主、次男「道正」は陸奥判官為義の郎党となり、「道澄」は殺害され、女子は「愛智家次」に嫁いでいる。

「佐々木行実」の母は行定と同じ、行実は豊浦冠者・「佐々木井上三郎大夫」宇治入道忠実舎人であった。その息「井盛実」は「浅小井武蔵守」であり、佐々木宮神主でもあった。
浅子井氏は後に井・一井・櫟・山田氏などになって広がる。(もしかすると平井・奥島・堀氏などもつながっているのかもしれないと思う。)

二男宗真、三男「行正」は伊庭出羽守、五男「行方」井上五郎但馬守、六男「実綱」井上六郎筑後守となる。(実綱の系に「頼応」がいて、後に井伊氏につながるのではないかと私は思う。)

「佐々木家行」は愛智四郎大夫・中屋冠者とよばれ、次男?「家仲」は愛智源二大夫、「家次」は平井下野権守であり、後に佐々木宮神主となっている。「家景」は長江筑後権守、「家重」は愛智筑前権守となり、後に長江権守・平流(へる)四郎・河袋小七郎、となる。(この平流氏・長江氏は江州中原氏の系図にも出てくると思う。もしかすると河袋氏もいたかもしれない。)「憲家」は山崎六郎である。この系は楢崎氏にもつながる。

最後の「行範」五郎大夫、息は「行尚」は古川源太となり、「定時」は真野源三(新村・丸田の祖)、「定平」佐々木源四郎は深尾氏・西尾氏となって行く。「時信」は佐々木舟木六郎となり、間宮氏の祖である。

以前真野城の記事で「城主は真野氏で、湖東の豪族近江源氏佐々木経方の六男行範が(乾六郎行範)、乾氏の始祖となり蒲生郡北ノ庄に本拠おいた。その子孫乾氏の分流が真野郷を領して真野氏を称したという。」と関係してくると思う。

この乾氏、五郎か六郎の行範。
以前熊野別当であると思っていたのだが、違っていたのかもしれない。

真野氏に関しても解釈がいろいろとあるのか、以下のようなことも書かれていた。
「一 真野  同七代の嫡領経方の次男行定が元祖である。
 後に舟木、間宮と号し、いずれも真野の庶流である。
 一 木村  同七代の嫡領経方の三男定道が元祖である。
 一 伊庭  同七代の嫡領経方の四男行実が元祖である。
 一 愛智  同七代の嫡領経方の五男家行が元祖である。
 一 乾   同七代の嫡領経方の六男行範が元祖である。」

この説では、真野氏と乾氏は行定の二男の系と六男の系とで分かれている。

もしかするとどちらも土岐氏と関係があるのだろうか?
というより、それ以前に、この乾氏は土岐氏の乾氏と同じなのだろうか?

疑問が次々と湧いてくる。


他に不詳の「友正」「友員」の兄弟がおり、「源行真申詞記」の中に出てくる。
ここは九里に関係するかもしれないと思って調べていたが、この系も土岐氏や乾氏にも関係しているかもしれないと思う。

不詳であるという事は、それだけ考えられる余地があるという事と思う。

さて、どのようにすれば、この疑問を繙いていくことができるのか。

私は「九里氏」を通して周囲を見てきたので、今回も九里周辺との類似や気が付いたことを書いていこうと思う。


①近江国と美濃国は隣り合っている。
②土岐氏・乾氏と九里氏は、ともに東寺に関係があり、
 東寺百合文書の中に名前が残っている。
③ともに舟木庄の「舟木」と関係がある。
④三栗=美作は、後の本郷氏かもしれない。「みまさか」ではなく「みつくり」であったか?
⑤ともに宮内関係の仕事を持っている。
⑥ともに足利氏のもとでの仕事(途中から⑤と重なるか)を持っている。
⑦ともに周囲に「井口氏」の名が存在する。
⑧深栖光重 波多野御曹司も、波多野のつながりでは九里、光重のつながりでは土岐に関係する。
⑨ともに頼政周辺とつながりがある。(上記の光重もそうだが)
⑩饗庭氏の「饗庭庄」が北伊勢員弁(いなべ)にもあり、深尾氏が関係している。
⑪六角佐々木氏の家臣の中にも乾氏がいる。
⑫足利義澄に追随してきた家臣「乾太郎兵衛」がいて、その義澄をかくまったのが九里氏である。
⑬水茎岡山城での戦いの後、後片付けをしたのが乾氏という伝承?がある。
⑭忠富王記の中に「乾大夫」「九里四郎次郎員秀」の名が登場する。
⑮戦国時代に朝倉氏の門番に九里十左衛門がおり、土岐氏も朝倉氏とつながりがある。
⑯隠岐氏は、興氏として「源行真申詞記」にいる。さらに、新六郎とは?乾氏・九里氏に近い人物ではなかったか?
⑰中原氏一族の「原氏」(江戸時代の岡田元繁の母)は土岐原氏か?それとも千葉系の原氏か?
他にも出てくるかもしれないが、だいたいこんな感じである。

鎌倉時代の初期に、土岐氏と本佐々木氏とは混じっていたのではないでしょうか?(同族)
何方かご存知の方はいらっしゃらないでしょうか?




各務氏を調べてみる。

2019-05-09 | 土岐氏

各務氏に関して、
日本の苗字7000傑さんのページQ&Aに詳しく載っていた。

興味の持たれた方は全文を読まれることをお勧めします。↓

http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kagami.htm


部分をまとめると、


中興武家諸系図に 「各務、清和、武田清光男次郎遠光称之、同次男長清称之」と載せ、美濃国各務郡各務郷の大族各務勝一族甲斐国巨摩郡に移住して各務なる地名を生じ、後に加賀美に転訛したことを裏付ける。

各務氏は上古の鏡作部の後裔であることをうかがわせる。

カガミ(鏡、鏡味、各務、加賀見、加々美、加々見、香美、香々美、香々見など)の地名や苗字は、漢字に囚われずに調査することにより真実に一歩近づくものと考える。
従って多くの加賀美氏は加賀美遠光の後裔でなく、古代からの各務氏の後裔と見るべきである。

~~~*~~~

鏡作部は鏡を製造する品部・・・とあり、私が今まで調べてきた佐賀の久里が鏡作部の周辺にいたのではないか?と思っていたことに通じていく。嬉しい!

では、この各務氏は紀氏とはどのような関係があるのか…前回の記事にも続くが、これからの課題でもある。

この各務郡(岐阜)の周辺は
蘇我倉山田石川麻呂など蘇我氏がこのを治めていた…web「紀氏のルーツ」にあるように蘇我氏と関係があるようである。

古い一族であるようだ。

===*===

ずっと以前に書いた記事に、寺沢広高の配下に「九里」がいた。とあるが、この寺沢広高は、
美濃国土岐郡妻木城主・妻木氏の出自。妻木広忠の子である。



広忠の姪が「明智光秀の妻」となっている。


1542年以降の土岐頼芸 (2)そして 紀氏との関係

2019-05-09 | 土岐氏

昨日の記事の最後に出てきた「各務元正」の母は、土岐政房の娘である。
つまり、土岐頼芸の妹となる。元正は頼芸の甥となる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%84%E5%8B%99%E5%85%83%E6%AD%A3

各務元正とおおがみ殿(=土岐政房娘)の家族を書き出すと以下のようになる。(wikipedia)
元正の兄弟 各務一学
元正の子 元峯、正休、紀伊(森重政室)
        女(京極高知側室)

ここで、京極佐々木氏が出てくる。

~~~*~~~

近江国佐々木氏の「本佐々木」佐々木行定・行実・家行・行範らは、母親が「紀盛実」ではないかと言われている。

この紀氏と美濃国の紀氏が気になったので、調べてみた。
「紀氏の荘園」美濃国に土岐氏の情報が載っていたので、memoしておこう。

http://zan35441.on.coocan.jp/sub10-01.html

1350 土岐一族の争乱(1346)が起こり土岐頼明(周済)が頼康に
     背いて一族・国人を二つに割った争いが起きる。
    ・足利義詮は自ら3万の軍勢を出兵し乱を静めた。

     土岐頼貞─┌頼清─頼康(美濃守護)
          │
          └頼明(周済)

    ※土岐頼康:不破郡垂井町の頼康が>「後光巌院」の頓宮を
引き受けたことは土岐氏の実力と足利義詮の
土岐氏への信頼を裏付けている。 
 
1369 足利義満より美濃国守護を拝命したのは
        ・「池田庄」に住む>土岐(池田)頼忠

  頼貞─┌頼清(端巌寺殿)─┌頼忠(弟)─頼益 厚見郡革手付が
     │         │美濃国守護    土岐氏の本拠
     └康行(弟)    │
     小島城主      └頼康 
                美濃国、尾張国、伊勢国の守護

   ・1390 康行没落後、西池田氏が土岐家を率いて、
             美濃国守護、美濃守を兼ねた

荘園関係

 1186「山田庄」
      ・郡名:郡上郡 八幡町
      ・領家:宣陽門院領・皇室領
      ・史料村郷名:八幡名・阿多木名・上保・下保
             牛道郷・栗栖郷・馬庭郷
      ・明治村字:八幡・山田
        ※出典:美濃国長滝寺文書・青蓮院旧蔵文書     

端浪市 旧:土岐郡

①「普済寺」臨済宗妙心寺派
     ・端浪市稲津町萩原968


土岐市 旧:土岐郡を含む

①紀国造族 武内宿禰裔 古代の土岐郡
    ・676-4-22 日本書紀に美濃国司 砺杵郡紀臣訶佐麻呂の子 
          東国に移して、その国の「班田農民」となす
    ・土岐氏の本貫地
         ・「現地荘官」の美濃源氏源国房は後に土岐氏につながる
 美濃源氏の一流


多治見市

ー 荘園 ー
  ①1186「池田庄」
      ・郡名:可児郡 多治見市
      ・領家:新熊野社
      ・史料村郷名:不詳
      ・明治村字:長瀬・野中・北・池田・甘原・三倉・小木
        ※出典:新熊野社文書・広隆寺文書


可児市
 
ー 荘園 ー
   ①1118「明地庄」
      ・郡名:可児郡 御高町
      ・領家:藤原実家領→石清水八幡宮領
         ・大塔院領       
      ・權別當宗清法印立願文
      ・史料村郷名:上郷(上庄)・下郷(下庄)
      ・明治村字:顔戸・柿田・古屋敷・平貝戸・淵上・瀬田・石
            森・石井
        ※出典:石清水田中家文書・石清水菊大路家文書


可児郡


美濃加茂市

①「賑済寺」曹洞宗
     ・美濃加茂市山之上町3-144

②「端林寺」臨済宗妙心寺派
     ・山号:龍雲山
     ・本尊:聖観音座像
     ・開山:1480年 悟渓国師(仁済和尚の師)
     ・仁済宗怒和尚は足利将軍に蜂屋柿を献上
       ・以降豊臣秀吉、徳川家康に贈った
     ・住所:美濃加茂市蜂屋上蜂谷9-1

ー 荘園 ー
   ①1167「揖深庄」
      ・郡名:武芸郡 美濃加茂市
      ・領家:近衛家領・摂関家領・鷹司院領
      ・地頭:1263 春日部泰実(召喚に応ぜず罷免)
      ・史料村郷名:石村・津々野村
      ・明治村字:伊深
        ※出典:近衛家文書・鷹司家文書・竜福寺文書・長善寺文書

        ※地頭:春日部氏は埼玉県春日部市の紀姓の春日部氏
     
 
加茂郡


美濃市

①「八幡神社」旧:郷社
      ・祭神:応神天皇
      ・創建:不詳 平安時代
          美濃源氏一族の上有知氏が氏神を創建
          土岐氏累代の崇敬篤く
      ・1382年 土岐頼康による社頭の造営
      ・鎮座地:美濃市上条1238


関市

①池田氏の嫡流:池田信輝は関市に

・1542「志津野城」を築く

   ・池田恒利─信輝─輝政─利隆─光政─網政─継政─

池田宗政─治政─斉政─斉敏─慶政─茂政─章政

   ・岡山藩52万石 元侯爵
    ・家紋:輪蝶・笹竜胆・星蝶・祇園守

②源頼光の孫頼網の子が住んで山県三郎国直と称した
      
  ・山県氏は 1221 承久の乱でその勢力を失った。

            紀頼季の娘 若狭国「松永庄」
                ‖
                ‖―源国政(源頼政の養子に)
                ‖
  源頼光―頼国―頼綱―┌山県三郎国直(美濃国)
            │
            └源仲政─源頼政 源三位

③1140頃 池田=紀泰正(源仲政の子で源頼政の義弟)
     富野村志津野に住む 

      ・・・・・・・・・・

①「高賀神社」旧:郷社
      ・祭神:天之御中主尊・天照大神・ニニギ尊・スサオノ尊
          彦火火出見尊・鵜葺草葺不合尊(神武天皇の父)
          日本武尊・天児屋根尊(春日権現、中臣氏の祖神)
      ・創建:717-724年
      ・鎮座地:関市洞戸高賀
              
②「蓮華寺」真言宗
     ・建立:1180 源頼政を弔うために建立された
            宇治平等院の戦いで自害
     ・源頼政の首塚あり(叔父にあたる山県国直の領地)
     ・住所:関市植野

※源頼政の首は叔父にあたる山県国直の領地である植野の「蓮華寺」に
    葬られたと伝えられる

③「松永神社」
     ・創建:不詳
     ・1994年 拝殿を施行
     ・鎮座地:関市志津野2983


各務原市

①「飛鳥田神社」旧:郷社・式内小社
      ・祭神:飛鳥田大神
      ・創建:649年 大和国の飛鳥の神を遷座
      ・蘇我倉山田石川麻呂など蘇我氏がこのを治めていた
      ・鎮座地:各務原市蘇原清住町1-105-1

②「加佐美神社」旧:郷社・式内小社・現金幣社
      ・祭神:加佐美大神(伽耶=韓国の神?)
          蘇我倉山田石川麻呂・応神天皇
      ・創建:864年
      ・境内に蘇我石川麻呂の墳墓あり
         阿弥陀堂、薬師堂あり、神仏習合の名残あり
      ・鎮座地:各務原市蘇我原古市場町5-1

③「済縁寺」臨済宗妙心寺派
     ・住所:各務原市那加前野町1-67


羽鳥郡

①「弘済寺」臨済宗妙心寺派
     ・住所:羽鳥郡笠松町門間567


岐阜市
 
①「伊奈波神社」旧:国幣小社・式内小社・別表神社
     ・祭神:五十瓊敷入彦命(垂神天皇の皇子)
     ・創建:景行天皇14年
        ・武内宿禰が稲葉山北西の椿原に
五十瓊敷入彦命を祀ったのが始まり
     ・鎮座地:岐阜市伊奈波通り1-1
   
②「茜部神社」旧:郷社 式内社小
     ・祭神:応神天皇・神功皇后・武内宿禰
     ・創建:830年 東大寺荘園のあった所
     ・鎮座地:岐阜市茜部寺屋敷3-135

③「済法寺」天台宗→臨済宗妙心寺派
・山号:興国山
      ・本尊:十一面観音像
      ・創建:794-864 円仁が如来ヶ嶽に寺院を創建
      ・1622 唯道恵定が、現在地に寺地を移し
臨済宗妙心派に改宗した     
・住所:岐阜県岐阜市粟野西8-175

④1536 浄土真宗本願寺の布教
     ・河野九門徒(尾張国=愛知県葉栗郡)は蓮如に帰依して
      厚見郡(岐阜市)の鶉・茜部の道場を通じて布教した
      美濃国(岐阜)厚見郡の九門徒(浄土真宗本願寺)も加わり
      河野18門徒となった
      ・浄安寺 岐阜市茜部新処ー30
      ・浄泉坊(円徳寺)岐阜市神田6
   
ー 荘園 ー
   ①998「茜部庄」
     ・郡名:厚見郡 岐阜市
     ・領家:東大寺領(法華堂料所・百口学侶衣服料所)
     ・庄司:武士 美濃源氏:源国房(源光国の父)
         ・鶉郷の領主
     ・地頭:長井(大江氏)時広は地頭職を東大寺に寄進
     ・史料村郷名:鶉郷・本郷・上村・下村
     ・明治村字名:茜部

   ※平安期の茜部庄は国衙との対立に終始した
   ※1103 永観律師は東大寺の学生100人の衣服料として毎年
        絹100疋・綿1000両を年貢とする荘園になった
   ※東大寺要録・東大寺文書   

②1053「平田庄」
       ・郡名:厚見郡 岐阜市
       ・領家:故二位家領・長講堂領・皇室領       
          ・1192 源光国が故二位領平田庄の加納として長講堂に寄進
          ・美濃源氏源頼光の曾孫源光国の私領
       ・史料村郷名:市俣郷・草手郷(革手郷)・加納郷・六条郷
              鶉郷・東庄・西庄・東庄
       ・明治村字:上加納・下加納・鶉
         ※出典:東大寺文書・東南院文書

   ③1208「芥見庄」
      ・郡名:各務郡 岐阜市
      ・領家:石清水八幡宮領・曼殊院門跡(領家・地頭職)       
      ・史料村郷名:山田郷・岩滝郷・加納郷・清水領
      ・明治村字:芥見・岩滝・加野
        ※出典子:石清水菊大路家文書

        ※1019-11-2「山田郷」は秦徳山より買った
              買人:大蔵大夫紀朝臣佐正=池田十郎教正
                (楠木正行の異腹の子)


   ④0000「永良(長良)庄」
       ・郡名:方県郡 岐阜市
       ・領家:不詳
       ・史料村郷名:不詳
       ・明治村字:真福寺・上福光・中福光
        ※出典:池田系図


山県市

①「十五社神社」旧:郷社
     ・祭神:天之常立尊・天神七代
         地神五代・天照皇大神・天忍穂耳尊・ににぎ尊
              彦火火出見尊・鵜草葦不合尊(神武の父)
              神武天皇・応神天皇・成務天皇
     ・創建:826年
     ・鎮座地:山県市大桑2281
 

 本巣市  


本巣郡

ー 荘園 ー
   ①1230「生津庄」
      ・郡名:本巣郡 穂積町           
      ・領家・本家:一条院領・近衛家領・摂関家領・相国寺領
      ・史料村郷名:東方・今蜂村・仲林寺・北方
      ・明治村字:生津・上橋本・柳一色・祖父江
※出典:石清水八幡宮文書・九条家文書

     ※1394 広橋兼宣を近衛家領の年預と当庄東方奉行に任ず
         (紀仲子は広橋家の猶女になっている)


揖斐郡

①池田町・在地領主:紀奉永 号:武者所の池田郡司
         ・院(後白河法皇)庁下文 

     ・在地領主:紀奉永武者所(池田氏)は平知盛と
          「小島庄」で争い戦死
              
     ・紀奉永:後鳥羽上皇の武者所として西面第一を称される
     ・源頼朝に従い戦功を挙げ三重郡内原八各地地頭職を与えられ
      鷺田郷(現:瑞穂市呂久)に移った
    
②池田氏 景行帝裔 稱紀臣族 池田首の後裔あらさるか

   池田領主惟将=池田首の後裔の娘
    ‖――――紀維実(池田に住む)―公貞―奉貞―
   紀淑望 信濃守 歌人     母:源頼信の娘

    ―奉政(源仲政の子)―奉光―奉永―奉継―奉忠(鷺田郷に移る)
     
③紀淑望:紀長谷雄流 
   ・池田奉政(源仲政の子)の末孫の摂津国の住人池田九郎教依は
    楠木正行の異腹の子を養い池田十郎教正と名付ける、
    其の古を佐正といい、佐正の子を六郎という。
    数代継いで摂津国に居住する
   ・池田恒利はその後裔であるといわれる。
   ・本支16家あり
   
  ・光政2男政言─政倚─政方─政香─政直─政養─政共─政善─政詮
         ─政保
      ・備中鴨方2万5千石 元子爵
      ・家紋:喰合蝶・笹竜胆

  ・光政3男輝録─政晴─政員─政弼─政恭─政範─政和─政禮
      ・備中生坂1万5千石 元子爵
      ・家紋:三蝶・三笹竜胆

  ・利隆2男恒元─政周─恒行 嗣なく絶える
      ・播磨山崎3万石 
      ・家紋:揚羽蝶

  ・輝政2男忠継─忠雄─光仲─網清─吉泰─重寛─治道─昭邦─斉稷
         ─斉訓─慶行─慶栄─慶徳─輝知─仲博
      ・因幡鳥取32万石 元侯爵
      ・家紋:丸に揚羽蝶・祇園守・菊水

  ・光仲2男仲澄─仲央─仲庸─澄延─延俊─澄時─仲雅─仲律─仲立
         ─徳澄─源─仲誠
      ・因幡鹿奴2万5千石 元子爵
      ・家紋:瓜の内に蝶・祇園守・菊水

   ・光仲4男清定─定賢─定就─定得─定常─定興─定保─清直─清緝
          ─得定
      ・因幡若櫻1万5千石 元子爵
      ・家紋:菊輪の内に蝶・祇園守・菊水

   ・輝政4男輝澄(六万石)─政直─政武─政森─喜以─喜長─喜通
            ─徳潤
      ・播磨福本1万石 元男爵
      ・家紋:揚羽蝶・祇園守

   ・信輝3男長吉(六万石)─長幸─長常 嗣なく絶える
      ・家紋:丸に蝶・三笹竜胆 

④岐阜氏 池田氏流
     ・岐阜侍従豊臣照政とあるのは池田輝政のこと
     ・織田秀信も岐阜中納言と云い
     ・豊臣秀俊(秀次の弟)も岐阜中将といった。
         
⑤寺沢氏 紀臣族 池田氏流 
     ・紀長谷雄→淑望→池田繊実の後裔
     ・廣正織田豊臣両氏に仕えた
     ・其の子廣高は秀吉に仕え
     ・肥前唐津6万石を領するが関ケ原戦後は12萬石であった
      其の子可堅高に至り絶家  
     ・家紋:蟹

        ・・・・・・・・・・・・・・

①「実相寺」浄土宗
     ・住所:揖斐郡大野町下方384

②「大光寺」地名のみ
     ・揖斐郡揖斐川町大光寺     

ー 荘園 ー
   ①1072「泉江庄」
      ・郡名:池田郡 揖斐郡池田町
      ・領家:石清水八幡宮寺領・宝塔院領
          ・34所の1、田110町4反余は
           万寿1法華三昧院領に寄進
      ・史料村郷名:中庄・西庄
      ・明治村郷名:八幡 
        ※出典:石清水田中家文書

※1502年 土岐氏の被官:衣斐新左衛門尉が庄園を
             押領したのを守護土岐政房は停止させた      

   ②1072「泉江中庄」
       ・郡名:池田郡 揖斐郡池田町
       ・領家:石清水八幡宮寺領・宝塔院領
       ・史料村郷名:不詳
       ・明治村郷名:不詳
         ※出典:石清水田中家文書  

   ③1072「泉江西庄」
       ・郡名:池田郡 揖斐郡池田町
       ・領家:石清水八幡宮寺領・宝塔院領
       ・史料村郷名:不詳
       ・明治村郷名:不詳
         ※出典:石清水田中家文書 

   ④1158「枳東庄」
       ・郡名:大野郡 揖斐郡池田町片山
       ・領家:石清水八幡宮寺領
       ・史料村郷名:片山郷
       ・明治村郷名:片山郷
         ※出典:石清水田中家文書・東寺文書

   ⑤1181「池田庄」
       ・郡名:池田郡 揖斐郡池田町        
          ・荘域:本郷・萩原・草深・山洞・小寺・藤代
田畑・菖蒲池・青柳・六ノ井・東野
              上田・砂畑・田中・沓井・宮地・小牛
              願成寺・般若畑紀氏が現地支配を行った。
       ・史料村郷名:不詳
       ・明治村字名:長瀬・中郷・野中・北・池田・甘原・三倉・小木
※出典:新熊野社文書

  ※可児郡(多治見市)の「池田庄」と同一の可能性あり         

   ⑥0000「小島庄」
       ・郡名:池田郡揖斐郡揖斐川町
       ・領家:青蓮院門跡領・山門領
       ・史料村郷名:端巌寺・白樫
       ・明治村字:端巌寺・横山・広尾・上野・白樫・市場・大門・新宮
             畑尻・溝尻・野中・堀・東野・岡・和田
         ※出典:熊野那智大社文書

   ⑦0000「市橋庄」
       ・郡名:池田郡 
       ・領家:仁和寺領・大教院領・御室御領・梅津是心院領
       ・史料村郷名:内牧郷・別府郷・高柳郷
       ・明治村字:市橋
         ※出典:仁和寺文書

①「南宮大社」旧:国幣大社・式内社・美濃国一宮
      ・祭神:金山彦命
      ・相殿:彦火火出見命・見野命
      ・創建:神武天皇東征の時代
      ・鎮座地:不破郡垂井町宮代峯1734-1

②「若宮八幡宮」
      ・祭神:田口明神(田口朝臣=紀氏?)応神天皇
      ・創建:不詳
      ・鎮座地:不破郡垂井町表佐字五番屋敷1836

③1350 土岐一族の争乱(1346)が起こり土岐頼明(周済)が頼康に
     背いて一族・国人を二つに割った争いが起きる。
    ・足利義詮は自ら3万の軍勢を出兵し乱を静めた。

     土岐頼貞─┌頼清─頼康(美濃守護)
          │
          └頼明(周済)

    ※土岐頼康:不破郡垂井町の頼康が>「後光巌院」の頓宮を
引き受けたことは土岐氏の実力と足利義詮の
土岐氏への信頼を裏付けている。 
 
④1369 足利義満より美濃国守護を拝命したのは
        ・「池田庄」に住む>土岐(池田)頼忠

  頼貞─┌頼清(端巌寺殿)─┌頼忠(弟)─頼益 厚見郡革手付が
     │         │美濃国守護    土岐氏の本拠
     └康行(弟)    │
     小島城主      └頼康 
                美濃国、尾張国、伊勢国の守護

   ・1390 康行没落後、西池田氏が土岐家を率いて、
             美濃国守護、美濃守を兼ねた

⑤「関ヶ原の戦い」
   ・1600年9月15日
   ・東郡の勝利(指揮官=徳川家康)・池田輝政
   ・戦力:東郡:104,000(諸説あり)
       西郡:82,000(諸説あり)


養老郡

①「実相寺」臨済宗妙心寺派
     ・住所:養老郡養老町祖父江1085

ー 荘園 ー
   ①1230「蒔田庄」
      ・郡名:石津郡(多芸郡) 養老郡上石津町
      ・領家:石清水八幡宮寺領       
      ・史料村郷名:山田・山田名・井口・上野郷・一敷
      ・明治村名:牧田・山村・門前・上野・萩原・一色
            和田・平井・二股・市之瀬
        ※石清水菊大路家文書・石清水田中家文書
         醍醐寺文書
        

海津市


大垣市

①「大垣八幡神社」旧:県社
     ・祭神:応神天応
     ・創建:1334-1338年 安八郡大井に
         東大寺の荘園「大井庄」の鎮護神として
         手向山八幡宮を観請した
     ・鎮座地」大垣市西外側町1-1

②「実相寺」法華宗
     ・本尊:十界大曼荼羅
     ・住所:大垣市伝馬町32

ー 荘園 ー
   ①950「大井庄」
     ・郡名:安八郡 大垣市
     ・領家:東大寺領
     ・史料村郷名:楽田郷・高橋郷・東高橋・若森
     ・明治村字:西崎・木戸・室・宮・高屋・林本郷・林中・林東・若森
           藤江・三塚・貝曽根・南地内・南頬・西高橋・東高橋
       ※出典:東大寺文書・東南院文書
    

安八市 旧:安八郡

①木部(紀臣部曲) 味蜂間郡春部里の戸籍に木部大島 外1人が見える
    ・現:安八郡(池田郡も含む)→安八市

   ・・・・・・・・・・・
   
①1306 美濃国衙領
   ・美濃国国衙正税の半分は後光巌院の妃崇賢門院(藤原仲子=紀仲子)
     伝領された。崇賢門院は京都に「宝鏡寺」の開基に寄進した

                後光巌院(北朝)
石清水八幡宮通清法印     ‖――後円融天皇(北朝)
         ‖―――――紀仲子=崇賢門院(藤原=広橋兼綱の猶子に)
    中将 藤原俊輔の娘

   ・「安八郡」の国衙領は「崇賢門院領」に
   ・妃が創建と伝えられる「宝鏡寺」に寺領として伝領された
   ・1368-1375頃「宝鏡寺」臨済宗
         ・住所:京都市上京区寺之内通堀川東入る


端穂市

①池田(紀奉永)後鳥羽上皇の武者所の西面第一と称される
     ・揖斐郡より鷺田郷呂久に移った。

②池田奉政(源仲政の子)-奉光―奉永ー奉継ー池田奉忠(奉永の孫)
     ・揖斐郡より鷺田郷呂久に移った。




http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-gen-ikeda1.html

西池田に関しては、これから勉強していきたい。


1542年以降の土岐頼芸 

2019-05-08 | 土岐氏

土岐頼芸は「天文11年(1542年)、頼純の籠もる大桑城が落城し鷺山城へ移る。またこの年、頼芸は子の頼次ともども道三により尾張国へ追放された。」とwikipediaにある。
ところが息の頼次は 1545年生まれとwikipediaにある。(矛盾している)

六角定頼の娘には、土岐頼芸の室の他に、武田 信豊(たけだ のぶとよ)に嫁いだ娘がいる。

この若狭武田氏の信豊の息「信由」に注目して見ると面白いことがわかる。
「武田 信由(たけだ のぶよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐武田氏の客将

この客将となった詳細は「父・信豊と兄・義統が争った時に信由が父信豊方について敗れ、弟の義貞と共に甲斐国の武田信玄の下に亡命して、食客としての待遇を与えられた。」

客将であったのは1558年~1561年のことのようだ。

この姉妹の連携で、土岐頼芸も武田信玄(寄寓したころには勝頼になっていたかもしれないが)のもとに行こうと思ったのかもしれない。


頼芸が頼って行った土岐治頼は1557年に亡くなり、
次に土岐為頼のもと行った。
その時期は分からないが、土岐為頼が息に家督を譲り世代交代があったのは、1579年である。

武田氏のもとに移動したのは1573年に武田信玄が亡くなっているので、それ以前であったかもしれない。
配下の板垣信方が同じ清和源氏という事で、世話役を仰せつかっていたのかもしれない、とも思ったが1548年に没していた。

同族於曾氏の左京亮信安(板垣信安)が同じく清和源氏の出である。
この系は後に加賀藩士となっているそうである。


於曾氏は人皇第56代清和天皇の苗裔、新羅三郎義光の後胤で甲斐源氏の一族である加賀美氏の支流である。
この 加賀美氏は、土岐氏の家臣の各務氏(各務 元正とか)とつながるのではないだろうか??土岐政房の娘の嫁ぎ先が各務氏である。(各務盛正)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%BC%E6%9B%BE%E6%B0%8F






土岐氏と乾氏

2019-02-14 | 土岐氏

岡田氏の系図を探していて、「乾氏」の系図を発見。
今までの謎が解明される?かもしれない。

土佐諸家系図の中に「乾氏」があり、重要なメモが書かれていた。
最初の部分をご紹介したい。









そして、乾甲斐守秀行(氏にも見えるのだが)を調べると、居たのである。

https://www.daitakuji.jp/%E5%8D%97%E5%8C%97%E8%AB%B8%E5%A3%AB%E5%B8%B3-8-%E8%92%B2%E7%94%9F%E9%83%A1/

このページには2名の乾氏が載っていて「 永原城主 佐々木末籏頭 〇乾主膳正秀之・永原城 屋形七代経方二男豊浦冠者行実子流 乾甲斐守秀之・
長光寺 乾次郎三郎」が記載されていた。

永原氏との関係を見ると、九里を連れ出して逐電してくれた「深尾秀長」の母が永原越前守の娘である。

http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-fukao-tosa.html

つまり、乾・永原・深尾氏は繋がっている。
さらに、系図では始りが土岐氏であり、土岐氏も乾氏とつながっていたことがわかる。

これらを目で見て確認できたことが嬉しい。
そして、この同じ行実流の中に「九里」もいたのではないかと思われる。

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九里と六角佐々木氏の戦いを早く終わらせるためにもであったと思いたいのだが、九里備前守を殺したメンバーに永原氏が入っている。
(これは六角佐々木氏の命によってと思う。)


今回わかった事は、長命寺縁起に「岡山城主 乾甲斐守」と書かれていたのだが、それは「乾甲斐守秀行(秀之)」であったろう…という事であった。

これは九里が滅亡した後であったのでは、と思われる。

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以下は、佐々木哲氏の「永原氏の系譜」からの抜粋だが、

「『永原氏由緒』では藤原氏の子孫という系譜伝承を伝え、藤原秀郷十二代の孫で源頼朝に敵対した滝口俊秀の三男瀬川俊行が近江国栗太郡に住み、その七代の孫に永原大炊助宗行が出たという。そのとおりであれば蒲生氏と同祖であり、右馬允藤原季俊の長子俊秀(従五位下)の子孫が永原氏であり、次子惟俊の子孫が蒲生氏となる。市三宅城主永原(三宅)氏が馬允を名乗るのは、この右馬允季俊に由来しよう。」

・・・とあり、永原氏もまた秀郷流、滝口俊秀三男瀬川俊行の七代孫から始まるという。そして蒲生氏と同祖であった、となる。