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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

天香久山 白妙 → 白栲  天上の人となったという意味にもとれるのでは?

2023-07-20 | 古代からのつながり

朝に浮かんだイメージは、

天香久山の許に白い衣がはためいているシーン だった。

 

舒明天皇も行っていたという「国見」という儀礼を天香久山で行う(または行った)ことになっており、山を見ると麓に出来たばかりの「白栲の衣」が干されている=まるで雲のように

雲と思ってみると、その上に登り「国見」をする私(持統天皇)は…という事になっていく。

 

いやらしい想像だが、

実は権力の誇示をも現している…とも読めるのではないだろうか。

 

その道具となったのが「白栲のはためく光景」でもあり、「和歌」でもあったという事になる。

 

「国見」という儀礼があることは、【天孫降臨の謎】関裕二 著 PHP文庫 で知った。
 
 

 


龍王宮 石園坐多久虫玉神社

2023-07-19 | 古代からのつながり

イソノ にいます タク ムシタマ 神社

イソノの「イ」は神聖な

「ソノ」は二つに分解されるそうで、「ソ」は新羅をあらわす原号だという。

二語合わせると「ソのフル」=新羅の都を意味しているのだそうだ。

が、私には「フル」がどこから出てきたのだろう?と不思議に思う。

もっとシンプルに「神聖な園=神聖な場所」ではいけないのだろうか?

 

多久=高来・高木・

虫玉=蚕の繭・または蛇の卵

この虫玉で区切るのは私が考えたものだが、龍王宮となった由縁でもあるのではないか?と思う。

蛇は水の神様でもあり、豊穣を意味するともいう。

 

石園坐多久虫玉神社の「多久」はイコール「」でもあるという。

コトバンクにも記載があったので、ココに貼っておく。

https://kotobank.jp/word/%E6%A0%B2-558980

木綿(ゆふ)や、紙の原料ともなる。

その皮の繊維から、白栲をとる。

 

栲・楮はクワ科なのだそうだ。

 

古代、まだ桑畑を作る以前には、その葉を用いて絹を作り始めていたのではあるまいか。

白栲 「しろたえ」と読む。(ここまでくると、自然に天香具山がでてくる。)

栲は梶の木の皮などの繊維で織った布を指し、その布の色の白いことから「白栲」と言う。

 

つまりは、神聖な園、栲と虫玉(蛇の卵のような蚕の繭)の神社である!!

というのが私の説である。

 

ココが蚕を育て始めた場所なのではないだろうか?と思う次第である。

 

最近、公園で良く蛇に出会う。

蚕の繭と蛇の卵が似ていることがヒントとなった説である。

 

 

 

 


「多久」は「高来」であった。

2023-07-18 | 古代からのつながり

石園坐多久虫玉神社の「いその」とは「神聖な園」の意味だそうだ。

「イ」は忌・斎なのだそうだ。(田中昭三著書【「記・紀」「大和志」の片塩の都・浮孔の宮考】より)

 

次に「多久」というのが気にかかり、調べてみると、意外なことに‥‥

 

https://www.facebook.com/420629671292678/posts/916531011702539/

平安時代に編纂された日本最古の百科事典と言われる「和名類聚抄」(わみょうるいじゅしょう)に現在の多久の地名のことが出てきます。
 そこには『小城郡高來(多久)あり、名義は古に栲木の多き處などにて負せたくるべし』とあります。この中には、「高來東郷」、「高來西郷」とあり、当時の「高來郷」には2つの郷があったものと思われます。(律令制では「国」・「郡」・「郷」の制度のもとで行政が行われていた。)

 

此の多久のあった場所には、鎌倉時代に摂津から下向して多久氏となった人がいたそうだ。

此処からは余談となるが、同じHPを見ていると、

其の多久には地元の豪族「鶴崎氏」がいたそうだ。

其の「鶴崎」を冠した土地があり、それが末蘆国の久里双水古墳のすぐ近くだったのである。

 

こんな偶然もあって、ますます「多久」「高来」を調べてみたい!と思っているうちに、

以前に調べた肥前の「高来郷」かも知れないと…急に思い出した。

http://tsurusakiroots.g2.xrea.com/karatu-uki-turu.htm

 

https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/s/%E9%AB%98%E6%9D%A5

此の二番目の記事に「深江入道蓮忍」とある。

しかも、1247年。

「多久」とは、全く違う場所を想定していたのだが、もしかするとこちらの多久となった「高来」かも知れないと思う。

 

 

高来郡 深江 ↓

 

どうやら、深江とつながりのあるのは現在の長崎県の方の「高来郡」の方らしい。

 

【深江浦】に関しては、コトバンクに載っていたのでここに貼っておこうと思う。

https://kotobank.jp/word/%E6%B7%B1%E6%B1%9F%E6%B5%A6%E3%83%BB%E6%B7%B1%E6%B1%9F%E6%9D%91-3100257

中世、高来東たかくとう内にあった浦・村。宝治元年(一二四七)六月五日の平朝澄譲状案(深江文書、以下断りのない限り同文書)に「高来東郷内深江浦」とみえ、有馬朝澄が先祖相伝の所領である当浦地頭職を深江入道蓮忍に譲っており、その四至は、南限は下が立江小河、上が「古ゑ荒平之飯野野与山合」、西は嶽、北限は上が多賀倖嶽、下が「鞍懸尾の通り倖与尾夜波寸の嶽大佐古通り集楽尾浜仏石」、東は海を限ると記されている。建長六年(一二五四)「ふかへのうら」の地頭職は蓮仏(蓮忍の子か)から嫡子の平持澄に譲られている(同年四月四日沙弥蓮仏譲状案)。文永二年(一二六五)「深江村」小地頭の安富頼清(心空)が村内で狼藉をはたらいたとして惣地頭の越中長員を訴えているが(同年七月二九日大宰府守護所使等傷実検状)東国御家人の越中氏は寛元二年(一二四四)以前に高来東郷に惣地頭として入部、同じく安富氏は建長六年から文永二年の間に小地頭として入部したとされ、この両者で相論が繰返されていた。

文永一〇年安富行位(頼清)と越中長員との間で深江村の所務、つまり有馬朝澄の開発田所当をはじめ牧地・本在家麦地子・粟地子・代・預所政所・検断権や四四疋の馬、一〇〇頭の牛などについて相論となっているが、村の開発に有馬氏が関与していたこと、牛馬牧などが注目される(同年六月一五日か六波羅御教書)。建治二年(一二七六)深江村地頭(安富氏)肥前守護少弐経資からモンゴル襲来に備えて要害石築地の築造のために筑前博多に赴くよう指示されている(同年三月一〇日少弐経資石築地役催促状)。弘安一〇年(一二八七)には高来東郷地頭兼預所の越中長員代の道智が深江村越訴および年貢配分について地頭安富氏を訴え、深江村地頭代の定心に参対を催促しているが(同年八月二六日少弐経資召文)、地頭代は鎌倉にいた安富氏の帰国を待って裁決を望み、少弐経資は三ヵ月中に参決することを命じている(同年一〇月三〇日少弐経資召文)

 

それに加えて、藤津庄(Logos)

藤津荘(中世)

鎌倉期~南北朝期に見える荘園名有明海の湾奥西岸,鹿島市・太良【たら】町・嬉野【うれしの】町に広がりほぼ藤津郡の全域を荘域としたと思われる

正応5年の惣田数注文には「藤津庄六百丁」とある(河上神社文書/佐史集成1)

年未詳の坊門家清申状に「法勝寺領肥前国藤津庄志保田方并嵯峨照明寺等事 右,当庄者,為当家累代之地,信家卿領知之刻,未処分而令早世之処,信顕入道不得基譲恣一身彼遺領等悉令押領之刻,信兼卿就訴申,弘安以来代々被経御沙汰畢,随而 伏見院御代延慶二年又為雅俊卿奉行被尋下信顕入道之時,不得信家卿譲之条,忽露顕之間,被究御沙汰淵底,去応長元年七月八日彼遺領内藤津庄信兼卿且預安堵 勅裁畢,爰信定朝臣号信顕入道猶子於関東致非分沙汰掠申子細之間,家清令参向関東為問住(注)所信濃左近大夫貞連(太田貞連)奉行申披所存之時,信定朝臣称故洞院左府(洞院実泰か)返状構出謀作之条,依令露顕可被罪科之旨,都鄙御沙汰厳密之刻逐電畢,而謀書人信定朝臣子息信任又帯信顕入道譲改篇目掠給大学(覚)寺殿裁許令領知之旨,就承及家清欲訴申之処,彼信任令 先帝(後醍醐天皇)御共逐電畢,此上者弥信家卿遺領等家清之外誰人可致管領哉,而今幸奉逢有道善政之上者,尤任理運可蒙 勅裁者也,且号一門之仁悉 先帝奉公之輩也,家清一身者致当御代奉公奉待御 治世之上者尤預御哀憐,且依長勅裁被下安堵 院宣,且為関東請所之地上者,任先例被成下 院宣於関東全知行弥欲抽無弐忠勤而已」とある(仁和寺文書拾遺/史学雑誌68-9)

これは藤津荘に関する新史料である申状を提出した坊門家清は,家領である藤津荘志保田(塩田)方相伝をめぐって一門の信任(坊門信定の子)と争っているそもそも坊門信家が早世し,未処分(生前に譲状を認めず死去)であったため,信顕と信兼が一族で遺領相論を起こし,それが信定の代になって関東の幕府へ持ち込まれ,結局,信定は謀書を構出し,露顕して「謀書人」となったが,信定の子信任が再び訴訟に及んだため,家清がその非を訴えたものである「先帝」とあるのは後醍醐天皇であり,信任はともに逐電に及んでいるが,これは元弘の乱のことと思われるからこの申状も元弘元年9月以降のものと推定される

藤津荘が法勝寺領とあるのは注目してよい

このほか,弘安4年蒙古合戦勲功に関し,肥前国藤津荘大村家信に,神崎荘の田地3町が配分されている(東妙寺文書/佐史集成5)この大村氏は「肥前国府知津之庄惣追捕使」伊佐平次兼元の子息として生れた覚鑁上人興教大師と同族と考えられ,伊佐平氏の流れをくむ者で,鎌倉期に当荘地頭職に補任されたのであろうとされる

下って「九州治乱記」応永18年卯月29日条に小城【おぎ】の千葉氏が大村家有と戦い,藤津に侵攻したことが記されており,さらに島原の有馬氏と相対した大村氏は次第にその勢力が衰えたものといわれている

*****

太田貞連

?-? 鎌倉時代の幕府官僚。
太田時連の子。左近衛将監(さこんえのしょうげん)。正和(しょうわ)元年(1312)問注所執事。元亨(げんこう)元年再任され,正慶(しょうきょう)2=元弘(げんこう)3年の鎌倉幕府滅亡までその職にあった。姓は別に三善

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%96%84%E5%BA%B7%E4%BF%A1

康信ー康連ー康有ー時連ー貞連

 

*****

 

深江に関する資料は増えたが、九里の祖蓮忍入道かどうかはいまだわからないが、

1254年には蓮佛に譲り渡しているので、因幡(冨城蓮忍)や丹波にいた蓮忍入道と同年代ではある。

千葉氏被官であった蓮忍の弟か甥か息か…と思われる「富木常忍」は、肥前国とも関係がありそうである。

千葉頼胤の時に、息の千葉宗胤は

「宗胤は、父・頼胤から千葉介家の本領千葉荘を継承した他、母を介して祖父千田泰胤の領した千田荘八幡荘臼井荘および肥前国小城郡を継承して・・・

とあるように、肥前に拠点もあったのである。

 

この辺りが、全く関係ない!とは言い切れない事情である。

かえって、関係があるのではないか?と思っている所以である。

 

因みに小城郡は、多久市のある場所でもある。

 

地図内上のE35付近に 久里双水古墳がある。

 

更に思うに、中原親能の配下として肥前に赴いたのが最初かもしれない。

親能の所領所職は全国に散在していた。

九州だけでも日向国五ケ所のほか豊後国・筑後国(福岡県)・肥前国(佐賀・長崎県)の七国に地頭職を保有していた、そうで、各地にあったのならば、各所に人を配置したであろうと思う。

 

 

 

 


神服部氏→虫女之家  石園坐多久虫玉神社→虫玉

2023-07-17 | 古代からのつながり

蚕を糸にして、機織りをしなくては布にならない。

 

コトバンクによると「神服部氏」は、

〘名〙 (「かむはとり」とも表記) 伊勢神宮に属して神の御衣を織る者

書紀(720)天武一三年一二月(北野本室町時代訓)「大伴連(むらし)〈略〉神服部(カンハトリの)連〈略〉布留(ふるの)連、五十氏に姓を賜ひて宿禰と曰ふ

 

 

東京大学史料編纂所のDBで神服部氏を探したが、天平の記述のあとは江戸時代になってしまう。

 

【神服部虫女之家】とある。この【虫】とは、蚕のことだろうと思う。

 

 

 そこで思い出したのが、私が古代に目覚めたきっかけでもある

田中昭三著書【「記・紀」「大和志」の片塩の都・浮孔の宮考】である。

 

この中に、石園坐多久虫玉神社が登場する。

 

これは、「いわそのにいますたくむしたまじんじゃ」というそうなのだが、

私は「多久虫玉」を一緒にせずに、石園坐 多久 虫玉 神社 と分解する。

 

この虫玉こそが、繭のことであろうと思う。

 

一説では多久豆玉、多久頭玉、の誤記であろうとも言われているのだが、ココは秦氏にも関係する神社であり、この場所で秦氏と賀茂氏が繋がるような伝承がある。

 

しばし、ココに重点を置いて調べてみたくなった今朝である。

 


綺(かば)氏 一族 

2023-07-16 | 古代からのつながり

昨日の記事の「綺(かにはた)」より、調べていて、綺(かば)氏 という一族に出会った。

https://kyotofukoh.jp/report760.html

 

http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-2166.html

  ↓

綺日女命(かむはたひめのみこと)

ここの記事がとびきり面白かった。

 

http://engishiki.org/hitachi/bun/hit210401-01.html

長幡部神社の祭神でもある綺日女命。

この神様は筑紫の日向より三野国(美濃)へ、三野国より常陸国へ移ってきたと、ある。

蚕の移動はもちろん人が介在し、その養蚕に関わってきた人々の流れでもある。

 

http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-1367.html

 

いろいろな記事を拝見させていただいて、天孫降臨とも蚕とも関係のある筑紫の日向峠のことと思われる。

 

天孫降臨と蚕

https://www.chichi.co.jp/web/20220503_gotou_yamatani/

 

http://shinshizo.com/2016/12/%E9%A4%8A%E8%9A%95%E3%81%AE%E7%A5%9E%E3%80%85-%EF%BC%88%E9%87%91%E8%89%B2%E5%A7%AB%E4%BC%9D%E8%AA%AC%EF%BC%89/

 

蚕の背後には天孫降臨の壮大な話があることが、今回の「調べ事」で垣間見ることができ嬉しかった。

 

 

 

 

 

 


三度の再生の蚕。息長氏とのつながりは…

2023-07-15 | 古代からのつながり

蚕 大和岩雄 『日本にあった朝鮮王国 謎の秦王国と古代信仰』(googlebooks)より

死と再生を三度くりかえす「カイコ」は不老不死の常世の虫だから、蚕に似た虫が常世神として信仰されたのである。まゆみたびと答えており、それを聞いた天皇は、「吾も奇異しと思ふ。故、見に行かむと思ふ」といって、奴理能美の家に行幸している。

「三俯三起、事乃大巳」

秦氏と養蚕、蚕神信仰は密接…と大和氏は他の本でも言及されている。

(この【奴理能美】とは…記事の一番最後のアメーバブログ記事方で明らかになる。)

 

少し脱線するが、

このようなあたりから、イモムシのような形状の虫が崇められた新興宗教(7世紀の時点での)がおこり、秦河勝は民が惑わされるのを知り、懲らしめたそうだ。

 

*****

 

蚕と神功皇后と、何等か関係がありそうだと思って調べてみると、蚕と息長氏とのつながりを見つけた。

 

加邇米雷王(カニメイカズチ)の息は、息長宿禰王であり、神功皇后の祖父でもある。
 
 
さらに、この「虚空津」という部分が気になっている。虚空津日高(そらつひこ)を想定しているのだろうか?
この虚空津日高(そらつひこ)は、以下の神社の神様でもあるからだ。

蚕ノ社(かいこのやしろ) 木嶋坐天照御魂神社

 
 
   
息長氏と蚕の関係を見てみたい。
 
 
 
 
 ↑の記事に重要なことが書かれていた。
 
山城国綴喜郡筒城郷の普賢寺の裏山は、「息長山」と呼ばれており、朱智神社(天王社) があり、加邇米雷王が祀られている。
 
この木津川流域筒木の地には、早くから半島の渡来人が住み着き蚕を飼い絹織物を織り、また鋳銅も行っていた。
 
これを配下にしたの が「和迩氏」である。 この付近もその勢力下。彼も和迩氏の一族であり南山城地方を支配していた王。
 
「カニ」の由来は、「綺(かにはた)」綺麗のキ。模様を浮かせて織った透けるように薄い美しい絹織物。という意味。
 

 

この木津川 筒木にいて養蚕に関わっていたのが前出の【奴理能美】なのだそうだ。時代的にもあっていると思う。

https://ameblo.jp/mofumofu-grace-ful/entry-12568110915.html

 


古代の養蚕から平安時代の荘園による養蚕

2023-07-14 | 古代からのつながり

蚕を飼うには「桑の葉」が必要であり、其の桑の葉を柔らかくするために冷たい水が必要なのだそうだが、

蚕自体は水を嫌うそうである。

 

桑は食用にも木材にもなる万能選手である。

https://iroai.jp/silk-history/

 

中国の情報では8500年前から絹織物を作っていたそうである。

https://www.recordchina.co.jp/b158866-s10-c30-d0035.html

 

https://story.nakagawa-masashichi.jp/craft_post/121048

日本においては、195年に朝鮮から蚕の卵が伝わったという記録が残されている。またその2000年以上前の弥生時代の遺跡から絹の布が発見され、中国の歴史書にも邪馬台国での養蚕の記録があることから、遅くとも弥生時代の中頃には日本に養蚕技術が入ってきていたと考えられている。

(195年の2000年前が弥生になる??)

 

立岩遺跡にも『素環頭刀子』に巻かれた絹織物が出土されているようである。↓

歴史的に見た日本文化と養糸業 布目順郎 著

https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/hiroba/Library/SanshiGijyutu/No087-7308.pdf

 

「絹の文化」嶋崎氏のお話

https://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/hiroba/summit01/toujitu/simazaki/simazaki.htm

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B2%A9%E9%81%BA%E8%B7%A1

 

網野善彦の論文

『日本中世の桑と養蚕』

美 濃 国 茜 部 荘,安 芸 国 都 宇 竹 原 荘 ,肥 後 国人 吉 荘,薩 摩 国 下 村 郡 ,筑 前 国 宇 美 宮
,安 芸 国 三 入 荘,美 濃 国 大 井 荘

 

今まで私が調べてきた中との接点の荘園を太字にしてみた。

生糸、撚ってある絹、桑 などをキーワードにしたことがなかったため、新たな視点が加わった感じがする。

此の 茜 部 荘は、特に大中臣氏を調べていた際に出てきたはずである。

 

大化の改新の際の「田之調」

wikipediaの中に「特に美濃国で作られた絹織物)である美濃絁と、上総国で作られた布(麻織物)である望陀布は、古くから品質は上質とされ、かつ東国豪族の忠誠の証を示す貢納品としても評価され、「東国の調」と呼ばれて古くから宮中行事や祭祀に用いられてきた。このため、美濃絁・望陀布に関する規定が特別に設けられていた。 」

…とあるように、美濃国は絹で有名であったようだ。

 

茜部荘は源光国が関わっており、また大中臣氏がまとめ役となっていたようである。

源光国の妻が大中臣輔清の娘であることも、関係しているかもしれない。

 

奈良時代の文献にも、

「五匹備中長絹   一匹美濃調絹  一匹安芸    三匹・・・」


 と出てくる。

 

茜部荘自体は源光国の時代には東大寺の管轄であったようで、「東南院文書」の中に美濃調絹に関しての記述がある事と関係しそうである。

 

*****

さて、前回の「元糺の池」の元糺は、元に糺すの意味かもしれない。

蚕は、繭のまま乾燥させ、羽化させないようにするために命そのものをいただいている。

其の命(繭の中の幼虫)を元に戻してやるための慰霊の場所だったのではないだろうか?

 

 

 

 

 


蚕ノ社(かいこのやしろ) 木嶋坐天照御魂神社

2023-07-13 | 古代からのつながり

http://www.kyoshri.grats.jp/shri1202.html

[ 元糺の池 ] がある神社でもある。

『京都の魔界』という本に(googlebooks) 以下のような記述がある。

下鴨神社の糺の森、木嶋社の元糺の池は、⻄の松尾大社方面からみて「朝日たださす」比叡山の方向にあるということだろう。つまり「糺」のつく大和氏は「朝日たださす」から転じたのが、元糺や糺の「タダス」という語だと指摘する。

 

私的には「元をただすと…」の「タダス」ではないのだろうか?と思ってもいる。

 

さて、古代と蚕の関係は‥‥

蚕と神に関しては、こちらに詳しかった。

http://shinshizo.com/2016/12/%E9%A4%8A%E8%9A%95%E3%81%AE%E7%A5%9E%E3%80%85-%EF%BC%88%E9%87%91%E8%89%B2%E5%A7%AB%E4%BC%9D%E8%AA%AC%EF%BC%89/

 

古事記によると、頭に蚕

日本書紀によると眉の上に蚕

養蚕秘録」は兵庫県養父郡の上垣守国(うえがきもりくに)が享和2年(1802)に著した養蚕全般に亘る教書(全3巻)。 

 

*****

私はここに『新羅』と『神功皇后』と『蚕』のつながりが見えるような気がしている。

近江の日牟禮神社の境内にある摂社にも関係してくるのではないだろうか?

 

更に、シルクという言葉。

 

さらには、以下にもつながってくる気配を感じている。

京都市北区にある平野神社祭神の一。「今来(新来)」の意で、百済 (くだら) から渡来した和邇 (わに) 氏の祖神、また桓武 (かんむ) 天皇の外戚の祖神とするなど、諸説がある。

 

平野神社(京都市北区)に祭られる神。「今木」の「木」は「来」の当て字で,今あらたにきた人々が祭る神の意。もともと,大和国(奈良県)高市郡今木の地に住みついた渡来系の人々によって祭られていた神。光仁天皇の夫人高野新笠(百済系)の祖神とされたが,新笠の子の桓武天皇の代に至って現在の地に祭られ,のちに平氏氏神となった。今木(いまき)神,久度(くど)神,古開(ふるあき)神,比咩(ひめ)神をまつる。794年(延暦13)平安遷都により,それまで大和国各所に奉斎されていた今木神,久度神,古開神を遷座,それに比咩神を加え奉斎した社。
 

蚕守を「こもり」と読むそうだ。 

2023-07-02 | 古代からのつながり

今まで四国に関する事を記事にしたのは数回に満たないと思うのだが、調べ始めると面白い。

まず調べたのが、忌部氏である。

http://www.awainbe.jp/

 

そこで、大桑神社(結城市)も知り「最初は阿波忌部(斎部)(あわいんべ)が大水河原に建てた」との情報があった。

「養蚕の神」が気になり、阿波の【悲願寺】を知った。

卑弥呼がいたという。

https://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2014/10/19/220005

 

四国は私にとっては未踏地でもあり、神秘的な感じがする。

 

栗枝渡(くりすど)神社

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%97%E6%9E%9D%E6%B8%A1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE

 

白人神社

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E4%BA%BA%E7%A5%9E%E7%A4%BE

 

どうもこの辺りとつながってくる蚕なのだと思う。


同じgooblogさんの中に、素敵な写真発見。【益田岩船】 

2023-02-26 | 古代からのつながり

 

 

こちらの『愛しきものたち』さんのブログ写真が、最も迫力があって、素敵だった! 

      

https://blog.goo.ne.jp/pzm4366/e/27e869fbcae7640353b795f32d40d915

 

例えばだが、両方の穴に木を入れて上部で火をともし、其の下からは水が溢れだす‥‥なんてことはないか。。。

火と水…