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九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

日本書紀(1)崇峻天皇の記事 など

2023-09-01 | 古代からのつながり


[ 『日本書紀』は、元正天皇の養老4年(720)に完成したとされるわが国最初の勅撰国史(天皇の命で編修された国の歴史)。撰者(編者)は天武天皇の皇子の舎人親王(とねりしんのう)ですが、ほかに紀清人(きのきよひと)や三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)らが編纂の実務を担当しました。
                   
全30巻のうち、巻1・2は神話的性格の濃い「神代紀」。巻3の「神武紀」以下、巻30の「持統紀」までは、年月の順に歴代天皇の事蹟や歴史上の事件が漢文で記されています。
                   
『日本書紀』が用いた資料は、『古事記』と較べはるかに多彩で「帝紀」「旧辞」のほか、朝廷の記録や個人の手記、中国の史書、さらに朝鮮半島に関しては、「百済記」等も用いられています。巻28以降(天武紀・持統紀)は朝廷の日々の記録に基づく記述も増え、記述の信憑性を高めています。]
                   
‥‥とwebページにある。

信憑性を高めている‥‥とのことだが、もちろん書きたくない事は省かれているのであろうと思う。

そのように編集したのが、舎人親王と思うが、持統天皇・藤原不比等からの圧力もあったろうと思う。

だが、崇峻天皇のことについて暗殺された後のことまで含めると16ページも割かれている。重要な事件であったと位置づけられていると思う。

なぜ、事細かに書かなければいけなかったのだろう。
本当にこの事件があって、あまりにショッキングな事件であったためその真相を明らかにしておきたかったのか、
はたまた、あたかも真実であったかのような印象を与えるためであったのか。




さらに、天智天皇・天武天皇の項のはじまりもアップしておこうと思う。




国立国会図書館デジタルで読めます!

天武天皇(下)







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舎人親王 (1) 母は新田部皇女(天智天皇の娘)

2023-09-01 | 古代からのつながり
本によっては、崇峻天皇は聖徳太子に殺された‥‥という説も登場し、何だか分からなくなってきたので一時中断している。

次に、編纂の最高責任者として日本書紀に携わった舎人親王。
この方も近江国御家人井口中原系図に記載があり、母は新田部皇女、妻は当麻氏となっている。



天武天皇は天皇という位置にありながらも、父親が判然としていない、誕生の年もわかっていない・・・ということになっている。
つまり、舎人親王の祖父に当たるであろう人物が不明‥‥という不思議なことになっている。

書いてはいけない事であったのか。
書いたのだが、後に消されたのか。
天武天皇を神格化するためであったのか。



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天武天皇の周辺 (5)崇峻天皇の皇子泊瀬仲王が 近代王(コノシロ)=聖徳太子の次男 長谷王か

2023-08-27 | 古代からのつながり
全くの想像から

崇峻天皇の息 泊瀬部大王=泊瀬仲王=長谷王=近代王

長谷王(近代王)の妻 佐富女王 その息葛城王・娘多智奴女王
長谷王の兄弟 蜂子皇子・錦代王(女?男?)

佐富女王の父田目皇子  
佐富女王の兄弟が高向王 その息漢皇子

崇峻天皇の息であった泊瀬仲王は、聖徳太子と同じ年代(田目皇子とも)であったと思われるが、用明天皇亡き後であったため、聖徳太子の養子として上宮家に入ったのではないだろうか?

因みに、上宮家も、元は奈良県桜井市上之宮にあったようだ。

聖徳太子の次男であるといわれている『長谷王』は年齢的には長男の山背大兄王よりも上であったかもしれないが、ともかく系図上は次男として書かれたのではないだろうか?

因みに、崇峻天皇の宮【倉梯岡陵】(くらはしのおかのみささぎ) も桜井である。

地図の左上の赤丸は上之宮(聖徳太子が若いころにいたといわれている)遺跡で、下に倉梯岡の宮があったといわれている場所である。
近いので、崇峻天皇の家族とは聖徳太子も幼いころからの知り合いであったろうと思う。



錦代王とは、近代王と音読みでは同じ「音」になっている箇所も気にかかる。

長谷王が崇峻天皇の皇子であった説は、私のなかではイチオシになってきたが、まだまだ確信には至っていない。

長谷王の妻となった佐富女王が、高向王歿後に、漢皇子を引き取り、長谷王の許で育った…など、何かそこにありそうである。


漢皇子の過ごした可能性のある場所【明日香】も倉梯岡にちかい。
明日香は高市郡であり、はじめ今米郡と呼ばれていたと思われる。(欽明七年七月紀) 
さらに、檜隈寺(道証寺、奈良県高市郡明日香村)は、東漢氏の氏寺であったそうで、七世紀の造営と見られる金堂・塔・講堂などの遺跡がある。 
この辺りに高向王もその息漢皇子も住んでいたのではないだろうか?
養育者が漢人という事と思う。

近江国御家人井口中原系図では高向利男の娘が【文章生 讃岐権介の長谷】の母であり、高向氏と天武天皇の系は縁がある事は確かと思う。

また、高向臣は錦部と関係があるようで、錦部氏のルーツを探ると
中原氏となって後につながってくる坂上氏や三善氏と、更に佐々木氏ともつながってくる。
高向臣周辺には、非常に近いものを感じるのである。




私的memo

錦代王、高向王、錦部‥‥

中原氏と坂上氏のつながり

高向王の妻が宝皇女

宝皇女の母は吉備姫王 父 茅渟王
茅渟王の母は漢王の妹の大俣王(おおまたのみこ)
茅渟王と多良王
吉備姫王(吉備島皇祖母命)


智奴王 と 多智奴女王


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天武天皇の周辺 (4) 近代王(コノシロ)=聖徳太子の次男 長谷王のこと

2023-08-26 | 古代からのつながり


















近代王…とは、近いうちに王になるであろう…との想いを名に込めたのだろうと思う。

近代王は聖徳太子の次男長谷王のこと、と『太子伝補闕記』(上宮聖徳太子伝補闕記)にあるそうなので、平安時代にはその認識であったのだと思う。



崇峻天皇と長谷部大王泊瀬部王)(泊瀬仲王) 崇峻天皇の皇子を泊瀬部大王と申上げたとも。

聖徳太子の息と言われている長谷王(近代王)(己乃斯重王)または、註(割)に(泊瀬仲王)(長谷部大王)ともあるようだ。

本の中でも混乱していて、よくわからなかったが、

近代は己乃斯と置き換えられるとしている。文書によっては「重」が「里」となっている。

己乃斯里の音は「ロ」なのだそうで、コノシロとなる。(周代古音考より)


コトバンクより【上宮聖徳太子伝補闕記】
  聖徳太子の行実を,調使・膳臣の家記にもとづいて記したという伝記。平安時代初期の成立。1巻。神仙譚的な奇異な内容の説話が多く盛り込まれ,神秘的な太子観の形成に大きな影響を与えた。山背大兄王滅亡の事件や《三経義疏》の撰述などについて,他に見えない独自の所伝がある。《群書類従》《大日本仏教全書》《聖徳太子全集》所収。【飯田 瑞穂】         
                                               






読んでいる本も、私も混乱している。

本の年表で崇峻天皇が長生きしたとし山背大兄王と共に行動していて、入鹿に殺された…というのも、実は聖徳太子の息子で、山背大兄王と兄弟であった方の長谷王だったのではないだろうか。

この聖徳太子の息を『長谷王』=泊瀬仲王=近代王=己乃斯重王と仮定して、先に進めていこうと思う。

仮の想像で
長谷王=泊瀬仲王は、聖徳太子の息に養子として入った崇峻天皇の皇子だったとすると、ココで混乱が解消するのではないだろうか?とも思う。

叔父の息を、甥が養子に…という形となる。
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天武天皇の周辺 (3)崇峻天皇の暗殺は、日本書紀のみの記述であったか。

2023-08-24 | 古代からのつながり

上記の本によると、
崇峻天皇が蘇我馬子・東漢駒に暗殺された記述は…下記の引用文献のなかでは日本書紀にしかないのだそうだ。

日本書紀の捏造…なぜ、この部分を捏造したかったのかを考えたい。
また、暗殺されていないとすると聖徳太子が息たちを匿う必要もないことになるので、また事情が変わってくる。

何かの帳尻を合わせるためだったのではないだろうか。

「592年の暗殺されたという説」以降の事と関係があるかもしれない。
そこにクリアになってはいけない(藤原不比等・持統天皇にとって都合が悪い事)何かがあったと仮定する。

崇峻天皇は73歳まで生き延びたのではないかと、この本は主張している。
そのようになっては都合上困る‥‥という日本書紀。
崇峻天皇の子どもが、それ以降も生まれていた事が問題であったのではないだろうか?
そこをもみ消したい‥‥という事が、捏造につながったのではないだろうか?


私としては、もう一度、まっさらな状態から再考する必要がありそうである。

崇峻天皇=長谷部大王、泊瀬部王、泊瀬王、泊瀬仲王…

泊瀬仲王は崇峻天皇の別称のようだが、此の「仲」は江州の中原・仲原の「仲」なのではないだろうか?・・・と、いう処から江州中原氏と繋げたのかもしれないことも気にかかる。

さて、どのように展開していくのか。
上記の本の続きを読んで行こうと思う。


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天武天皇の周辺 高向王のこと(2)崇峻天皇の周辺 私の勝手な想像はありえなかったか?

2023-08-20 | 古代からのつながり
私の勝手な想像は、1954年に出版された年表によると私の説はありえないとなるようだが… 其の本の年表は、引用した文書の内容をそのまま載せているもので、どれが真実なのかは表だけではわからない。

つまり多々の説が並行して書かれており、謎の多い崇峻天皇のようだ。

内容はこれから読んでいこうと思っている。
まずは年表から。






556年 推定とあるが、泊瀬部皇子が誕生している。


一方、田目皇子は571年に生まれている。

573年聖徳太子誕生
574年豊聡耳皇子誕生 と二説ある。


584年に蜂子皇子 生まれるとある。








628年(推古36年) 73歳の泊瀬王と書かれており、それが退位後の崇峻天皇という認識でもあるようなのだ。
つまり、暗殺されていない。

蘇我馬子は、天皇を暗殺したとして、なんの咎めも受けていないことがまず怪しいと思う。(東漢駒は崇峻天皇を暗殺した咎で馬子に殺されているが。。)

天皇の暗殺は大事件であるはずなのだが、はっきりと解明されていない。
当時もみ消された為か、殺されてはおらず退位しただけであった可能性もある・・・・のではないだろうか。

泊瀬王が崇峻天皇の退位後の名であったとして、628年迄生き延びたとする説があるならば、以下も妥当なのだろうか?

下記の607年に佐富女王を召す。天皇52歳 女王19歳、佐富女王はこの後 葛城王・多智奴女王を産んでいる。

崇峻天皇の周辺は絡り、ねじれている印象を受ける。

まずは本をじっくりと読んでみよう!!





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天武天皇の周辺 高向王のこと… 私の勝手な想像

2023-08-17 | 古代からのつながり
「天武天皇 隠された正体」関裕二著 ワニ文庫
久々に上記の本を読み返してみて、
此の天武天皇の父親が聖徳太子という説を信じる。

ただ、私の場合は、そこに崇峻天皇とも絡めた形になるのではないか?と思っている。

田目皇子=豊浦皇子 であり、崇峻天皇が暗殺された後に用明天皇・田目皇子に匿われたのが定世親王であり、豊浦宮に居たとみる。
崇峻天皇の第一子定世親王聖徳太子であったと仮定する。

さらに系図上では聖徳太子の第二子となる長谷王(泊瀬部の息)が実は聖徳太子自身のことだったのではないだろうか。そうなると、聖徳太子が崇峻天皇暗殺時に匿ったという伝承の蜂子皇子・錦代皇女が長谷王のもとにいたとしても、なんら不思議ではなくなる。

くどいが、崇峻天皇こそが聖徳太子の父親であり、聖徳太子自身が定世親王であったと仮定してみようと思う。

聖徳太子がなぜ天皇になれなかったのか。ならなかったのか。
それは暗殺された天皇の皇子であったからだと思う。

崇峻天皇の息 定世親王=高向王=聖徳太子=長谷王となる。
崇峻天皇 553年生まれで、聖徳太子は574年生まれとされている。

その定世親王が推古天皇の摂政となり、皇極(宝皇女)との息に『漢皇子』がいたのではないだろうか。(常世=漢皇子=天武天皇となる)
聖徳太子は622年に没しているので、予測では、この622年に17歳の宝皇女。622年あたりに天武天皇は生まれたのではないだろうか?

宝皇女は605年あたりに生まれたとみる。
宝皇女は630年に舒明天皇皇后となっている。(推定25歳)

ちなみに天智天皇は舒明天皇の皇后となる以前の宝皇女時代に生まれている。(626年)

*****

しかし、この説…田目皇子の娘に佐富女王がいて、長谷王の妻となっていたためにそのように感じるのかもしれない。

*****

定世親王が聖徳太子…

十七条憲法 で世を定め、古代の人が理想郷としていた 常世となるよう・・・
の意味で、息に常世と名付けたのかもしれない。

常世=天武天皇となるのではないか?


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継体天皇の周辺 (1) 安曇川 三尾 胞衣塚 と 継体天皇の父 彦主人王の墓

2023-08-12 | 古代からのつながり
継体天皇の周辺

継体天皇の母親の振媛が『臍の緒』を埋めた胞衣塚。
継体天皇の父親の彦主人王は、高島郡の三尾という地で、継体天皇が幼い時に歿したらしく、田中王塚古墳=彦主人王の墓と言われている。




右下が胞衣塚(継体天皇のへその緒)で、左上が『彦主人王の墓』である。

地図を見て驚いたのが、以前引いたライン上(大島奥津島神社・厳島神社・日置が測量したかと思われる山のライン上)に此の塚があるのではないだろうか?




手前黄色が若宮社で、上の赤丸が継体天皇の胞衣塚

安曇川の近くには鴨川があり、賀茂稲荷山古墳がある。
出土されたものは、目を疑ってしまうほど煌びやか!!(レプリカ)



高島郡って、すごい処だったのだと再認識。

三尾に関しては、前回の本にも記載があった。
新羅神社と古代の日本 出羽弘明 著
「三尾郷のあった高島町にある稲荷山古墳の石棺内には新羅製の金、銅の冠、沓、耳環等の副葬品とともに祭具もあり、新羅系の渡来民族が居住したことを示している。三尾君族の古墳とみられているので、三尾氏は新羅系氏族という事になる。

(三井寺の境内の三尾神社に関して)‥‥の大友村主は此の三尾明神も守護神としていたが「三尾神社は秦河勝の裔で臣国と云う者が初めに神職に任じられ‥‥」(寺門伝記補録)とあるので、新羅系の秦氏の守護神だったのであろう。したがって‥‥高島郡と同様に古い海人系の渡来民族が入植していた可能性が強い。」


*****

‥‥しかし、隅田八幡の人物画像鏡にもあるように、継体天皇は百済の武寧王と友人であったかもしれないのだ。

継体の妻 手白香皇女の時代(武烈天皇)に『武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、「諱は斯麻王という。これは昆支王の子である。則ち末多王(東城王)の異母兄である」としながらも、「今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。末多王は昆支王の子である。これを異母兄というのはまだ詳しく判らない」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。』と書かれているように、同時代を生きた継体天皇と武寧王である。

百済国と新羅国と、どちらともに関係のあった継体天皇だったのであろうと思う。

海外に目を向けていた理由もそこにありそうである。
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豊前の秦王国 田川郡 香春岳(かわら・だけ)

2023-07-22 | 古代からのつながり

豊前の秦王国(【渡来の民と日本文化】 沖浦和光・川上隆志 共著 現代書館)

この章の著者である川上氏の説によると

秦氏の原郷は、朝鮮半島東南部の加羅で、4世紀から5世紀にかけて大集団で渡来した加羅の人々を「秦氏」と総称していた。

筑豊の地 福岡県田川郡 香春岳

この香春岳からは、様々な鉱物が採掘されたそうだ。

『日本鉱山総覧』によれば、金・銀・銅・鉛・亜鉛・鉄・石炭がある。

本書によると、
【香春岳のふもとには香春神社がある。
『豊前国風土記』逸文に「新羅の神」を「鹿春の神」と名付けたとあるように、ここは秦氏の信仰の拠点であった。
この香春神社は、宇佐八幡宮の元宮・古宮とも言われている。
神官は、秦氏系の赤染氏と鶴賀氏であるが、鶴が氏も、若狭の敦賀との関係も考えられる渡来人の氏族である。
祭神は辛国息長大姫大目命、忍骨命、豊比咩命の三座である。】


上の記事と関係してきそうな、刮目天一様のブログ

https://blog.goo.ne.jp/katumoku10/s/%E9%A6%99%E6%98%A5


四天王の鷹 谷川健一 著


 



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秦氏 山城国葛野郡→カモ氏との接点  近江国愛智郡秦川村→中原氏との接点ヵ?

2023-07-22 | 古代からのつながり

山城国葛野郡は、

(五九五)に高句麗の僧慧慈や百済の僧聡らが帰化した頃、

慶州から渡来した秦氏とその一族が開発した土地であった。

秦氏は、葛野郡野村に拠点を定め、秀れた技術者集団を掌握して ...

 

 

百済より帰化し、雄略天皇期には一万八千六百七十人にものぼった秦氏だったそうだ。

雄略天皇(wikipedia)

「呉国()から才伎(てひと、手工業者)の漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招来し、

また分散していた秦民(秦氏の後裔)の統率を強化して養蚕業を奨励するなど、渡来人技術者を重用した。

 

*****

 

朝鮮半島は何度も国境が変り、国の名も変わっているため、秦氏が新羅からか百済からかは微妙だったのではないだろうか?

そのために【渡来人】と総称していたのかもしれないと思う。

 

手許にある【渡来の古代史】上田正昭 著 角川選書には、

《1145年に高麗の金富軾が編纂した『三国史記』(地理志)には、慶尚北道の波旦県がみえる。これに注目したのが鮎貝房之進説で、秦氏の「ハタ」の起源を新羅の古地名「波旦」に求めた。・・・

私はこの碑文発見の報に接して、日本人ではもっとも早く現地へおもむいて碑石と碑文を確認したが、今では鮎貝説に賛同している。》p.48

 

慶尚北道 ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E5%B0%9A%E5%8C%97%E9%81%93

 

 

【「記・紀」「大和志」の片塩の都・浮孔の宮考】田中昭三著書

この神社を創祀し守ってきた人々は新羅から来た秦氏、という説が浮かんでくる。(神社ができた時代の新羅と百済の関係はどのようになっていたのだろうか?)

 

「ソ」は、本の中では、新羅の意味を持った「ソ」という認識で進んでいる。

本中の例では『新羅は昔はソラブル、ソヤブル、ソナブル、或いはソブルとも言った。今でも韓国の首都はソウルである。ソは新羅の原号である…』とある。

また、ココで疑問が生じる‥‥ソウルのあった場所は、新羅になった事はあるのだろうか?

そこで調べてみるとweb情報に

https://japanese.seoul.go.kr/%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3/1-%E6%AD%B4%E5%8F%B2/

「新羅の真興王は、ハンソン(漢城)地域が新羅の領土である事実を示すため、プカンサン(北漢山)ビボン(碑峰)に巡狩碑を建てた。これがプカンサン(北漢山)チンフンワン(真興王)巡狩碑である。新羅は三国を統一して、高麗によって滅ぼされるまでソウルを支配したため、ソウルでは多くの新羅の遺物が発見されている。

 

新羅の真興王 ↓

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E8%88%88%E7%8E%8B

上記のハンソン(漢城)地域が現代のソウルのあった場所と思うのだが、「ソウル」と呼ばれ始めたのはかなり後世のことであろうと思う。あまり新羅の「ソ」とは関係ないような気もする。

 

細部にこだわらず先に進もう。

 

石園坐多久虫玉神社の由緒に依れば、『祭神は北殿は建玉依比古命、南殿は建玉依比売命とされている。この二座の祭神は賀茂氏神系の神々である。』とある。

「鴨氏人は秦氏の聟なり。・・・」

秦氏が上賀茂・下鴨・松尾の三社を祭るようになった…その理由は諸説あるのだが、とにかく秦氏の聟にカモ氏がなった事は確からしい。

 

養蚕と織物の技術を持った秦氏。

上の二つに加え、農耕、鍛冶・鋳造、土木などの技術・雅楽・少し後の時代には仏像を伝えた新羅国からの渡来人・秦氏である。

 

全国に【新羅神社】があるように、秦氏も全国に技術・文化を広めるために広がっていったと思われる。

近江国にも、源義光も新羅明神前で元服し『新羅三郎』と呼ばれていたように、園城寺の北殿に新羅善神堂があり、新羅明神様がいらっしゃる。

 

以下のHPには貴重な情報が書かれていたので貼っておく。

宇佐八幡神は新羅の神だった

http://web1.kcn.jp/tkia/mjf/mjf-51.html

『秦氏は新羅系加羅人と思われる。』

このHP と合わせて

下記のgooglebooks『八幡守とはなにか』を読むと宇佐八幡が入ってきた後のこともわかると思う。一部読めない部分もあるが、かなり読める。

(一度ボタンで小さくしてから大きくしますと読めます。)

https://books.google.co.jp/books?id=Pb1r7P0iUIUC&pg=PA115&lpg=PA115&dq=%22%E6%BC%86%E5%B3%B6%E6%99%82%E5%AE%88%22&source=bl&ots=Q7i70cDQK-&sig=ACfU3U2OlIqDeKispSKoxkT3koBTEM6ztg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiG9KiI_cr4AhVF4GEKHf1UAlwQ6AF6BAgDEAI#v=onepage&q&f=false

飯沼賢司 著 角川選書

 

秦氏とカモ氏、

秦氏と息長氏、

秦氏と和邇氏、

秦氏と紀氏、

みな接点がある。

 

近江国依知郡の秦氏と中原氏も接点があるはずで、開発領主となっていた中原氏はもしかすると秦氏の聟に入っていたのかもしれない。

 

近江愛智郡志にも、秦氏の名前が多々登場していた。

秦川村という地名もあったようで、この周辺を探れば、中原と秦氏の関係が見えてくると思う。

 

 

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