歴史地震史料検索システムでは、「こちら」と書かれている所から奥に入り、お湯どのの上の日記の記載が出てきた。(おゆどのにっき、と思っていたが、お湯どのの上の、とある。)
歴史地震史料検索システムでは、「こちら」と書かれている所から奥に入り、お湯どのの上の日記の記載が出てきた。(おゆどのにっき、と思っていたが、お湯どのの上の、とある。)
四月の三行目に九里、三井以下…とある。
延徳4年(1492年)3月、安富元家が六角軍に奇襲されて金剛寺から敗走した。足利義材は赤松政則、武田元信、斯波義寛に出撃を命じ、浦上則宗、逸見弾正、織田敏定が送り込まれ、3月29日、安富元家と合流して簗瀬河原で六角勢4000人を打ち破った。義材は浦上らに感状と太刀を与えている。同年5月、義材は安富元家に替えて斯波義寛を先鋒に任じ、赤松氏、武田氏と共に甲賀に送り込んだ。さらに10月17日には自ら出陣して金剛寺に本陣を置き六角征伐を進めたため、六角軍は甲賀を捨てて伊勢に逃亡したが北畠氏の軍勢に迎え撃たれ潰走した[3]。
足利義材は、細川政元に替えて六角虎千代(六角政堯の養子)を守護に任命して兵を引き払い、12月14日に京に凱旋した。
===*===
ところが、その虎千代もすぐに没落したようである。
この時代は将軍家・六角・京極の佐々木氏さらに出雲の尼子経久までも入り乱れて、様々な戦いが繰り広げられている。
複雑なので、今はパス。
佐々成政は政堯の後裔と伝える。
後法興院記 第三巻 九里次郎(伊賀守息)が出ているそうである。
また、久利氏二人も、記載がある様で何とか探して読んでみたい。
後法興院記(下)が国立国会図書館デジタルにあった!
近衛政家の日記で、読んでいると恰もこの方とお知り合いのような気がしてくる。(笑)
今日は薬湯の日でしたね。猿楽も楽しゅうございましたね。
「梅見事」とあるので、今日は梅を愛でましたね!
・・・などなど、何かしら会話したくなってくる。
人さまの日記をこのように垣間見てしまってよいものか‥‥でも、その時代の生活をみる貴重な機会であり、一応人にも見られることを意識していたかもしれない(例えば、近衛一族の後裔に)
彼、近衛政家もまた【日記の家】であったのだろうか?
wikipediaには書かれていなかったが、政家と尚通は、日記を残している。
近衛政家の時代明応の大地震があった。
調べものついでにこのようなものが見つかった。
歴史における地震(の資料)が一目でわかる。
(明応の地震)明応地震と港湾都市・明応七年紀州における地震津波と和田浦 等…
1498年9月20日の事項を見ていくと出ている。マグニチュードは8.2-8.4 とある。
http://etna.seis.nagoya-u.ac.jp/HistEQMap/
今、気にかかっているのは、江州中原氏の時代には、九条家・一条家・日野家・広橋家等の家司をしていたと思われるため、それが九里氏にも繋がっていたのではないだろうか?という事である。
「家司 九里」と検索すると、京都叢書にあったのである。
私的発見!!
それが【九里九郎左衛門】である。時代はわからなかったが、家司が九里にもいたのである。
===*===
もう一つ、それとは別に出てきた情報memo
東寺宝菩提院旧蔵星曼茶羅図残閾について 武田和昭著
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1993/183/1993_183_1/_pdf/-char/ja
こちら今の星占いに通じている。平安の後期のようだが、入ってきたのはそれよりも以前であろうと思うので、益々興味深い。
真本在三鷹司家元社頭同年中行事書卷
真本在三鷹司家,
同石山寺緣起真本在石山寺、
原家西行記畫
九里家東寺大師行状東寺
長谷川家日高川畫巻日高道成寺
柳原家王生寺緣起 ...
この 久里九兵衛 ・ 九里武兵衛 が、弘前藩にいた。
武兵衛方‥‥とあるので、武兵衛が家の主で九郎衛は、弟か、息か、甥か、と想像できる。が、同一人物かもしれない。
津軽での事件に巻き込まれたのは「久里九兵衛」であるのか?
「九里武兵衛」であるのか?
彼の名「久里」を九里とすると「九里九兵衛 慶長五年に利長が大聖寺の山口宗永へ降伏するよう使者として派遣されるが断られ戻る。大聖寺城で戦い、金ケ丸で戦没。」とあるので、その裔となりそうである。
しかし、近衛氏の猶子(庶子)となった大浦氏に仕えることとなった者もいたかもしれない。大浦光信の娘(阿久)が尚通の子・大浦政信を産んでいる。尚通が25歳の時の息と成る。
政信は1541年に歿している。
九里源兵衛と但馬が赴いたわけではなさそうなので、また何か新しい情報が入った際に戻ることとし、
九里但馬の周辺を探したい。
なんせ、大和国と関係がありそうなので、大和宇陀松山藩の九里に距離が近い!
https://pleasure-bit.com/3604.html
「一、何の落ち度も無いのに、全く恩賞を受けられない者達が信長に泣き言を言ってきます。私は以前にも彼らに対して恩賞をお与えになるように申し上げましたが、その内の一人にもお与えになっていないようですね。私の彼らに対する面目がありません。「彼ら」とは、観世国広(かんぜくにひろ)・古田可兵衛・上野豪為(うえのひでため)のことです。」
と名前が出ている。義昭の許でも働いていたことがココでもわかる。
という事は、九里但馬もいたかもしれない。
義昭は1568年から将軍職だが、それ以前から’上野清信と同一人物ならば、だが、)越前朝倉氏の許へも供奉している。
桜本坊豪為は、1564年・1565年、足利義輝・足利義昭の近くにいた者であったようである。
という事は、九里但馬もしかり。
上野清信という人物が、上野紀伊守豪為=桜本坊豪為であったかもしれない。
というのも、父の上野信孝が、以下のように書かれていた。
「信孝が幕府内に大きな発言力を持つようになるのは、13代将軍足利義輝の時代になってからである。度重なる義晴・義輝の近江動座に随行したことで義輝やその生母である慶寿院から信用を得たのではないか、と推測している[1]。」[1]は 木下昌規「総論 足利義輝政権の研究」木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第四巻 足利義輝』(戎光祥出版、2018年)
信孝は1563年に歿しているため、其の跡は息清信に渡ったのではないだろうか?
ただ、紀伊守とは書かれていなかったので、別人の可能性もあると思う。
この桜本坊という場所のほうは、たぶん吉野の‥‥と思われるのだが、如何であろうか。
この人物の被官であった「九里但馬」ではないだろうかと思う。
共に記されている「慶寿院」は1565年迄生存しているため、下記の文書(二枚目)の1564年も桜本坊豪為であった可能性があると思う。
つまり九里源兵衛の息の活躍期と成ると思う。
九里但馬は、1530年位に生まれた人物かもしれない。
慶應大学 所蔵古文書
上野氏
東坊城和長は明応九年「凶事記」なるものを書いている。
同人の書いた「菅別記」には宗恩(九里浄椿)のことが簡単に書かれているそうである。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532994
ご興味のある方は、割と読みやすい文字の方ではないかと思うので、挑戦すると面白いことがわかってくるかもしれない。
私は、パス。(笑)
中原氏も似たような職種であったろうと思うので、興味はあるのだが、古文書は読めないし、何だか怖ろしい~~。
さて、この東坊城氏は「天皇の侍読を務める家」「紀伝道」とある。女性も「勾当内侍」として出仕している。
広橋氏・唐橋氏・小倉氏との婚姻関係がある様だが、あまり九里にダイレクトには関係がないかもしれない。
九里源兵衛が
近衛氏の家司的な存在であったと仮定する。と、その後の足利氏にも関係してくる。
近衛尚通の娘が足利義晴に嫁いだためである。
いつから櫻本坊の九里但馬になったのだろうか?
九里対馬(源兵衛のこと)の間違いなのではないだろうか?
それとも、息かもしれない。
他にも員秀の息であった(小十郎だったか?)が成長して、其の裔の系もあったであろうと思う。
忠富王記に、小十郎だったと思うが、員秀の代わりとして登場している。
近衛氏の息に大浦氏となった人物がおり、津軽とも繋がってくる。
九里源兵衛の裔は、津軽へ上方からやってきた乾氏と言われている「乾安儔」と共に赴いていたのかもしれない。それが九里武兵衛かもしれない。近衛の息であった大浦氏の家臣として働いていたのではないだろうか?
(前野氏の武兵衛が九里に養子に入っていた可能性もあるとは思うが、違っていたかもしれない。)
乾 安儔(いぬい やすとも)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。津軽氏の家臣。
忠富王記に登場していた「乾大夫」の裔かもしれないし、もしかして、妻が九里であった、母が九里であった、など何かしら九里と関係があった人物かもしれないと思う。
===*===
wikipedia 近衛尚通
近衛尚通の猶子:大浦政信 - 大浦氏(のち津軽氏)は政信を尚通と大浦光信の長女・阿久の間にできた子とし、以来本姓が源氏(清和源氏)から藤原氏に変わったとしている。江戸時代に至って当時の近衛家当主近衛信尋により認可され、津軽藩主津軽家は本姓を藤原氏とし、近衛家の親族を称した。
===*===
また、九里三郎の系は近江にいて、黒橋で闘い歿するがその息が九里三郎左衛門として生きていたではないだろうか?
しかし、織田信長にスパイ容疑を掛けられ、舎弟の永田景弘に領地も、働いている人達も、皆宛がわれることになる。
置賜へ行った薬種業の「九里三兵衛」は、この三郎左衛門と繋がっているのだろうか?
===*===
もう一人、上杉憲政の家臣であった目賀田氏(妻は上杉憲政の嫡子龍若丸の乳母)と共に居た九里采女正。
北条氏康に註されている。1552年
===*===
さらに、他に朝倉氏の家臣に九里吉忠がいる。
この人は、九里次郎左衛門尉吉忠と次郎なのだ。(源兵衛の息か?)
という事は、十左衛門(十郎左衛門)と同じ朝倉氏の許にいたのか、はたまた十左衛門は六角の家臣として赴いたのか、はたまた足利義昭や近衛氏のもとにいた九里なのか…
少し詳しく年代を追ってみよう。
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1534年足利義晴が正室慶寿院(近衛尚通の娘)を迎えている。
朝倉義景は義晴の息の世代の人物で(1533‐1573年)、正室が細川晴元の娘 継室が近衛稙家(近衛尚通の息)の娘であり、
足利義輝の妻もまた近衛稙家の娘である。おなじく近衛 稙家の息に前久がいる。
前久と義輝は同い年の従兄同士だそうだ。
其の義輝の弟に義昭がいるが、間に足利 周暠(あしかが しゅうこう、周高・周嵩)がいる。
鹿苑院の院主にまでなった人物で、鹿苑日録に九里源兵衛が登場していたが、もしかすると足利関係からかもしれないヵ?
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もしも、もしも、の連続だが、そうしないと進んで行かないもどかしさがある。
源兵衛の息か、養子か、またはただの親戚か、が、津軽に赴き、1611年の事件と成ると源兵衛が生まれてから約100年ほどの開きがあると思われる。
九里対馬守源兵衛 ー 九里但馬他たくさん ー 養子 武兵衛 ー 九里十助(後の武兵衛) というのが、今のところの頭の中である。