青鷺は、お父さんも雛の世話をするのかもしれない。
双眼鏡でのぞいた際に、もふもふの胸毛があったので明らかにお父さん。
巣の上に座って雛の上?卵の上?にいるようであった。
それにしても、カラスがしつこく威嚇していた。
雛の声が響き渡っている為、カラスも気になるのかもしれない。
とうとう、コロニーを見ることができて幸せ! 頑張って子育てして欲しい。
エゾエンゴサク ↓
エンレイソウ ↓
↑ タツタソウ だそう。初めて見た花。
青鷺は、お父さんも雛の世話をするのかもしれない。
双眼鏡でのぞいた際に、もふもふの胸毛があったので明らかにお父さん。
巣の上に座って雛の上?卵の上?にいるようであった。
それにしても、カラスがしつこく威嚇していた。
雛の声が響き渡っている為、カラスも気になるのかもしれない。
とうとう、コロニーを見ることができて幸せ! 頑張って子育てして欲しい。
エゾエンゴサク ↓
エンレイソウ ↓
↑ タツタソウ だそう。初めて見た花。
大正九年の九里は?
九里四郎のことと思われる「道柳子」
まず、四郎の父は南郷茂光であり、加賀藩士・遠藤家の出であった。南郷氏に養子に入り、その息四郎が同じく加賀藩士であった九里に養子に入る。
南郷茂光の妻は嘉納治五郎の姉の柳子である。
私の予感でしかないが、この「道柳子」とは九里の妻である道子の「道」、そして南郷であった時の実母の柳子の「柳」という意味ではないだろうか。
大正12年、とんでもないことが起きてしまう。関東大震災。妻と長女をこの震災で亡くしてしまう。
震災被害者の遺族による「妻と子を掘る記」(九里四郎)が残されていることを知った。
file:///C:/Users/mamo/AppData/Local/Temp/1.pdf
PDFの68頁にその時の気持ちが記されている。
息子たちと奈良に移り住み、志賀直哉を奈良に誘う。息子は「正」と「光」か? 正のことはwikipediaにでていた。
交友関係が広かった九里夫妻なので、そのあたりを探るといろいろとわかってくるかもしれない。
そうなのだが、いつも中途半端で終ってしまう。
高村光太郎 とも交流があったようだ。
http://koyama287.livedoor.blog/archives/2018-06.html
これは、うれしい新情報であった!!
つい最近の事。
『名編集者 パーキンス』A・スコット・バーグ 鈴木主税訳 草思社文庫
を読み始めた。映画を先に見て興味を持って本を購入。
偶然の重なりで我が家にやってきたBaldwinのピアノ。
もう新しいピアノにしたい…などと思いつつもいまだ我が家にある。
このパーキンスのアメリカの話を読んでいると、このピアノが出来た時代と重なっていて興味深い。
以前、調律師さんから聞いた話では1920年に出来たピアノ…という事であった。(本当かな?)
http://www.baldwinpiano.com/history.html
https://antiquepianoshop.com/online-museum/baldwin/
https://denver.classicpianos.net/used_pianos/baldwin-hamilton-professional-studio/
1920年、日本では大正九年で「大恐慌」の年であった。
アメリカでは禁酒法が始まった年でもあり、狂騒の20年代と呼ばれている。
https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/3488/#jplist
Baldwin Piano Company
私が調べたところ、そのように古いものではなく1978年あたりなのではないかと思う。(笑)
https://denver.classicpianos.net/used_pianos/baldwin-hamilton-professional-studio/
上のHPにそっくりで、お値段も安かったので、たぶんそう。
私自身は、この小学校や教会で使うのに大量生産されたタイプと思っている。
http://shiga-bunkazai.jp/download/kiyou/03_oohashi.pdf
https://ameblo.jp/asahonmati/entry-12667187649.html
『激戦の末、この地の賊を平らげた日本武尊軍は、足柄峠を越えて三浦半島に向かう。
日本武尊軍は、三浦半島から上総への出航に際して暴風に見舞われ、遭難しかけたが、弟橘媛の入水犠牲により、上総にたどり着く。
この後も、海路陸奥まで軍を進めた。やがて、東国を平定した日本武尊軍は帰途につき、建稲種命軍とは別れ、内陸を進んだ。
甲斐・信濃を経て美濃に入り、尾張との国境の内々峠に差しかかった頃、海路を行った建稲種命の伊豆沖遭難死の悲報が伝えられた。
日本武尊は、「ああ現哉(うつつ)かな、現哉かな。」と嘆き、その内々峠に「内々神社」を立て、建稲種命の霊を弔った。』の部分が大事と思った。
===*===
深堀はしないが、この後にヤマトタケルの息である仲哀天皇と妻となる神功皇后の時代となる。
という事は、九里(久里)双水古墳の前の時代となる。
そこに近江と上総、近江とまつら國とのつながりができる。
日牟禮神社〰奥津島神社~沖島の厳嶋神社
http://sazanami217.blog.fc2.com/blog-entry-438.html
「かなり古い時代に、玄界灘の宗像信仰がそっくり琵琶湖に持ち込まれたとしか言いようがありません。
そもそも日牟禮八幡宮は宇佐神宮よりの勧請で、宇佐神宮は宗像三女神を祀ります。さらに宇佐神宮の起源は、御許山山頂の奥宮にある3つの巨石。この信仰グループはよく似ています。
琵琶湖の大嶋奥津嶋神社周辺にも、武内宿禰や天之御中主神にかかわる巨大な磐座などがごろごろし、宇佐や宗像に勝るとも劣らない古い伝説と信仰のある地域です。
地元では「近江高天原説」を支持される方も結構おられます。
単に宗像や宇佐の信仰を誰かがもちこんだというだけでは済まない、なにかわけありの古い歴史があるような気がします。
」と書かれている。
両方の神社の写真もあり、巨石信仰にもつながりを求め、興味深い記事でした。
【瀛津島】の「瀛」という漢字が気になります。
天淳中原瀛真人=天武天皇 にも使われている漢字。
ということは「おき」、と読んでいて、
「腰の十拳剣を噛んで生んだ子供が瀛津嶋姫(オキツシマヒメ)です。九拳剣を噛んで生まれた子供は湍津姫(タギツヒメ)です。八拳剣を噛んで生まれた子供は田心姫(タゴリヒメ)です。以上三柱の女神です。」に通じます。
https://nihonsinwa.com/page/2021.html
この「おき」が、長い年月を経て「隠岐氏」「興氏」と変化していった‥‥という事もひょっとするとあるかもしれないと。
そして今回初めて拝見した「長命寺」のページ
水茎の岡山を望む写真がありイメージが広がりました。
http://home.s01.itscom.net/sahara/stone/s_kinki/shi_tyomeiji/tyomeiji.htm
https://oncoj.ninjal.ac.jp/?lang=ja
上代日本語 飛鳥時代から奈良時代(7〜8世紀)にわたって使用されていた言葉を検索できるようである。
http://npcmj.ninjal.ac.jp:9998/cgi-bin/overview.sh?db=oncoj
世界で、このように古い日本語に対する興味を深めるツールができていることに驚いてしまう。
私はまだダウンロードしていないし、どのように使うのかを読んでいない。
どなたかご興味のある方、試してみてはいかがでしょうか?
ここまでは普通のネット情報なのだが、左の番号を押してみると、その言葉を一語一語枝と見て、言葉の樹(ツリー)を創っていく。
いやはや、ちょっと細かすぎて…でも、役に立つことがあるに違いない。私は使いこなせないと思うので、パス。
私は取り合えず、情報提供のみで失礼します。
たまたま見つけた良い情報!と思います。
以前から何度か見かけていた『仁木七郎』(仁木民部少輔)に関して少々分かったことを書き留めておく。(仁木義広の父か?)
wikipediaによると
仁木政長の子ヵ?
兄に仁木刑部大輔。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E6%9C%A8%E7%BE%A9%E5%BA%83
この仁木七郎が「後法成寺関白記」に記載されていることがわかった。
大永4年に山城国相楽郡の笠置寺へ討ち入っている。
九里一党が仁木七郎の配下の者となって、笠置寺に夜討ちをかけている時と思われるので、調べてみると「東浅井郡志第二巻」にあった。
2018年にも調べていたので、ココに留めておこう。
https://blog.goo.ne.jp/kunorikunori/e/010199265ca6f97f5bc2b512961c12e8
鈴木かほる様の記事もこの周辺に触れてあるので、おいておこう。
http://www.yougakuji.org/archives/560
『清和源氏向系図』(以下『向系図』と略す)によれば、向井氏始祖は、源頼義流・仁木実国の後胤・仁木右京大夫義長(元応二年3/3生)の子、四郎尾張守長宗と伝える。
源頼義―義家―義国―義康(足利祖)―義清―義実―実国(仁木祖)―義俊―義継―師義―義勝―頼章。師義―義任。 義勝―義長―満長。 『尊卑分詠』第三篇
仁木義長―満長。仁木義長(向祖)―長興②―長忠③―長春④―長勝⑤―忠綱⑥―正重⑦―正行(政勝)。正重⑦―正綱(徳川幕下初代)―忠勝②。
忠綱⑥―正利―正直―正吉(以下略) 『清和源氏向系図』
其の向井氏が、長谷川氏と密に繋がってくる。
この本の中に「弘瀬郷」が出てくる。
http://www.katsurabook.com/booklist/1061/
以前この桂書房さんのページの下にある青い本「石黒党と湯浅党」を購入してあったので気になって調べてみた。
鎌倉時代になってからの石黒氏と石黒荘
『武士としての石黒氏の名が多くの文献から消え、新し荘園の管理者としての「藤原氏」が登場してきた。』
この本によると、石黒一族の中で藤原姓を名乗った者と見て間違いないとある。
登場するのは…(上記の本からまとめると)
藤原定直(源義仲からの安堵の下文を持っている)弘瀬郷の開拓領主 下使識
頼朝は義仲を滅ぼしたのち「鎌倉殿勧農使」として比企朝宗を越中に派遣する 元暦元年(1184年)
定直は建仁三年(1203年)比企一族で当時越中国守護だったとみられる大田朝季から「地頭沙汰」を安堵
「比企能員の変」により比企一族が北条氏に滅ぼされ、越中にも動揺が起きた。大田側に付いたと見られた人物は招集され罪を問われた。定直にも嫌疑がかけられたが「私は弘瀬郷下使識に過ぎません」と弁明に務め科なし、となる。
元久元年(1204年)定直は晴れて弘瀬郷地頭と認められる。元久二年には公文識も認められる。
===*===
さて、比企氏の一族の中に「大田朝季」
http://www.city.higashimatsuyama.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/37/23_9.pdf
上記の小論によると、藤原秀郷流の中から‥かもしれないと思う。
https://blog.goo.ne.jp/magohati35/s/%E5%BC%98%E7%80%AC
「藤原利仁の子孫の加賀の林氏と婚姻して、林氏の名跡を継いで以後、林氏の「藤原氏」を名乗る様になる。」とあるので、其の藤原氏が藤原定直の系かもしれないとも思う。
ここは深堀はしない。
大和国広瀬大社とは関係がないかもしれない。一応memoに留めておこうと思う。
皆様のPCは、如何なのでしょう。
更新後、なんか調子が悪いような気がしています。
昨夜なんぞは、スタートボタンから終了のタブが出てこない…
どうやって終わればよいの???という状態。
右クリックしてみましたら、タブの中に終了もあったので、そこから終了してみました…
このPCも8年以上は使っているので、もしかするともうそろそろ???
もしもブログの更新がずっと途絶えていたら、PCが壊れている時と思います。ヤレヤレです。