九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

私の系の九里(大和宇陀松山藩・丹波柏原藩)(1)

2021-02-19 | 九里【まとめ】

その昔にはキリシタンであったとの想定の許、考えていく。

近江八幡にいた九里員秀の娘は大内裏の長橋局房にいて(忠富王記)、やはり院には乾大夫がいたのだ。
これは同じ文書内で見ることができている。

九里員秀の娘がその後、乾太郎左衛門に嫁いだと仮定。
(長命寺縁起に九里のいた水茎岡山城の城主乾甲斐守との記載があるそうである。…九里が歿した後である。)

其の乾太郎左衛門の裔が後に茨木の乾大夫にも繋がっていると考える。

http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/itou.pdf

この茨木の周辺に継体天皇陵もある。(太田茶臼山古墳)(関係はないかもしれないが)

岡山藩から鳥取藩に移った池田藩主(光仲)はキリシタンであった。その家臣であった乾氏もキリシタンであった。

茨木の乾氏と同族の乾氏
ならば、これが傍証と成るかもしれない。



===*===

わが九里の系図は政直から始まっている。

岡田政直は九里政直となった。

岡田某氏は京にいた「岡田氏」とも関係のある人物であった、と仮定する。
京・伏見には原胤信がおり、宣教師の求めもあり伝道所を創建に協力していた。

「慶長5(1600)、胤信は大坂に於いて、イエズス会神父ペドロ・モレホンより洗礼を受け、ヨハネの洗礼名を授かった。どういった経緯で神父と出会ったかは定かではない。
慶長6(1601)年の伏見城再建時…」と千葉氏の中の「原胤信」によるとそう書かれている。

https://chibasi.net/hara15.htm

この原胤信と弟とその裔は「岡田氏」を称することと成る。

【原吉王丸 岡田元泰と称す】 と文書に出てくる。そう、確か胤信は吉丸と書かれていた。吉王丸も胤信かもしれない。
家康の前では、すでに岡田を名乗っていたのかもしれないし、逐電したのちの事なのかもしれない。

ともかく、原氏から岡田氏と称するようになっている。







===*===

前野長康の娘が藤堂高虎の配慮で京の岡田氏に預けられた。

===*===

京都に住していた「岡田氏」が鍵を握っている。
前野氏・藤堂氏が良く知っていた人物、且つ、もしかすると「原胤信」ともかかわりがありそうな人物。

岡田重能(重善)は尾張国星崎城にいた。尾張と云えば前野氏本拠であり、当然知っていたと思われる。
佐々氏も当然知っていたと思う。

前野氏・佐々氏とのつながりがあるという事は、長い目で見ると「良峯姓」として繋がっているのが「原氏」である。

1595年に前野長康の娘を預けたのなら、岡田重能(重善)は1583年に歿しているため無理である。
重善の弟が僧であった。「良沢」という。
京都の寺にいたならば、この人物がそうかもしれない。

そして、さらなる可能性としては息の岡田重孝と善同、娘であった山口重勝の妻である。

しかし、その息の岡田重孝も、織田信雄に誅される。(1584年)
その弟善同は1558年生まれであるから、37歳あたりの時に前野長康が誅されている。

その善同の息善政の正室は佐久間勝之の娘である。
佐久間勝之(父は佐久間盛次。尾張国生まれ。はじめ佐々成政さっさ・なりまさの養子となり、佐々を称した。)
そこで、九里十助と出会っているはずである。十助は成政に仕えていた。




遡るが、其の勝之の正室が佐々成政の娘である。

ここで、原氏とつながってくるのではないだろうか。

原氏と佐久間氏は時折セットで出てくる。
「佐久間氏」を調べると何かがわかるかもしれない。

原胤信が大叔父であるという原胤昭の家系にも佐久間氏の名が見えている。

佐久間氏と岡田氏が、今後調べていく課題となりそうである。

米沢の九里三郎右衛門、と岡田氏の接点である。
http://www.yutenji.or.jp/history/nenpyo/page-33145/page-33721/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常陸房海尊 (コメントの件)

2021-02-18 | 太田・大田氏



昔の方も、同一人物ではないかと探っていたようです。
便り左に…となっておりますが、その便りは載っておりませんでした。

コトバンクには海尊は「源平合戦をかたりつたえたとされる。」とありました。

平家物語 文治二年五月十二日 に「常陸房 昌命」(昌明と同一人物ヵ?)も出ているようです。




https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller
の検索ワードに気になる人物の名前を入れてみると、出てくるかもしれません。

また、googlebooksにも、出ておりましたが、昌明との関係はわかりません。
ただ、秦氏であったようで、是も面白いデス。


https://books.google.co.jp/books?id=fcTA3GKhZ4kC&pg=PP898&dq=%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8A&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwicrs2NnvLuAhWlUN4KHTG7AcQQ6AEwB3oECAgQAg#v=onepage&q=%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%9D%8A%E6%B5%B7%E5%B0%8A&f=false


また、情報が入った際には記事にしたいと思います。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ギリシャ十字  鎌倉時代からある十字 

2021-02-16 | 九里バラバラ情報

ギリシャ十字
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A3%E5%8D%81%E5%AD%97


この十字という記号は、日本にもなじみ深いものだと思うのです。
波多野氏の家紋も「丸に抜け十字」というそうです。


これもケルトの十字に似ています。


世界中のどこにでもある「十字の紋」なのかもしれません。


【榧之内】にあること、が、何かを象徴していると…思っています。

十字自体には太陽の光をさしているのかもしれませんし、魔除けの意味も、長生きの意味もありそうです。

我が家は「九里」と「九」の文字が付くので、その上を…と云うことで「十」を持ってきたのかもしれない、という考えもできます。

しかし、榧之内‥‥というのは不思議です。

【榧之内】は、榧の木(ナツメグイチイ)であり、専門店の記事が以下のようにあります。
https://www.kayanomori.com/hpgen/HPB/categories/3016.html

「榧という木は、一般にはあまり知られていませんが、特有の香気、美しい木目、光沢ある淡黄色の色ツヤなど、碁盤や将棋盤の材料として極めて優れた特徴を持ち合わせ、古くから囲碁、将棋の世界では愛好家に最高級品として賞用されています。

また、水や湿気に対する強さから昔は船舶の材料として使用されていたことや天然の殺菌作用があることから、キッチンまわりの製品にも適しています。極めて耐久性にも優れ、「槇万年、榧限り無し」と榧材の寿命を表したいわれがあるほど。年月とともに飴色の色ツヤを増し、使い込むほどに愛着が育まれていくことでしょう。」

私、昨夜「ダ・ヴィンチ・コード」で、がいかに意味を持っているのか‥‥を見たばかり、きっとそれが影響しているのだと自分でも思います。

しかし、一文字で「飼い葉おけ」と読ませる漢字【櫪】が日本にあったとは…やはり驚きでした。

===*===

キリシタンに関する記事は一応この辺で終了します。

また何か情報が集まってきた際には、記事にしたいと思っています。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

驚きの漢字 【櫪】

2021-02-16 | 九里【只今の状況・まとめ】


【櫪】

この字は、今まで見た事のない漢字であったのですが、皆さま何と読むのかご存知でしょうか?

今、心臓が止まりそうなほど驚いています。





つまり、榧之内十文字の【榧】は、飼い葉おけであるともいえるのだという私なりの結論に達し、
我が家は隠れキリシタンであった時代もあるのだ!と、いうようなことになってきました。榧は櫪の隠れ蓑だったのだと思うのです。

ドキドキです。

はじめ、功刀(功力・櫟)の「くぬぎ三郎左衛門」 ともよばれて‥‥と姓氏家系大辞典にもあった九里氏。
櫟(くぬぎ)はまたは「いちい」とも読め、一井・市井・櫟氏ともなり得るのですが、それは、平安時代やそれ以前からのことなのですが。

===*===


榧は、イチイ科の樹木です。 つまり隠れ「飼い葉おけ」






我が家(大和宇陀松山藩)では、誰もキリシタンであったとは聞いておりませんし、何も伝承がないのですが、飼い葉おけの中の十文字で間違いないような気がするのです。

ともかく、この家紋にした当時は、切支丹であったのだと思います。

もしかすると、ヨーロッパからキリシタン宣教師が入ってくる以前から? 景教?

聖徳太子から賜わったという像を持っていたという九里氏(近江八幡)
何処か、接点があるのだと思います。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宇喜多秀家 の 妻「豪姫(マリア)」前田利家の四女

2021-02-16 | コラム

豪姫もまたキリシタンであった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E5%A7%AB

前田利家・小西行長・高山右近・内藤如安・宇喜多休閑 この辺りはキリシタンのつながりでもあった。

高山右近・内藤如安はマニラに渡っている。小西・宇喜多は歿し、この中では前田利家だけが加賀で生き延びている。(彼自身はキリシタンではなく、ただ、理解ある人物であったのではないかと思う)

娘六女に送った着物の柄にも「キリスト誕生、東方の三博士(マギ)」由来の図があるようだ。
https://muuseo.com/makoto.panteleimon/diaries/6

前田利家は七尾城主、そして七尾にはキリシタンの寺がある。娘の豪はキリシタンであったことがわかっている。
天正9年(1581年)、織田信長より能登一国を与えられ、七尾城主となり23万石を領有する大名となった。

キリシタンにはならなかったものの、その新しい知識に魅かれていたのかもしれない。
傾奇者は、新しいものがきっと好きだった!と思うので。

前田に仕えていた九里十左衛門・勘気を蒙ってしまった九里少蔵、そして九里甚左衛門正貞、
そして対立することとなった佐々成政の下にも九里がいる。

この辺りにいた九里。そして我が家の家紋は十文字が入っている。キリシタンだったのだろうか?

しかも名前が「榧之内十文字」
今まで気が付かなかったが、榧とは生まれたばかりのイエスが寝ていた木の箱のことだったのではないだろうか?

https://www.kogei-seika.jp/blog/kanazawa/008.html








前野長康もキリシタンであった。

武功夜話のwikipediaにも、このようにある様に「縁者の前野長康(本名は坪内光景)が豊臣秀次謀反によって切腹したこと、長康や編者の千代ら前野一族がキリシタンだったことから、人目につかないよう伝えられたという。 」

我が家の家紋が九里の他家の家紋と違っているのは、隠れキリシタンであったからなのかもしれない。
そう思うと、原胤信、前野長康、近い関係にもキリシタンの信者がいたように思えてきた。
乾正行の系の乾氏は我が家の同じ榧之内十文字である。が、この人がキリシタンかどうかは、情報がまだない。


今まで気が付かなかった「榧」の秘密。
その中の十文字、気になってきた。



コメント (7)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジローラモ・デ・アンジェリの周辺 キリシタン 宇喜多休閑 うきたきゅうかん 

2021-02-15 | コラム

日本のキリシタン一覧に載っていない方なのだが「宇喜多休閑」もまた、三人の息子と共にキリシタンであったそうだ。
フーベル師の挙げる【Lettera di Antonio Sanga al Provincuale S.J.,Nagasachi 1622】にその名がジョバンニ・ウキデ・キューカンとあり、一体どなたのことなのかがわからなかったのだが、下記のアドレスの記事を読んで、これは宇喜多休閑のことであろうと推測した。

Lettera di …の記事によると

「ジローラモアンジェリス師とジョバンニ・マテオ・アダミ師は越後及びその北方に在りほとんど日本の外にある佐渡を二回訪れ、それと地方で福音の大きな扉を開き、旧霊につき偉大な収穫をあげた。アンジェリス師は亦日本の外にある蝦夷国の都市松前を訪れ、多数の者に洗礼を授け、信徒に敬虔を教えた。この旅行で師は信仰のため流された津軽国の信徒を慰問した。ジャコモ・カルヴァリオ師は宣教のために同地方へ赴き、7日間の旅行中にウキデ・オーサなる貴族信者で死の床にあるものの告解を聴いた。この人は基督のために追放され、先年困苦の中に同地で没したウキデ・キュウカンの息である。」
 
https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/christian/christian3.html

?-1620ごろ 織豊-江戸時代前期の武将。
宇喜多家の重臣。宇喜多秀家の一族で,外国の史料では秀家の従兄弟(いとこ)。法華信者からキリシタンとなる。関ケ原の戦いで秀家と西軍に属したため浪人。高山右近の世話で加賀(石川県)前田家につかえる慶長19年陸奥(むつ)津軽(青森県)に流され,元和(げんな)6年ごろ没した。洗礼名はトマス(一説にジョアン)。

【隠れキリシタン寺、本行寺】で調べるとまだまだ出てくるようだ。
七尾にあるそうで、この七尾もどこか記憶にある。
あの「苦能離」と書いて「くのり」と読ませていた所ではなかっただろうか?
 
https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/nazo/nazo01.html

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジローラモ・デ・アンジャリスの周辺から(4)

2021-02-15 | コラム

1619年 エリウド・ニコライ エゾールムの記述  「西印度及び東印度における新しき実話並に北方諸國頣地誌」(バイエルン國民図書館蔵)
(1)日本の北方に蝦夷即ちアイノモソティなる一大島がある。
(2)蝦夷の東方にはアイノモソティ諸島がある。
(3)蝦夷北方には東西に大陸が横たわり、この大陸で蝦夷の北方に当たる地方をレブンクル国と云う。
   この大陸は東方に広がり、北アメリカと陸続きで…西方ではそのまま伸びてアジア大陸と成る。すなわちレブンクルは東に延びてテンヅク、   キヴィラの諸国と接壌し、遂にフランシス・ドレークが1579年の第二次探検旅行で到達しえた北米太平洋岸の最北地点へと到達しうる。‥‥

エリウド・ニコライは、他の本によるとドイツ人である。
「北方渡来」には、元和五年(一六一九)、エリウド・ニコライがミュンヘンで出版した本に「日本の北方に、日本人は蝦夷と呼び、土人はアイノモショチと呼ぶ大きい島があるが、地図に書きもらされている」とあった。

===*===

上記の記述は1619年なので、デ・アンジェリスもすでに蝦夷に渡った後となる時期なので、シチリア島で見たという地図とは関係がない。
彼がシチリアにいたのは、「1598年、ポルトガルのリスボンに到着し、リスボンで神父となった。」とあり、それ以前はパレルモにいたのではないかと思う。とすれば、1598年以前の地図を見た可能性もある。
とすれば、やはりモノクロのこの地図になるだろうと思う。ポルトガルの宇宙学者と言われているIgnacio Moreiraの地図であった可能性が大きいと思う。

===*===

右上に微笑ましくも、まあるい蝦夷が書かれている。



よく見ると、実によくできている地図と思う。
オセアニア周辺も形は違えど、私から見るとあっぱれ!と思う。
これが大航海時代の産物なのだと。

===*===

デ・アンジェリスとカルヴァリオ(一緒に伝道していた人物)との足跡をまとめた箇所があった。

彼等の観察による、和人がまだ奥深く入る以前の蝦夷地、蝦夷の人々の様子、あるいは金の採掘(砂金ではなく小さな塊)その採掘のために人々が渡航するようになったこと、その金堀と称し切支丹信徒や宣教師も容易に蝦夷に入ることができるようになっていた事、其の現場の一つが千軒岳付近であった事。

また、松前殿の甥と同船したこともあると書かれている。

一緒にいたカルヴァリオも詳細な報告がある様であるが、内容はこの本に時折出てくる程度しか書かれていない。
此のカルヴァリオは1624年に仙台で殉教している。

===*===

一部の人(商人等の海外との交易をしていた人々)を除いて、日本国内の内乱で精一杯の状態であった時に、ヨーロッパでは世界に目が向かれ、地図もどんどん進化し、海外に人を派遣し宗教と文化をもたらし、各国・各地の状態を把握し報告書を着々と送っていた。

後に徳川幕府が禁教としたことも、あまりに広がり、力を持ち、危機を感じたからに他ならない。
それほど、人の心の中にまでもはいりこんでいたのだと思う。


下記のwikipedia「日本のキリシタン」 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

World Antiquarian Book Plaza fecebook に モレイラの古地図

2021-02-14 | コラム

World Antiquarian Book Plaza

https://www.facebook.com/WorldAntiquarianBookPlaza/posts/995274027260701/

ブランクス/モレイラ型の地図は、蝦夷地を最初に記載した西洋の日本図


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジローラモ・デ・アンジャリスの周辺から(3)

2021-02-14 | コラム

【蝦夷に関する耶蘇会士の報告】
この本によると、私が訳したデ・アンジェリスの原書と思っていたものはイタリア語訳であって、原書はポルトガル語だそうで、それは行方不明とのことである。

ランチロットが1548年ごろ蝦夷を日本の北東方にある「非常に広大な国」と報告して以来、同65年のフロイス、同71年のヴィレラより1618年のアンジェリスの書簡に至るまで、耶蘇会士は蝦夷の地理を述べるに当たり好んでこの言葉を使用した。

但し、すでに1564年(永禄七年)マエノル・テイシェラは広東に於いて日本の関東より来た一人の日本人より蝦夷が島嶼(とうしょ)であることを聞いていた。De iezorum insula(蝦夷人の島について)の作者は直接に、又おそらくドイツ人の学者エリウド・ニコライは間接にアイヌ及び松前に居住する日本人より聞いたままに蝦夷を明白に島嶼として述べ、且つ夫々の地図に於いて之を島嶼として作図した。

===*===

「ジローラモ・デ・アンジェリスは1567年にシチリア島カストロ・ジョバンニ生まれた。日本の永禄十年である。」と当ブログの記事で書いたので、これによるとまだデ・アンジェリスが生まれるまでに、蝦夷は島だということが耶蘇会の人々にはわかっていたのだ。
シチリア島で、蝦夷が島である地図を見たというのも、本当のことなのだ!

もう一つこの本(耶蘇会士の報告書)を読んでわかったのは、【新しいスペイン】のことである。
アメリカ大陸のことであった!
びっくり~! アジアの中のこととばかり思っていたのだが。
【ヌエバ・エスパーニャ】新しいスペイン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%90%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%A3

1519年から1821年までの、北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアにおけるスペイン帝国の副王領を指す名称。スペイン語で「新スペイン」という意味。江戸時代の日本では、「ノビスパン(濃毘数般)」、「新イスパニア(新意斯巴尼亜)」などと呼ばれた。

===*===

蝦夷の東境につきヴィエラは蝦夷が広大であり、東に延びて新スペイン(アメリカ大陸)に達することを述べた。
アジア大陸が東に延びてそのままアメリカに連繋するとする説はニコライに引き継がれた。

1590年(天正十八年)末、または翌年諸島ポルトガルの宇宙学者イナシオ・モレイラ(Ignacio Moreira)(イグナーチオかも)等が京に於いて蠣崎慶広が同行した日本語を語り得る蝦夷仁及び日本人より直接蝦夷の事情を聞くに及んで彼らの蝦夷に関する知識は著しく向上した。

彼らがその際知り得た事項は蝦夷は蝦夷人によってアイノモソリとよばれること、アイノモソリの名が示す如く蝦夷は島嶼であること、この島の西部には之とは別の諸島があり蝦夷人は之と交易していること、蝦夷島は日本の北方に在って之と対峙し、両者の距離は蝦夷と韃靼のそれよりもいっそう接近していることであった。
更に彼等は蝦夷島の北方にはレブンクルと云う地方がある事、それは大陸の一部であって北方に延び拡がり、一方西方に延びて高麗と隣接していることを知った。







蝦夷地が佐渡と書かれている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

地震お見舞い申上げます。  ジローラモ・デ・アンジャリスの周辺から(2)

2021-02-14 | コラム


皆様、地震、御無事でしたでしょうか?
かなり大きかったようで…心配しています。
心よりお見舞い申し上げます。

震源地から遠い地域の皆様においても、再び地震の対策見直しを!
我が家も先日避難用のリュックを見直しました。
完璧ではなくとも、何かの折に役に立つかも…を入れて置くと少し安心できます。

===*===
再びアンジェリス周辺の続きです。

2018年に私はジローラモ・デ・アンジェリスを調べていたのだが、其の時の本のコピーが書庫から発掘されたので、それを見ていこと思う。


コピー代を節約して其の時に関係がありそうな部分だけしか複写しなかったので、今思うとコレハ失敗であった。
今はコロナ禍で大学図書館に一般人はお断りの状態なので、、、全部を揃えることは先になりそうである。

蝦夷地との接点という観点から、チョイスしてみようと思う。【デ・アンジェリスの蝦夷國報告書に就いて】より 抜粋・改変

慶長十九年(1614年)家康の時代、切支丹禁制の布告が発布されて、外人宣教師は国外へ追放せらるることとなり、デ・アンジェリスも長崎ㇸ追われたが、国外放逐を免れて、その付近にかくれていた。

其の布告と共に捕らえられてm津軽へ流された国内の信徒七十二名が、その翌年(1615年)に凶作と飢饉のために極度に窮乏しているので、救済の手紙を長崎の信徒に出し、元和二年(1616年)の春、デ・アンジェリスはこれを長崎において受け取り直ちに救済の品を集めて、船に積んで津軽に赴き彼らを慰問した。そしてこれが動機となって彼の奥州および蝦夷地への伝道が始まったのである。


その年、彼は蝦夷地松前に渡るのだが、パジェスという人の記述では「1616年頃、蝦夷で豊産の金山が発見された。多くの坑夫がその地に渡ったが、その中に若干はキリシタンであった」と記されている。

デ・アンジェリスもおそらくはそれらの坑夫に混じって蝦夷に渡ったと思われる。
1616年が初の蝦夷地渡航
1618年二度目の渡航
1621年9月三度目の渡航
1622年四度目の渡航 だったが、間もなく江戸に赴き、江戸の切支丹信徒50名と共に火あぶりと成る。

彼は56歳であったそうだ。

1602年に日本に渡ってから二十年間も日本に滞在していたことになる。

この本によると1622年急に江戸に行かなければならなくなり、身辺に何か危険が起こるかもしれないと予感した為、その前に書き上げてしまおうと決心したのではないか、とある。

もしもそうならば、今までのエッセンスが蝦夷地報告書にあったのだ。

===*===

次回は、
もう一冊【蝦夷に関する耶蘇会士の報告】より 抜粋・改変して 書き留めようと思う。











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする