久万美術館のブログ

愛媛県の久万高原町にある美術館です。
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「坂本忠士と田都画廊」展―リーフレットより①

2013-07-28 20:46:00 | スタッフより

「田都」のネットワーク

Photo_3 坂本忠士

「田都」という、やや耳慣れない言葉は「平安時代、荘園・公領の田畑を耕作し、年貢・公事を納めた農民」(『大辞泉』)を意味する。かつては名主とも考えられており、坂本忠士はその意味で理解していたようだ。「何かの調べもののとき偶然この言葉を知り、わけても田都という字並びが印象に残っていたのである。“田”と“都”というおよそ裏腹な字が並んでいるのに惹かれた」と書き残している。「田都画廊」と名付けた由来を尋ねられた際、「田舎に京あり、京に田舎あり」と答えていた(1)。

戦後の愛媛の文化状況を考える上で、日本の文化水準が極めて高かった昭和初期に東京で学び、表現活動を行っていた青年たちの存在が大きい。「田都コレクション」に作品のある三輪田俊助、岡本鉄四郎、古茂田公雄。彼らは戦前の文化的な豊かさを体験し、自らの表現の確かな一歩を始めた時、抑圧される戦中に放り出され、戦後、家庭の都合で故郷に帰らざるを得なかった人々である。

何も愛媛に限ったことではないが、帰らざるを得なかった芸術家たちは、帰郷先でいかに表現活動を行うのか、苦悩する。それは、優れた芸術家である程、どう生きるかという問いと直結する。三輪田、岡本らは1965年に「愛媛現代美術家集団」を結成し、地域の固有性でもって「近代的な普遍の進行」(2)(モダニズム)」を問い返えす批判的な視座で、中央に立ち向かう。「現美」を支えた一人、坂本が「田都」を標榜する時、その根底にあったのは同様の問題意識である。「もともと文化そのものには地方も中央もない。(中略)作品の生命は表現にかかっている」(3)と考え、旺盛な表現活動を行うことで、田を都にしようと企てた。

松山を文化的な都とするための坂本の挑戦は、自らはシナリオライターとして放送文化活動を展開しつつ、仲間らと協同した文化活動につながってゆく。放送文化、文学活動、演劇活動、そして美術。それらの文化人ネットワーク全体に関わる存在として、坂本は人々を繋げ、ネットワークの拠点としての場を提供する。文化人の集う居酒屋の経営、自宅を開放しての蔵書公開、そして田都画廊。

しかし、田都画廊はもう、ない。地方と中央の関係も、かつてより近づいた反面、複雑さを増した現代にこそ、改めて坂本らの挑戦の意義を考えてみることは重要だろう。それはまた、「帰らなかった人々」、たとえば坂本の友人で、「田都」を支援していた洲之内徹の郷里に対する複雑な思いを理解することにもつながるものと思われる。

(1)坂本忠士「“縄のれん”つれづれ」(『伊予の民俗』第9号、1975.8)
(2)三輪田俊助「思索の風景」(冊子「現美のあゆみ 第10回展によせて」1974)
(3)坂本忠士「ローカルの放送劇について」(『劇作2時会通信 第7号』1957.2)