令和元年6月25日(火)、北広島町の中国自動車道千代田インターチェンジの西1kmのところにある有田城山(ありたじょうざん、376.9m)を散策した。室町から戦国時代初期の陰陽の要となった、山城跡である。
低いが、眼下のシソの畑が鮮やかで、眺めが素晴らしかった。
1517年10月、この山城の攻防をめぐって、安芸の国守護の武田氏が西国の有力大名大内氏に反旗を翻し、大内側の毛利・吉川連合軍と武田方が戦った「有田合戦」が繰り広げられた。銀山城(かなやまじょう、安佐南区、現武田山)城主武田元繁の率いる5500の大軍と、猿掛城主毛利元就率いる毛利軍1500と吉川勢200の連合軍が2日間にわたって戦い、寡兵だった毛利・吉川連合軍が絶対優勢の武田軍を破った。この合戦は、21歳の毛利元就の初陣で、「西の桶狭間の戦い」と言われている。武田氏の子孫が毛利家の外交僧として活躍した「安国寺恵瓊(あんこくじえけい)」である。歴史は面白い。
銀山城跡と広島不動院(安国寺)の武田元繁と安国寺恵瓊の墓
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