セイショウ坊のブログ

埼玉県飯能(はんのう)市 真言宗智山派・円泉寺住職です。
円泉寺ホームページにもブログがございます。

徳川慶喜墓

2021-07-30 07:40:27 | いろいろ
寛永寺墓地にある徳川慶喜の墓です。
都内の谷中霊園隣接する場所にあります。地図link

徳川家最後の将軍でしたので、寛永寺や増上寺に隣接する徳川将軍御霊廟ではありません。



谷中霊園中央の通りを行くと案内板がありました。
一昨年の写真です。



徳川慶喜家墓近くには徳川家分家と思われる墓があります。




三組の方が見学来られていました。
一組の中心となる方が説明をしていましたが、残念ながら終わる寸前でした。



向かって右側は、正妻・徳川美賀子の墓です。





徳川将軍御霊廟は特別参観を行っているようです。寛永寺link
(コロナのために現在は中止中)


増上寺の徳川家墓所は、火曜日以外は参拝できるようです。
詳細はホームページを参照してください。増上寺link


コロナのために出かけることが少なくなってしまいました。
古い写真ばかり並べています。
ご勘弁ください。



十王十仏板碑 十三仏

2021-07-28 07:44:56 | 他の寺社
群馬県板倉町の十王十仏板碑です。





下の掲示板にあるように十の仏様の梵字が彫られていました。鎌倉期の板碑です。十王の本地仏の梵字です。
まだ十三仏の確定していない次期ですので、十仏として阿弥陀信仰まででした。

十仏として群馬県で一番古い嘉暦元年(1326)の建立です。
十仏の考え方は、十王と各回忌の仏さまの本地仏として関連付けられました。
初七日の不動明王から三回忌の阿弥陀如来まででした。

室町時代に七回忌-阿閦如来、十三回忌・十七回忌・二十三回忌・二十七回忌-大日如来、三十三回忌-虚空蔵菩薩の十三仏の考えが広がり、江戸時代になると、十三仏が確定したそうです。

真言宗十三仏掛軸




以前は普通の十三仏掛軸を使用していました。
真言宗に対応する為に、近年作られた巧芸品掛軸です。

宗旨によっては通夜の法話などで、自分たちの立場しか認めない、他の宗旨は成仏できないなどと話す住職もいるようです。
亡くられた方を冒涜するような話しをすることは、控えるべきでしょう。

私の立場は、天国・極楽・浄土は同じ所ですと話しています。
間違いなく良い世界に行っていますと話すことにしています。
(とてつもなく遠いところとは思っていません。)
三途の川に行く手前で帰ってきた私にとっては、自信を持って言えないのですが、亡くなられた親族知人に私の来世観を話すと、涙を流す方もいました。
四苦八苦の内、愛別離苦の苦しみを少しでも和らげる話しも必要だと思います。

ある禅宗の住職は
「俺は言ったことがないから、分からねえ」
と答えているそうです。
これも間違えではありません。

来世を信じない方、他の信仰を持つも、亡くなられた方に心を込めて手を合わすことが大事だと思っています。

三ノ宮卯之助と力石

2021-07-26 07:16:36 | いろいろ
先日、力石の研究家・雨宮清子さんから問い合わせがありました。
ご返事を致しましたが、問い合わせ内容とは、かなりずれてしまいました。
今回は、このことには触れません。

今までに力石は何度か目にしていますが、写真に写したのは三度だけです。
興味を持ったこともありませんでした。
気がつかなかった数多くの写真の中に写っているかも知れません。


三野宮香取神社

江戸末期に力持ち番付・東の大関、三ノ宮卯之助が生まれた地が、岩槻藩の領地三野宮でした。
埼玉県越谷市

今から15年前に参拝しています。




卯之助の持ち上げた力石が、残されています。
上の写真に写っているおばちゃんに、「持ち上げてみたら」と言われましたが、とても持ち上げることなど不可能と思いました。



今年4月、越谷市中央市民会館に「三ノ宮卯之助」の顕彰碑が建てられました。朝日新聞記事リンク


桶川稲荷神社

埼玉県桶川市の稲荷神社には、卯之助の持ち上げた日本一重い610キロの力石があります。






手で持ち上げたのではなく、寝転んで足で持ち上げていました。
どのようにした持ち上げたのかと思っていましたが、足とは思いませんでした。



それにしても持ち上げることなど不可能と思われる大きさの石です。


※三野宮卯之助と力石に関する研究者・雨宮清子さんのブログが役立ちます。ブログlink 力石に魅せられて 姫は今日も石探し



伝蔵院 宝篋印陀羅尼板碑

2021-07-24 07:38:46 | 他の寺社
埼玉県寄居町の神社仏閣を参拝するつもりで、予定外でしたが駐車場に入れました。
当寺と同じ真言宗智山派です。



珍しい板碑を見つけることが出来ました。
宝篋印陀羅尼の板碑で、日本二体梵字板碑の看板があります。



宝篋印陀羅尼板碑が他にあるのか、他の陀羅尼なのかも知れません。
いろいろ検索しましたが、分かりませんでした。
梵字の種子だけであれば、アチコチにあります。

オン・ア・ビラ・ウン・ケンの周りに、光明真言が彫られています。




裏面には文化15(1818)年(文政元年)の建立と彫られています。




この寺は秩父事件における金尾地区の集合地だったそうです。


骨董屋にある寺院仏像

2021-07-22 07:42:38 | 仏像
当寺には明らかに他の寺院から手放された仏像が祀られています。
廃寺となった、寺を維持できないなど、いろいろな理由があるようです。

都内のある骨董屋さんに行くと、たくさんの骨董品が展示されていました。
特に素晴らしいのは仏像仏具です。
ある祈願寺が廃寺となって、買い取った品々でした。
寺としての機能が、長い年月なされていなかったようです。
仏像は求めるのにも無理な価格でした。



イラストは関連ありません。

県内の骨董屋さんから、ある仏像をお迎えしました。都内の寺院から依頼されていた仏像です。
江戸期は数多くの寺院がありましたが、東京になると廃仏毀釈や統合廃寺などがありました。
他の地域でも仏像仏具が捨てられたり、海外流出、個人での所有、他の寺院に移されるなどされています。

寺院名は教えていただけませんでしたが、境内整備のために祀られていない仏さまを骨董屋さんに依頼されたのです。




江戸時代の仏像には、光背に文字が書かれてあります。
東北の山岳信仰で知られる寺院群に属する塔頭でした。
廃仏毀釈の為、中心となる神社は安泰でしたが、その塔頭は戦前まで存在していたそうです。
他の塔頭は、合宿などの宿泊施設になっていました。




ヤフオク!にも寺院から依頼された仏像が出品されています。
その内の二体をお招きすることが出来ました。

一体はヒントから京都の寺院より依頼されたことが分かりました。
京都市○○区にあり、○○区ではその宗旨寺院は一ヶ寺だけです。
Googleマップで調べると、檀家の少ない寺院のようでした。

もう一体は関東の寺院からです。
知り合いの住職に、その仏像の話しをすると、住職の住まない同じ市内の寺であることが分かりました。
御本堂などを整備するためでなく、維持できなくなった御本堂を解体する費用にするためです。
「地元では有名な話しですよ」と話していました。
友人は呆れていました。

その寺では住職が御寄付を依頼しても無視していたそうです。
本堂を修復するなら、住職が全て出せと言われ、近在の寺院に仏事を依頼することにして、出て行ってしまったそうです。
友人は、わずか百軒の檀家数では、赤字の年が多かったのではと話していました。
御布施も近在寺院の半分でした。
兼職していたので、寺を維持できたのです。

他にも兼職している住職が数多くいます。
それでないと食べていけないのです。
これからは廃寺となるところが多くなると、統計から分かっていることです。



45年前に先輩と京都市内の骨董屋さんに行ったことがあります。
先輩は馴染みとなっていましたので、私にも店頭だけでなく、奥の部屋にある仏像を拝ませていただくことが出来ました。
骨董屋さん曰く、全て市内の寺院から買い求めたと話していました。
なかには重要文化財級の仏像があるそうです。

京都市内には数多くの寺院があり、維持できない所も多くあるようです。