古里の暮らしの中で

私の住んでいる地域の文化を紹介する

いとこの死

2011-04-22 20:33:36 | 乳がん
今回の震災で私は別の死を知ることになった。
大阪いる叔父が、東北のあちこち電話するのに全く通じない、というのでこの状況で電話をかけるのはいけない、
もう少し落ち着いてから、K子の妹で東京にいるM子に聞けばいいと私は言った。
そうしたら、M子は死んだよ、知らなかったの、あっ、しまった内緒だった と言う。
聞けば、私が乳がんの手術をした1ヵ月後、私と同い年のM子は乳がんで亡くなっていた。
私の手術の直後だったので、私が気がつくまで内緒にしておこうということになっていたらしい。

私が上京した時、M子と連絡をとって会う約束をしたことがある。
しかし、仕事の都合がつかなくなったとのことで、会えなかった。今思えば乳がんの治療中だったということだ。
M子とも、とうとうこの世で会うことはなかった。

私は自分の乳がんがわかった時、当初は初期ということだったので隠すつもりだった。
特に年老いた実家の両親には、内緒にしたかった。
しかし、抗がん剤治療が必要になり隠し切れなかった。だから、つらいこと苦しいことは隠していたつもりだった。
ところが、隠していたのは、私の両親や周りの親戚の方だった。
両親はどんな思いで私の闘病を見ていたのだろうか と今思う。

私もいとこも検診は受けていたけれど、早期発見にはならなかった。
でも私は言いたい。それでも検診に行って!




私のまわりの大震災(1)

2011-04-21 10:19:52 | Weblog
東北のM市にいる従姉のK子の元気な声が聞けたのは、震災後1ヶ月が近くなってからだった。
テレビの映像を見たとき、私を襲ったのは後悔の念だった。
住所から地図で調べるととても海に近い。もしかしたらと不吉なことを思ってしまった。

M市には、伯母家族が住んでいた。しかし、伯母もその連れ合いの伯父も、私は一度も会わぬまま亡くなってしまった。
夫が奥の細道を旅する時同行して、お墓参りをしたりまだ会ったことのない従姉に会おうと計画した。
しかし盛岡から急行バスで2時間と聞いたので、体力に自信が持てず見送りにしてしまった。

無事だということだけはとりあえずわかったものの、詳しい様子は全くわからなかった。
私は往復葉書を出し、今、募金などはしているが個人的にでも、なにかお手伝いをすることがあれば連絡してください と書いた。
葉書より、直接声が聞きたかったからと電話がかかってきた。

電話での話で、従姉の家は前は海、後は山になっている住宅地で少し高台にあるという。
電気が1週間来なかっただけで水も出るし、周りがあまりに大変な状況なので申し訳ない気がすると言っていた。
従姉の夫はその日、海端の福祉会館で碁打ちをしていて、地震がおさまったと同時に解散して、自宅に帰って来た。
後でそこに行ってみたら、海に浮かべてあった大きなラワン材が屋上に乗っていて、びっくりしたそうだ。

自宅から目前の状況を見ていたのだから、映像で見ている私たちとは比べものにならない情景だったのだろう。
そのことについて言葉少なに語った。津波の第1波が来て、それが引いたと思ったら、第2波が来てその後に来た第3波が、
第2波を呑み込んでものすごい高さになり、家や人をさらって行った、と。

私の病気を知っていて、反対に励ましてもらった。
彼女の妹のM子が3年ほど前に亡くなったこと、私に連絡しようかどうかM子のご主人や叔父と相談したこと、
それで私が気が付くまで成り行きにまかせようとなっていたことなどを聞いた。

病気になった時、これからは後悔しない生活をしようと思っていたのに、結局私は同じことを繰り返しているようだ。