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ジャッジのない気付きに関して考えると矛盾が発生するのに気がつく。

2014-07-03 21:00:00 | 人間としての修業
先日オーラソーマを増やすにあたり久々にオーラソーマの商品説明を読んでいて、キラスピの定番文句である「ジャッジのない気づき」と言うのはどう言うものか?と言う事をネタにしようかと思っていました。

でも、

ジャッジのない気づきに関して語ろうとするとどうしても何につけて良い悪いと決めたがる人々を良い悪いで判断しないとならないし、ジャッジのない気づきなんて実践しているとはっきり言って自分にとって本当に重要なものじゃない限り「そうなんだ~(^。^)y-~」とローラがごとく笑顔で受け流す事だったりするし。
はっきり言うとね、色々矛盾が発生するからジャッジのない気づきに関することは終始矛盾しているんですよね。

って言うか、「ジャッジのない気づき」ってはっきり言えば英文の直訳で、正確に翻訳すると「いちいち良い悪いと評価しない。」と言う事になるんじゃなんでしょうか?
最低限、現在のワタリはあまり細かい事でぎゃーぎゃー言いませんし、いちいち良い悪いと判断しているのも面倒に感じます。

むしろ前だの後ろだの上だの下だの騒ぐのは秩序を維持する上で必要でなければ、ぎゃーぎゃー言うのはベッドの中だけで十分と思っていて、子供達がこの手の事でギャーギャーきょうだい喧嘩をおっぱじめると放置していたりします。。
そして大筋一致なら確証とするスピの影響か、案外おおざっぱだったりします。

でも、良い悪いと判断すると言うのは決して悪い事ではないんです。
我々も小さい頃からあれは駄目これは良いと教わっていますが、多くの人間が住まう場所には多くの思考が集まっている訳ですから、一人一人モラルが違うんですよ。
それを前提に考えると秩序を維持する上で良い悪いを決めると言うのは必要な訳で、これはルールと言われる物に属する必要不可欠な物だったりする訳なのです。

ただ、この世の中にはよくよく考えると実は本当は悪い事じゃなかった。そんなに禁止されるような事じゃなかった。と言うのが有るんですよ。

例えば男の子はランドセル黒じゃなきゃいけないとか大人はアニメ見ちゃいけないとか中学生でドラマ見ていると生意気とか。

比較的現代は寛容と言うか、親世代の頃と比べると本当にああだこうだと言う人は少なくなったように思います。

しかし、まだ残骸と言うか、ああだこうだと言う人が完全に消えた訳では有りません。

比較的愚痴を吐き易いネット上では相変わらずああだこうだと言う人は絶えない訳で、ワタリから見るとジャッジをしなくても良いような事に対してジャッジをする場の典型である井戸端会議と言う場は消えないんだな。需要が有るんだな。と言うのを見事なまでに見せつけてくれます。

でも、興味のない事まで首突っ込んでいられるほど暇じゃありませんし、井戸端会議の席でジャッジをする人々を非難するのはジャッジをする事に繋がるのでやりません。
まあ、正直エンパスのワタリはそう言う井戸端会議の場は苦手なので近寄りませんが、ジャッジのない気付きを実践していると無駄に疲れない。無駄にいさかいを起こさない。無駄に痴話げんかをしない。と言うのが有るので、決して悪い事ではないのが現実だったりします。


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