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言葉のかけら

エルヴィスのレパートリーを日本人の視点から読み取る訳詞プロジェクト「言葉のかけら」

FTD「Today」 BEHIND THE SCENES (1/3)

2014-08-11 20:00:00 | ライナーノーツ翻訳
1974年12月
LP「約束の地 (Promised Land)」を急遽発表した後、
RCAには発表できる新曲が何も無くなってしまう。
ナッシュビルで企画されていたレコーディング・セッションは、
エルヴィスの病気によりキャンセルされ、
恒例の1月ラスベガス興行も同じ理由でキャンセルせざるを得なくなる。

1975年1月29日
エルヴィスは、メンフィスのバプティスト・メモリアル病院に入院し、
肝臓疾患の検査のためとの公式発表がなされる。
入院中、ニック医師はエルヴィスを処方薬の過剰摂取から抜け出させようと試みる。
病院ではリンダ・トンプソンがエルヴィスに付き添う。

1975年2月5日
エルヴィスは、心臓発作に見舞われた父バーノンと病院で一緒になる。

1975年2月14日
取材記者や野次馬などを避けるため、
午前0時を過ぎた頃にエルヴィスとバーノンはグレースランドにこっそりと帰宅。
エルヴィスはテレビ番組「モンティ・パイソン」の観賞に時間を費やし、
内容を暗唱出来るほどになる。

1975年3月3日
エルヴィスは、改めて組まれたラスベガス興行と
一連のレコーディング・セッションの準備のためにカリフォルニアに飛ぶ。

 FTD「Today」
 BEHIND THE SCENES
 翻訳 (1/3)   翻訳 (2/3)   翻訳 (3/3)

【補足資料】
elvis was a python-fan

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FTD「From Elvis Presley Boulevard, Memphis, Tennessee」 BEHIND THE SCENES (2/2)

2014-07-31 20:00:00 | ライナーノーツ翻訳
3月12日
RCAは、グレースランド・セッションからの第一弾シングル盤として、ロイ・ハミルトンの「心の痛手 (Hurt)」とデニス・リンデ(リンド)作の「フォー・ザ・ハート」と題された素晴らしい新曲をカップリングして出荷する。
このシングル盤は約25万枚を売り上げ、ビルボード HOT 100で28位に達する(ビルボード HOT カントリー チャートでは6位)。

3月17日
1976年の最初のツアーが、グレン・D・ハーディン(ピアノ)とロン・タット(ドラム)がそれぞれシェーン・キースターとラリー・ロンディンに交代してスタート。
ツアーは、22日にセントルイスで終了。

3月19日
将来(FTDの)編集プロデューサーとなるアーンスト・ミカエル・ヨルゲンセンと彼の妻が、
ジョンソン・シティのホリデイ・インでフェルトン・ジャービスに会った時、
フェルトンはこのセッションを褒めちぎり、セッションのハイライトは「ダニー・ボーイ」であることや、
その曲でのデビッド・ブリッグスのピアノ演奏の素晴らさを、興奮気味に何度も語る。

驚いたことに、ポール・リヒター出版のエルヴィス・ファンクラブ誌が
最近録音されたすべて歌のリストを提示したのだが、
その情報は、通常この段階では内密扱いにされるべき情報である。
特に目を引くのは、ポール社が示したリストの13番目に「アメリカ (・ザ・ビューティフル)」が
載せられていることで、この歌はセッション最終日に上書き消去されていたのである。

4月21日
7日間のツアーがカンサス・シティで始められ、
そのまま(注:中二日)ネバダ州ステートラインのハイ・シエラ・シアターでの10日間の興行へと続く。

5月17日
RCAは、最新シングル曲を含む新アルバムを「メンフィスより愛をこめて (From Elvis Presley Boulevard, Memphis, Tennessee)」として発表するが、今後に備えて「ムーディ・ブルー」と「何でもないのに (She Thinks I Still Care)」を残しておく。
41位というビルボード TOP LP チャートでの最高位はパッとしたものとは言えないが、同誌の HOT カントリー・チャートでは4週1位であり、エルヴィスの忠実な聞き手のほとんどがカントリー音楽のファンであるという事実を、如実に示している。

 FTD「From Elvis Presley Boulevard, Memphis, Tennessee」
 BEHIND THE SCENES
 翻訳 (1/2)   翻訳 (2/2)


補足資料
ネバダ州ステートライン

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FTD「From Elvis Presley Boulevard, Memphis, Tennessee」 BEHIND THE SCENES (1/2)

2014-07-26 20:00:00 | ライナーノーツ翻訳
1976年
ラケットボール用のコートが出来上がるまで、エルヴィスはコロラドで1月の休暇をのんびりと過ごす。

1月28日
23日にメンフィスに帰ってきたが、
デンバーの警察官「ユージーン・ケネディ」の葬儀に参列するために、
エルヴィスは飛行機でデンバーへ戻る。
この予期せぬ出来事は、レコーディング・セッションの開始を遅らせ、
バンドメンバー数名のスケジュールに影響を及ぼす。

2月2日
「ジャングル・ルーム」という名で知られている一室がレコーディング・スタジオに模様替えされ、
6晩にわたるレコーディング・セッションがグレースランドで始まる。
RCAの移動式録音車がグレースランド裏手の空き地に止められ、
可能な限り最高の音が録れるように、部屋の壁は毛布で覆われ、アンプは部屋の外に設置された。
セッション初日の晩、エルヴィスはデンバー警察の制服姿で現れる。

2月7日
既に予定が入っていたため、ジェームス・バートン、グレン・D・ハーディンとジェリー・シェフが
セッションから離れ、ビリー・サンフォード、ボビー・エモンズとノーバート・プットナムに代わる。
この日がレコーディングの最後の晩になるのだが、おそらく意図的に、何ら了解を得ることなく即座に、
テープに収めた曲の一つ「アメリカ(・ザ・ビューティフル)」に上書き録音がなされた。

2月8日
セッションはこの日の晩にも予定されており、バンドやコーラスが準備して待っていたが、
エルヴィスは2階の部屋から降りて来ない。
しかし、既に12録音を何とかテープに収めていたので、フェルトン・ジャービスは満足する。

注釈:
このセッションでは、エルヴィスとグループ全員で、
モーリス・アルバートの「愛のフィーリング (Feelings)」にも取り組んでいたことや、
ザ・プラターズのオリジナル曲をエルヴィスが何曲も歌っていたことを、
複数のミュージシャンが記憶している。
しかし、これらの曲を収めたテープが表に出て来たことはなく、
もちろんそれらの曲は、RCAのセッション・テープには残されていない。

 FTD「From Elvis Presley Boulevard, Memphis, Tennessee」
 BEHIND THE SCENES
 翻訳 (1/2)   翻訳 (2/2)

補足資料
1976年2月2日~8日 ジャングル・ルーム・セッション
2月2日 PM8:00~
 
2月3日 AM9:30
Bitter They Are Harder They Fall
She Thinks I Still Care
The Last Farewell
つらい涙
何でもないのに
ラスト・フェアウェル(別れの詩)
2月3日 PM9:00~
2月4日 AM10:30
Solitaire
ソリテアー
2月4日 PM9:00~
 
2月5日 AM10:30
I'll Never Fall In Love Again
Moody Blue
I'll Never Fall In Love Again
 
ムーディ・ブルー
最後の恋
2月5日 PM9:00~
 
2月6日 PM2:00
For The Heart
Hurt
Danny Boy
フォー・ザ・ハート
心の痛手
ダニー・ボーイ
2月7日 AM0:00~
2月7日 AM8:00
Never Again
Love Coming Down
ネバー・アゲイン
ラブ・カミング・ダウン
2月8日 AM0:00~
 
2月8日 AM7:00
Feelings
America (The Beautiful)
Blue Eyes Crying In The Rain
 
 
雨の別離

その後のラケットボール・コート
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FTD「Moody Blue」 BEHIND THE SCENES (5/5)

2014-07-19 20:00:00 | ライナーノーツ翻訳
6月17~26日
結果的にエルヴィスにとって最後となるツアーが、ミズーリ州スプリングフィールドから始まりインディアナポリスで終わると、エルヴィスはその地に在るRCAのレコード工場で、発売間近のアルバム「ムーディ・ブルー」の青いビニール盤を贈呈される。
エルヴィスがこの工場を訪れるのは、1955年12月にカーター・シスターズのアニタ・カーターと共に訪れて以来二度目である。
エルヴィスは、同工場での生産20億枚を記念するプレートも贈られたが、20億枚目のレコードは、奇しくもエルヴィスの新しいアルバムだった。
19日と21日に行われたオマハとラピッド・シティでのショーが、放映予定のTVショーに向けて、CBSによって撮影、録音される。
FTD「A Boy From Tupelo」1955年12月4~7日
FTD「Fashion For A King」 1977年6月26日

6月
RCAは発売間近のアルバムから2枚目のシングルを発表。
曲名は「ウェイ・ダウン」と「プレッジング・マイ・ラブ」で、「ウェイ・ダウン」はすばらしい出来の目新しいアップテンポ曲、「プレッジング・マイ・ラブ」は、エルヴィスが1955年の夏に自身のライブで取り上げた歌で、ジョニー・エースのヒット曲を非常に上手くカバーしている。
このレコードは、ビルボード HOT 100で18位に達する。
エルヴィスの死がチャート順位や売り上げを押し上げたこともあるが、HOT カントリー・シングル・チャート(両面チャート・イン)では、エルヴィス生前の8月13日付けでも2位に付けていて、翌週には1位になる。
そのシングルは、チャート初登場の間に90万枚近く売れる。

7月
新しいアルバムの準備が整う。
その構成は、最近発売された2枚のシングル盤収録曲と、1976年10月のグレースランド・セッションで録音された別の2曲(「イッツ・イージー・フォー・ユー」と「浮気はやめなよ」)に、フェルトンが春のツアーで録音した3曲のライブ音源が加わった計9曲。
アルバムとしての体裁が整う10曲にするために、1974年メンフィス・ライブ・アルバムから「レット・ミー・ビー・ゼア」が加えられる。
シングル盤と同様に、エルヴィスの死がチャート順位と売り上げに多大な影響を与える。
アルバムはビルボード HOT LP チャートで3位となり、HOT カントリー LP チャートでは10週間1位を保持し、売り上げ枚数はついに200万枚を超える。

(補足 1977年ビルボード HOT カントリー LP チャート : LP「Moody Blue」10週連続1位)

 FTD「Moody Blue」
 BEHIND THE SCENES
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補足資料 : 1977年6月26日
インディアナポリス国際空港・RCAのレコード工場・Market Square Arena の位置関係
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FTD「Moody Blue」 BEHIND THE SCENES (4/5)

2014-07-15 20:00:00 | ライナーノーツ翻訳
3月12日
エルヴィスとその一行30名がハワイで休暇を過ごす。

3月23日~4月3日
アリゾナ、テキサス、オクラホマ、ルイジアナ、アラバマ、ジョージアとフロリダを巡る南部ツアーに出発。
エルヴィスは3月31日バトンルージュで舞台に立てず、ツアー最後の3日間もキャンセルせざるを得なくなる。
1977年3月26日

3月25日
切羽詰ったフェルトン・ジャービスは、アルバムに使える曲がなにかしらテープに収められることを願って、
8トラックのアンペックス録音機でツアーで歌われる曲を選択しながら録音し始める。
5月3日まで録音を続けた結果、アルバム向けの3曲を何とか確保。

3月
エルヴィスからアルバムが提供されない状況が続いた結果、RCAは「ウェルカム・トゥ・マイ・ワールド(Welcome To My World)」というタイトルで、既発表曲によるカントリー・ベースのアルバムを編集する。
このアルバムはビルボードの順位は44位だったが、エルヴィスの死を受けて売り上げが急上昇し、程なく100万枚に達することになる。

4月21日~5月
さらにグリーンズボロ(ノース・カロライナ)でツアーが始まるが、
今回は南部ではなくアメリカ北東部を中心に巡るもので、シカゴでの2公演が含まれている。
1977年4月26日

5月20日~6月
3月のツアーで公演がキャンセルされた4つの都市を含む11州に及ぶツアーという、
過酷なスケジュールが続く。
1977年5月29日
 FTD「Moody Blue」
 BEHIND THE SCENES
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