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言葉のかけら

エルヴィスのレパートリーを日本人の視点から読み取る訳詞プロジェクト「言葉のかけら」

FTD「Back In Memphis」 BEHIND THE SCENES (1/3)

2013-12-30 01:30:00 | ライナーノーツ翻訳
BACK IN MEMPHIS
エルヴィスの歌手人生の中で、最も露骨な二番煎じアルバムのひとつである「バック・イン・メンフィス」は、当初、1969年10月14日に発売された2枚組アルバム「FROM MEMPHIS TO VEGAS-FROM VEGAS TO MEMPHIS」の1枚として発表されたものである。
NBC TVスペシャル、シングル「明日への願い」、そしてTVスペシャルのサントラ盤によって華々しい成功を収めたカムバックに続いて、エルヴィスは1969年1月と2月、アメリカン・サウンドでレコーディングを行うためにメンフィスへと戻って来た。

このレコーディングからの)最初のシングル「イン・ザ・ゲットー / エニー・デイ・ナウ」のA面曲が、1965年の「クライング・イン・ザ・チャペル」のヒット以来最高位となる、Billboard HOT 100の3位に到達。
シングル曲(「イン・ザ・ゲットー」と「エニー・デイ・ナウ」)も収録されているアルバム「エルヴィス・イン・メンフィス」は、Billboard TOP LPs チャートの13位に達し、TVスペシャルのアルバム同様、エルヴィスにゴールド・レコードをもたらした。

メンフィス・セッションで録音されたマスターは、ヒット・シングルになる可能性がある数曲を含め、まだ20曲以上残っており、次回のリリースに知恵を絞る必要は無いように思えた。
しかし、パーカー大佐の世界では、事態は異なる様相を呈していた。
彼は、エルヴィスの新作劇場映画「トラブル・ウィズ・ガールズ」のサポートを委託されており、ラジオ放送から映画のサポートを得るためのシングルを発表すべきであるという見解に固執していた。

発表されたシングルのサントラ面は、現代性が強調された歌詞によって、1960年代中盤から後半にかけてのほとんどのエルヴィス作品と比べてもより時代に則した楽曲に聞こえるであろうと、大佐が期待を表したレコーディングになっていた「クリーン・アップ・ユア・オウン・バックヤード」だった。
しかしこのシングルは35位に届くのが精一杯で、程なくして、まるでエルヴィスは既に、ファンではない一般的なレコード購入者から新たな信頼性を得る実力を失ってしまっているかのように見られた。

翻訳(1/3) 翻訳(2/3) 翻訳(3/3)
FTD Back In Memphis



FROM MEMPHIS TO VEGAS-FROM VEGAS TO MEMPHIS



US Single「Clean Up Your Own Back Yard / The Fair Is Moving On」
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FTD「From Elvis In Memphis」 BEHIND THE SCENES (4/4)

2013-12-28 23:00:00 | ライナーノーツ翻訳
4月14日
RCAは、メンフィス・セッションからの最初のシングルとして、できたてほやほやのマック・デイヴィス作品「イン・ザ・ゲットー」と、チャック・ジャクソンが1962年にヒットさせた「エニー・デイ・ナウ」のカバーをカップリングして出荷。
A面の「イン・ザ・ゲットー」はBillboard Hot 100で、エルヴィス作品として、1965年発表の「クライング・イン・ザ・チャペル」以来の最高位となる3位までじわりじわりと上る。
このシングルは100万枚以上を売り上げ、エルヴィスが音楽ビジネスのトップに戻ったという事実がより確かなものとなる。
そのメロディ、歌詞、アレンジ、そしてエルヴィスのパフォーマンスの誠実さが、1969年の他のアーティストと変わらぬ彼の現代性を証明していた。

6月
3月と5月にチップス・モーマンとフェルトン・ジャーヴィスは、シングル、アルバムそして追加的に録音されたマスターのほとんどを完成させるために行うメンフィスとナッシュビルでの長々としたオーバーダブ・セッションをプロデュースしていた。
RCAは6月に「FROM ELVIS IN MEMPHIS」を出荷し、このアルバムはやがてエルビス・プレスリーの経歴におけるハイライトの1つとして際立つことになる。
アルバムはBillboard Top LP'sの13位になり、発売後すぐに50万枚を売り上げる。
ローリング・ストーン誌は、このアルバムが「これまで彼が音楽的に成し遂げてきたいずれのものにも匹敵することは、全く議論の余地が無い」と述べている。

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US Single「In The Ghetto / Any Day Now」




From Elvis In Memphis
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FTD「From Elvis In Memphis」 BEHIND THE SCENES (3/4)

2013-12-27 22:30:00 | ライナーノーツ翻訳
3月5 & 6日
エルヴィスは彼にとって最後の劇場主演映画となる「チェンジ・オブ・ハビット」の仕事をこれといった意味も無い通常のレコーディング・セッションで始め、撮影などの作業も3月29日で完了。

3月25日
RCAは2種類のゴスペル・アルバム、「His Hand In Mine(心のふるさと)」と「How Great Thou Art(ゴールデン・ヒム)」のタイトル・ソングをカップリングしイースター向けシングルとして出荷。
そのシングルは、イースター期間中のラジオ放送向けやジュークボックスでその時期に演奏されるものとしてそれなりの数が確保されたはずだが、それでもわずか2万5千枚しか売れない。

3月28日
RCAは自社のキャムデン・レーベルでエルヴィス初の低価格アルバムを出荷。
そのアルバムは、「(ミシン会社の)シンガー」がTVスペシャルの提供会社だった関連から当初その販売店で取り扱われていた編集盤「ELVIS SINGS FLAMING STAR」の再発売であり、主に「余りもの」をかき集めたアルバムは、Billboard Top LP'sで96位にチャートインした。
50万枚売れているのだから、もっとチャートを駆け上がっていても良さそうなものだが、チャートの順位は「売上額」に基づいて決定されていたのである。

 翻訳(1/4) 翻訳(2/4) 翻訳(3/4) 翻訳(4/4)
US Single「His Hand In Mine / How Great Thou Art」




Elvis Sings Flaming Star
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FTD「From Elvis In Memphis」 BEHIND THE SCENES (2/4)

2013-12-26 23:00:00 | ライナーノーツ翻訳
1969年1月13-23日
あいにく、エルヴィスは風邪をひいた状態でスタジオに現れ、二晩はレコーディングに臨んだものの、その後中断を余儀なくされる。
チップス、フェルトン、及びバンドのメンバーは、その後も二晩、エルヴィス抜きでレコーディングを続け、エルヴィスがレコーディングの意向を示していた歌のオケを録り溜める。

エルヴィスは翌週の月曜日にスタジオに復帰し、続く4日間で、自分が不在中に録音されたほぼ全ての曲にボーカルを入れただけでなくヒット・シングルとなる「イン・ザ・ゲットー」、「サスピシャス・マインド」、「ドント・クライ・ダディ」を含む更なる作品群も録音する。
計19曲を完成させ、エルヴィス、プリシラ、リサ・マリーと彼の取り巻きの数人が、コロラド州アスペンへ休暇に出かける。

2月17-22日
チップス・モーマンとエルヴィスの版権管理会社の間で、「ヒル& レンジ」が提供していない作品がレコーディングに紛れ込んでいる件に関して議論が白熱している状況の中、新たな週単位でのセッションが予約される。
結局エルヴィスはマネージメントを覆し、取り上げる作品について確固たる信念を述べて、問題となる歌、特にチップスが版権を管理する「サスピシャス・マインド」のような歌もレコーディングすると言い張った。
その週のレコーディングで新たに13曲のマスターが生み出された。

それまでのキャリアに照らし合わせても、最も生産的なセッションと言えるアメリカン・サウンド・スタジオでの2週間で、
エルヴィスは、将来にわたって最良となる幾つかの曲を含む32曲という驚異的な数のマスターを残すこととなる。

2月25日
RCAはTVスペシャルからの「メモリーズ」と、間もなく公開される映画「殺し屋の烙印」のタイトル曲「チャロ」をカップリングした新たなシングルを出荷。TVショーの成功にもかかわらず、美しいバラード曲(メモリーズ)はBillboard Hot 100の35位にしか届かない。

2月26日
エルヴィスとパーカー大佐は、エルヴィスの復帰ライブ公演がその年の8月に計画されていることを発表するため、ラスべガスの新しいホテル「ザ・インターナショナル」の建設現場を訪問。

US Single「In The Ghetto / Any Day Now」


US Single「Suspicious Minds / You'll Think Of Me」


US Single「Don't Cry Daddy / Rubberneckin'」


US Single「Memories / Charro」

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FTD「From Elvis In Memphis」 BEHIND THE SCENES (1/4)

2013-12-24 22:30:00 | ライナーノーツ翻訳
1969年の早い時期、RCAのプロデューサー、フェルトン・ジャーヴィスがそのレーベル(RCA)における彼の最も重要な依頼人を訪問するためにメンフィスへと車を走らせていたちょうどその頃
エルヴィス・プレスリーは、第一線への復帰を印象付ける事柄を劇的に成し遂げていた。
シングル「明日への願い」とTVスペシャルの聞き所を選りすぐったサウンドトラック盤が、チャートを駆け上がっていたのである。

エルヴィスを「過去の人」と見くびっていた批評家たちは
一般大衆がそうであったように、TVショーでの彼のパフォーマンスに驚き、エルヴィスは今も、無視出来ない影響力を持つ実力者であり、おそらく以前にも増して高く評価され得るであろう状態だとハッキリ悟ったのであった。
フェルトンはTVスペシャルの成功には関わりが無く、間近に迫ったナッシュビルでのセッションについて相談をするためにメンフィスにやってきたのだが、エルヴィスが、取り巻きの数人から、メンフィスのアメリカン・スタジオでレコーディングしたほうがいいと提案され、了承していたことを知るだけとなった。
アメリカン・スタジオとその所有者であるチップス・モーマンは
サンディ・ポージー、ザ・ボックス・トップス、ダスティ・スプリングフィールドによる一連の非常に実りあるレコーディングを行ってヒット作を世に送り出しており有能なスタジオ専属ミュージシャンたちは、どのような音楽的状況を求められてもそれに応え、ポップ、カントリー、R&Bの間を苦もなく行き来した。

チップス・モーマンはエルヴィスの作品をレコーディングできる機会を得たことに興奮しすでにニール・ダイヤモンドやロイ・ハミルトンを始めとする他のプロジェクトの予約が入っていたにもかかわらずそれらのセッションを脇に追いやり、1月13日以降の夜の時間帯は週単位でスタジオを押さえ、エルヴィスを迎え入れる手筈を整えた。
FTD From Elvis In Memphis

US Single「If I Can Dream / Edge Of Reality」

LP「エルビスNBC・TVスペシャル」

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