以前「延命」に消極的な考えを持つ私に、ある大きな病気を経験した
患者様がこんな事をおっしゃいました。
「あなたは死に直面する病気になった事がないから、延命反対だの
尊厳死だの言えるんです。」
「なるほど、それはそうだな」と思いました。しかし同時に口には
しませんでしたが、
「逆にあなたは死に行く患者様に延命治療を施したこともないし
今とは違う、自分では何も出来ず意思表示も出来ず、強い苦痛から
逃れられない状態でも、『本当に』延命を希望するのでしょうか」
とも思いました。
殆どの方は、死にたくはないし、病気と闘い、苦しくても何でも
生き抜きたいという想いを持つことでしょう。その想いを私は
想像することしか出来ませんが、理解したいと思っています。
この『生きたい』という当然の気持ちを想像する事をしないと、
「苦しそうだからセデーションしましょう」というような
『苦しくなければ良いという何か間違った緩和』
に陥り易いと思います。
しかし、同時に、健康な私が闘病中の患者様の気持ちを本当の意味で
理解出来ないのと同じように、少なくとも御自分の意思をきちんと
表現出来る状態の患者様は、それが出来なくなった時の状況を、
お気持ちを本当に理解出来るのでしょうか。
死を目前にした時には、また違った想いがある「かもしれない」
とは考えなくても良いのでしょうか。これを考えないと
上記の「間違った緩和」と対極の偏った考えになる可能性もあると
私は思います。
結局は、意思表示が出来なくなった患者様の気持ちは意思表示が
出来ない人しか理解出来ない、という事になるのではないでしょうか。
そうであれば、やはり事前の御本人の意思に拠るか、御家族の判断に
委ねるしかなくなります。ここに他者の利害や思惑が加わり、
判断を左右するというのはもってのほかですし、尊厳死を推進して
いくのであれば、ここを慎重に考えないと大変な事になります。
他者のいたみを理解するのは、いつも難しいです。
しかし、それを理解しようとしなくて良いという事ではありません。
患者様がこんな事をおっしゃいました。
「あなたは死に直面する病気になった事がないから、延命反対だの
尊厳死だの言えるんです。」
「なるほど、それはそうだな」と思いました。しかし同時に口には
しませんでしたが、
「逆にあなたは死に行く患者様に延命治療を施したこともないし
今とは違う、自分では何も出来ず意思表示も出来ず、強い苦痛から
逃れられない状態でも、『本当に』延命を希望するのでしょうか」
とも思いました。
殆どの方は、死にたくはないし、病気と闘い、苦しくても何でも
生き抜きたいという想いを持つことでしょう。その想いを私は
想像することしか出来ませんが、理解したいと思っています。
この『生きたい』という当然の気持ちを想像する事をしないと、
「苦しそうだからセデーションしましょう」というような
『苦しくなければ良いという何か間違った緩和』
に陥り易いと思います。
しかし、同時に、健康な私が闘病中の患者様の気持ちを本当の意味で
理解出来ないのと同じように、少なくとも御自分の意思をきちんと
表現出来る状態の患者様は、それが出来なくなった時の状況を、
お気持ちを本当に理解出来るのでしょうか。
死を目前にした時には、また違った想いがある「かもしれない」
とは考えなくても良いのでしょうか。これを考えないと
上記の「間違った緩和」と対極の偏った考えになる可能性もあると
私は思います。
結局は、意思表示が出来なくなった患者様の気持ちは意思表示が
出来ない人しか理解出来ない、という事になるのではないでしょうか。
そうであれば、やはり事前の御本人の意思に拠るか、御家族の判断に
委ねるしかなくなります。ここに他者の利害や思惑が加わり、
判断を左右するというのはもってのほかですし、尊厳死を推進して
いくのであれば、ここを慎重に考えないと大変な事になります。
他者のいたみを理解するのは、いつも難しいです。
しかし、それを理解しようとしなくて良いという事ではありません。
貴重な御意見を有難うございました。
“正論は反発を生む”、その通りだと思います。
恐らく、患者様、御家族は気持ち、感情の理解を
求めます。医療を提供する側は理性的、合理的
対応をする事が多いので、溝が埋まらないという
部分もあるのではないかと思います。
そこでストーンさんのおっしゃる、“寄り添う”
ことがどこまで出来るのかが緩和ケアで最も
重要な点ではないかと考えます。
そのために必要な事、感じることがあればまた
いつでもコメントを頂ければ幸いです。