よく純文学とは何?と訊かれるが作家である私ですらその意味はよく解からない。しかしだからと云って全く分かっていないわけではない。純文学とはおそらくありのままの世界を直視し、それをありのままに描写することに他ならないのではないだろうか。それは一見たやすいが奥が深く難しいことである。
今、聖書を読んでいるが既に旧約聖書の「申命記」の時点で頭が痛い。これほどにも登場人物を羅列しなくてももっと良い書き方があったのではないか、と思ってしまう。けれども、昔の神学者などはこれを底本として文章を書かなくてはいけなかったことを思うとただただ頭が下がるばかりである。
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ハイデガーの「Sein und Zeit」を読んで思ったことだが、言語も限界まで酷使すると崩壊し、その内奥の意味をも瓦解させると云うことである。結局のところ時間と云うものは何か、存在と云うものは何か、と云う根柢の問題を探ろうとして何度も同じところ行ったり来たりして全く進んでいない
昔、女友達に「男と女は親友になれないの?」と問いかけられたことがある。その返しは覚えていないが、女と男の生物学的関係上、私の私見としてはそれは不可能に近いと思う。私は友達以上に女性と親しくなったときには彼女は彼女になり、そうでない場合は疎遠になってしまったからである。
君塚正太 - 騒人 sohzine.jp/writer/kimiduk… 私の著者ページです