徒然刀剣日記

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奈良に関する過去記事

2005-10-25 17:13:31 | 徒然刀剣紀行
ブログが登場する以前に、ウェブ上で日記を公開していました。
それら過去の日記を整理していると、奈良に関する記事がザクザクとでてきました。
公開日記の記事の中で、奈良について述べているので、ついでといってはなんですが掘り返してみたいと思います。

以下、過去記事より。

2002年11月の日記~その1~

今週末、奈良への日帰旅行を計画しています。
奈良と言えば、日本刀の五ヶ伝の1つ大和伝発祥の地です。

大和の国は都が平安京に移るまで日本の中心地でした。その為刀剣の歴史も大変古いのです。
古来より刀匠天国・天座らが西暦700年頃にいたらしいのですが、在銘品がないので定かではありません。
天国作と言われる小烏丸は平安中期頃の製作といいます。
次に古来より名工として名前が出るのは平安時代末期の千手院行信、重弘でしょうか。
天国らと随分時代が違うのですが、平安中期から末期にかけて刀匠の出現がないのは、都が平安京に遷都されて大和近辺が歴史の表舞台から遠退き、次第に廃れていったためと思われます。
逆説的ですが、刀匠が活躍しない場所・期間というのは華やかではないが争いも少なく、比較的平和な時期であったことが推測されます。

平安時代末期の千手院行信、重弘の在銘確実な作品は残っていませんが、これら千手院派が現れた理由は、仏教新興政策に起因しているようです。
平安末期の不安定な世相を反映して、人々は神仏にすがるようになって奈良の寺院が勢力を掌握していきました。それに伴い、大寺院は曽兵を持ち武力を持って自治を始めたことは歴史の教科書などにも載っています。
これら曽兵の武器需要に答える為に再び刀鍛冶が移り住んできたのです。

大和鍛冶は、大和全域で作刀していますが、これは各地にある寺院のもとで作刀していたという証拠でもあります。
刀匠達は、寺院と密接な関係を維持し、室町中期まで大和の地で活躍しました。
千手院で最も古いと推測されているのは、鎌倉時代初期の千手院と三字銘のある太刀です。

この後の鎌倉時代中期に出現した当麻・尻懸・保昌・手掻を加えて、今日では大和五派と呼んでいます。
ちなみに在銘品が少ないのは、曽兵のお抱え鍛冶として働いていたので遠慮したのか、あるいは売り物でないので銘を入れなかったことが原因でしょう。

作風は、実用重視で華美でなくそれが伝統として長く継承されました。
鎬が高く鎬幅広く、必ず柾気がある鍛え肌で刃文は直刃本位であって乱れがあっても穏やかです。
ほつれ、打のけ、喰違い、砂流し、働き豊富、帽子は焼詰めが多い。
地刃は冴えて沸が強い。

寺院の保護の元で非常に繁栄しましたが、後に新興仏教と地方豪族の隆盛を迎えると、旧体制勢力である寺院との関係が崩壊して、大和鍛冶は全国に散っていったのです。

こうして考えると古刀期の刀匠は戦場を渡り歩く傭兵的兵器メーカーであったことが分かってきます。

そんなロマンに浸りながら、奈良の町を探索したい今日この頃です。