kosakuの雑念

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コーネル大学式ノートは興味深いが

2009-04-22 00:01:28 | 日記
「アタマが良くなる合格ノート術」(田村仁人著,2007年)

だいたいこうした傾向の本に言えることだが、なぜ学校の授業を価値あるものと位置づけるのだろうか。
大枚をはたく企業向けセミナーのたぐいと勘違いしていないだろうか。
ギュウギュウに濃縮されているような、あるいは単純平易な表現のなかに、たくさん読み解くべき行間が詰まっており、聴講者は、それを自分なりのやり方で咀嚼して自らの知見としていく、そんなセミナーにまれに出会うことがあるが、学校の授業をそのようなものと同列に扱っていないだろうか。

私の時代には、自由なノート作りを許さず、ノートを検閲するために提出を命じる教師もいたが、こんな最低の連中はもう現場を去っていてもよさそうなほど年月が経っているから良いとしても、さしあたり真剣にぶつかる価値のなさそうな要領を得ない授業はまだまだあるだろう。
そういうものに直面したとき、どうするのか。こうしたノート術の本はかような事態を想定していないのだ。

それから、別段この本だけの話でもないが、「パレートの法則」だとか、「重要な部分は全体の2割」というような手垢にまみれた表現を安直に使って欲しくない。

たとえば「ソフトウェア開発のカオス」(ラリー・コンスタンティン編著)にはこんな記述がある。

”一般的には大規模システムの欠陥あるいはバグは平均的に分布しているのではなく、少数の誤り多発モジュールに集中している。1960年代、IBMはMVSオペレーティングシステムの初期バージョンでは4%のモジュールの中に顧客からの欠陥報告の38%が集中していることを発見した。1970年代末のIBMのIMSデータベースについての研究では、さらに偏りはひどく、425モジュール中300モジュールはゼロ欠陥で、顧客報告のバグは1件もなかった一方、31のモジュールが顧客欠陥報告の57%を占めていた。”

特定科目の限定された部分でもよいから、これらをまとめて、このような説得力のある文章を書いて欲しいものだ。