国境をなくすために

戦争をしない地球の平和を求めるには、国境をなくすことが必要と考えました。コミュニティガーデン方式を提案します。

『フルトヴェングラーが岩倉具視を連れて来た』シュミット村木著 音楽の友社、2023

2024-09-27 10:16:27 | Weblog

C 国境をなくすために → 歴史

(冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
   (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)


『フルトヴェングラーが岩倉具視を連れて来た』シュミット村木著 音楽の友社、2023

歴史年表の後ろ側の世間の繋がりを知る楽しい本でした。 著者の2004年のフルトヴェングラーの新聞記事を読んで、岩倉具一さんが「私の父も、祖父のアウグスト・ユンケルも、フルトヴェングラーを崇拝していました」と手紙をくださったそうです。 具一さんの祖父の岩倉具視研究からこの膨大な本になりました。

p27 堀川康親の次男周丸は、1825年(文政8)9月15日に生まれた。 「この子は尋常な童子とは異なり、成長して有用の人物になるにちがいない」と、岩倉家の養子になった。 13歳の時である。 翌年元服して、従五位下岩倉具視として昇殿を許された。

p32 ペリーが黒船でつれてきた軍楽隊は1853年7月14日上陸行進でアルプス一万尺を演奏した

p32~34 すでに幕府側は海軍をつくりジョン万次郎、高島秋帆の砲術、情報、技術を知っているのに、ハリスが来た時も、「神州を汚さず」と祈祷をし、
「異人をともども払え神風や 正しからずをわが忌むものを」(孝明天皇)
天皇の無理解と幕府の知識の間で、徳川慶喜が悩んだことが想像できます。

p35 太閤鷹司政通と関白九条建道の反目

p39 玉体には種痘もだめ、でも後の明治天皇の祖父の中山は秘かに蘭医大村泰輔に種痘をさせている。

p46 1862年天皇は皇女和宮の降嫁を計ったとして、久我、岩倉などに辞官・落飾、蟄居を命じ、「いかさまに思いわきても嘆きても 涙のみこそ降りまさりけり」岩倉具視

p49 洛北岩倉村で僧体となり天皇に密奏

p61 1866年夏、徳川家茂が脚気衝心で死去。 4か月半後、勅命で徳川慶喜15代将軍。 岩倉は蟄居中。 1867年1月、孝明天皇崩御

p68 1867年2月13日、14歳の睦仁親王即位。 
p73 1867年10月15日、 大政奉還 
p74 岩倉具視大赦。11月8日 蟄居がとかれた。 12月8日薩摩の王政復古に岩倉は同意。 岩倉が代表する朝廷に慶喜献金。
p78 12月14日 「王政復古の大令」

p83~ 岩倉は「朝廷は寸兵を有せず、ただ、口舌を以って争うのみ」大久保らは、戦で目を覚まし、事態を知らせ、早めに決着をつけねばならない、急げ
岩倉は、「慶喜が謝罪したら、即日、議定に就任させる」 これが西暦1868年慶応4年元旦だった。 だが、二日後一月三日、鳥羽伏見で戦が始まるのである。
p89 岩倉は、軍事参謀として淀まで進んだ大久保に、京を離れてくれるなと泣いて懇願したという。

p92 江戸城の運命は、西郷、山岡、海舟の交渉前に、岩倉が決めていた。
p98 笛と太鼓のトンヤレ節
p104 1868年9月3日江戸は東京と改称

p105 岩倉は、天皇の東幸によって内戦の終わりを告げ、東の人々を安心させたかった。 明治元年10月13日、品川を出て江戸城に入り、これを東京城と改名、皇居と布告する。 雅楽の奏者が先導する鳳輦の前後を衣冠帯剣の親王、公家、諸侯が馬で行き、直垂帯剣の政府要人が歩く錦絵は予告編から大ヒット。 衣冠、狩衣、直垂が混ざり、色や文様も公武の感覚の違いでもめて、アーネスト・サトーは諸侯の軍服が揃わなかったと指摘するが、見る者には、そんなことどうでもいい。 行列には鼓笛隊を含む八つの軍楽隊が同行した。 初めて聞く演奏のレベルは誰にもわからない。 これが、新政府の西洋音楽導入の始まりだった。

p107 1869年(明治2)6月、285の旧藩主の藩籍奉還が勅許された。 岩倉は、幕藩体制をそのまま政府統制下にソフトランディングさせて、藩主は従来の領地の知事にし、藩行政と知事の家政を分離して国を統一するつもりだったが、薩長土の大久保や寺島や森、木戸や伊藤、板垣が、王土王民思想で藩籍奉還を行った。

p109 1871年(明治4)10月、右大臣様(岩倉家での呼び名)は特命全権大使として、欧米12カ国視察を命じられた。
p110 日本の主義主張を世界に伝え、名誉を世界に広めるよう、片言隻句一挙手一投足に注意を払い、国の恥にならぬよう、特に大使の態度は世界の目に触れる、十分認識して行動せよとの訓戒を得て、1871年12月23日、太平洋郵船の外輪蒸気船アメリカ号に乗船、横浜を出港して、太平洋を横切りサンフランシスコへ、そして、ワシントン、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボストン、英国、欧州大陸へ渡り、フランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア=ハンガリー、スイスを経て、1873年晩夏、マルセイユを出て同年9月に帰国という旅の使命は、新政府紹介、先進国視察、不平等条約改正の可能性を探る事だった。

~ 同行者のひとりひとりを説明されていますが、

p114 佐倉藩藩医佐藤泰然の末子、林薫(1850-1913)は御典医林洞海の養子となり、横浜ヘボン塾で学び、幕府留学生として渡英、内戦中に帰国、函館戦で捕虜になり、釈放後、兄松本良純の友人陸奥宗光の推薦で外務省に入った。
もう一人、 長野桂次郎(1843-1913)は、16歳で小栗上野介の訪米に従った通訳見習い立石斧次郎、アメリカで人気者になったトミーで、大阪では徳川慶喜の通訳で、江戸に戻って大鳥圭介と日光戦を戦い、傍らで戦死した兄の死体を背負って二日間山中をさ迷い、日光の浄光寺に埋葬している。 斧次郎は、内戦時にシュネルと函館戦の武器調達に行った上海でパリから帰国する渋沢に遭い、「今日本はそんなことをしている場合か。 君も世界を知っている人間だろう」と諭されている。 三等書記官には、江戸開城前にピストル自殺をした川路聖謨の孫、川路簡堂がいた。

p119 明治10年に入って能楽再興を象徴する建物があいついで開設された。 これを推進した人物が岩倉であった。

p120 1871年(明治14)岩倉はやっと、蜂須賀、大久保、伊達、万里小路、武者小路等16名を自宅に招き、鉄道会社設立の必要性、路線計画、着手順序、資金収集の方法、政府助成、出願手続きなどの説明をして、伊藤、大隅、寺島等の参加と648家の承諾も得て日本鉄道会社を創立した。 予算の不足を華族の投資で補い、華族の生活も潤す一挙両得の策で、蜂須賀正昭の妻筆子の父徳川慶喜も出資した。 その会社が1883年に上野―熊谷間、岩倉没後の85年に品川―新宿―赤羽間、91年に上野―青森間と常磐線を開通させ、鉄道唱歌もできた。 「汽笛一声 新橋を 早わが汽車は離れたり‥」唱歌が汽車に乗って「西洋音楽」を広め、郷土意識も高め、地理の勉強にもなった。

p123 岩倉の末娘恒子(森寛子)の三男明も受洗して牧師になり、慶喜の甥で清水徳川家篤守の三女保子と結婚した。 岩倉家と徳川家の間に壁はなかった。 1898年3月2日、維新後初めて宮中に参内した慶喜は天皇皇后に謁見し、いわれなき朝敵の不名誉から開放され、翌日、勝海舟を訪ねた。「俺の役目は終わった」と涙を流したという海舟は翌年「これでおしまい」と永眠している。 
慶喜は、1902年6月2日の内勅で徳川宗家から分家、慶喜家を構え、6月3日に参内、公爵を授与された。 その翌日(同日午後?)彼が最初に向かったのは岩倉邸だ。

* 明治4年12月23日 出発した岩倉使節団

p124 明治5年12月3日が明治6年1月1日になった。 官吏は一か月の減給。
     外国で暦を見比べて旅する手間が省けた。
p125 間もなく、徴兵令の発布の知らせがきた。 大村益次郎か、侍から生活、特権、               そして、最後に誇りを奪い、国民には兵役を課した。

p129 船はスエズ運河を抜け、インド洋をマラッカ海峡へ、仏印(ラオス、ヴェトナム、カンボジア)により東シナ海を進んだ。 上海で岩倉は、中華料理で団員をねぎらい、アメリカ郵船ゴールデン号に乗り換えた。 膨大な体験を反芻しながら、明け行く東の空が白むごとく、祖国へ近づく。  ドイツに住み、今なお「違い」に驚く私には、当時の同胞の混迷が計り知れない。(注:著者は国籍も移して、出産、育児、作家活動の人)
「(9月)13日 晴レ 横浜に着船ス」

p133 岩倉は馬場先門の中の太政官用地に建っていた旧忍藩松平下総守邸に住んでいた。 1874年(明治7)一月、岩倉は宮中に呼ばれた。 天皇も23才、岩倉にしかできない話があったのだ。 夕刻に昇殿、問題解決、喜びのほろ酔い気分の夜8時、帰途に就いた。 家族が迎えるなか「馬車に誰も乗っていないぞ!」 帰路に襲われたお出居様(公家言葉の父)は皇居の捜査隊に救助され、宮中で休んでいるという知らせが来た。犯人は高知県士族武市熊吉等9人。 事件の衝撃は岩倉を5週刊政務不能にした。 岩倉は、犯人の助命を歎願。

p135~ 明治10年頃まで聞かれた「御一新」には、期待があった。 廃藩の傍らで、下級武士が(憧れの)殿様の真似をしている。 下級武士が作る新政府に、上中級武士対策はなかった。

p136~ 下野した西郷は、彼が好むと好まざるとに拘らず、「全国的不平」の象徴だった。 天皇は酒に耽るようになった。 熊本の神風連の乱、筑前の旧秋月藩藩士の秋月の乱、木戸と決裂した萩の前原一誠や奥平謙輔が起こした萩の乱、それに呼応して挙兵する予定だった旧会津藩士の思案橋事件など、「失望した」武士の「反乱」が続いた。

p137~ 政府を去った西郷は兵学校をつくった。 自己資金と、大山綱良、川路利秋、大久保利通の出資で、「幼年学校」、県の予算で「銃隊学校」と「砲隊学校」の三校が設立された。 二つの事件が起きた。 陸軍省砲兵所属廠の武器弾薬移動事件と、政府の密偵の自白、西郷刺殺(視察?)だ。 そして、1877(明治10)2月15日、薩軍が動き出すのだった。
従道がパークスに語っている『西南戦争 遠い崖13』「別府晋介、渡辺群平(高照)辺見十太郎の三人が叛乱の本当の首謀者で、兄暗殺の話を広めたのも、彼等です。 吉之助、篠原、桐野、村田新八、大山(綱良)は、彼らに騙されて陰謀の話を信じ込んだのです」

p139~ 征討総督有栖川宮が出発した。 西郷の運命を憂慮する天皇は、誰にも会わない。 岩倉は神戸を出る海軍中将川村純義に西郷説得を命じたが、川村は会えずに戻ってきた。 岩倉は自分が戦地に行くと言い張った。 大久保利通が公家の出る幕ではないと止めた。 木戸は5月、「西郷、もうやめんか」と言い、他界した。 過酷な戦いの果てに、9月24日、西郷が城山で自決、西南の役は終結した。 戊辰戦争以上の戦死者(1万5千人)を出し、国家予算の9割を使い、軍費調達用の不換紙幣の乱発でインフレが発生、大蔵卿松方正義が、増税と官営企業払い下げで通貨整理を行う。財閥が払い下げた工場へ低賃金で雇われた貧農が都市プロレタリアートを作る。 政商が儲かり、新聞は発行部数を伸ばした。

p142 山県の代理で終戦の報告に参内したのは弟従道である。 退出する従道を「今後とも勤めてくれよ」という天皇の声が追った。 従道は、目黒に買った豊後岡藩邸の跡地に書院造の家を建て、兄を待ったが、現れたのは永田熊吉だった。 和田越えで負傷した菊次郎(母愛加那)を背に投降した忠僕で、目黒の土地に作庭して、御殿山へも従った。 自宅から熊吉の葬式を出した従道は、「兄が逝きました」と言ったほどだ。 熊吉と遊んだ長女桜子(岩倉へゆく娘だから厳しく育てられた)は美しく育ち、皇后に「チェリーちゃん」と呼ばれた。 15才で高島田を結うと、姿を見たい皇后が食事に招いたほどである。
7か月続いた西南の役の次は、コレラだった。 ベルツが、首のない(西郷)の胴が発見され、後には首も見つかったが、戦が終わるとすぐコレラが発生、本州南部や九州の鎮台で感染した兵を仮兵舎に隔離し、徴用された医学部上級生全員が横浜を出たと書いている。

p143 1881(明治14)年5月16日のクララ・ホイットニーの日記の最初の部分である。 「今月14日に恐ろしい暗殺事件があった。 大久保利通氏が太政官への途中、赤坂の官邸から5町と離れていない地点で6人の男に殺されたのだ。 犯人は西郷派不平士族。 大久保は、周囲が遺言のようだと囁くようなことを語った。「(維新)を貫徹せんには,三十年を期するの素志なり。 仮にこれを三分し、明治元年より十年を一期とす、兵事多くして則ち創業時間なり、十一年より二十年に至るを第二期とす・・。内治を整え、民産を殖するはこの時にあり。 利通、不肖といえども、十分に内務の職を尽くさんことを決心せり。 二十一年より三十年に至るを第三期とす・・。そして第三期は賢い後継者に引き渡す仕上げの時である」
現存する絶筆は、出立前に会えるかを聞く暗殺前日の岩倉宛の手紙で、岩倉は命日ごとに読んで故人を忍んだという。
「翌朝彼が私を訪ねたかった時間に私の都合が悪かった。 手紙にある面会希望時間に彼は殺された。 少しのずれで彼は暗殺を免れたかもしれない。 彼は私の一番長い同僚だった。 私が蟄居を命ぜられ北山に隠れ住んでいた頃、警備が厳しく家族さえ来れない時でも、隙を狙って会いに来てくれた。 私も密かに彼を訪ね、国家の大事を相談した。 秘密の計画もあり、危険も冒した。 思い起こせば、病気のように震えるばかりだ。 共に朝廷に立ち、図り、勤めて十年、不肖私が過分な地位で、重い任務を辱めながら罪に問われずにいるのは、陛下の御恩とご好意のお陰ながら、多くは彼に助けられたからだ(後略)」
岩倉は大久保を信頼し、政治を任して退けると思っていた。 毎年の命日の客は、大久保利和、黒田清隆、大山巌、吉井友実、西郷従道、松方正義等だった。

p145~ 旧武士に、人として生きがいと誇りを蘇らせねばならない このままでは、彼らの失望がどんな形に変化するかわからない。 大久保に逝かれて2か月後、岩倉は「士族授産」を求める意見書を出し、「士族就産資金を地方官に附する事」「各地方に農工学科学学校を設くる事」を提案し、国を支える中流知識階級にしたかった。 憲法についても、民権運動に煽られて、相談したいが大久保はもういない、疲労を感じた岩倉は、この件を伊藤に任せて京へ向かった。

p152~ 1883年(明治16)急の勅命、次の便で発ち、「京都で重病に罹っている日本の最も重要な政治家右大臣岩倉具視を診て、可能なら、連れて戻れ」ベルツは助手一人と京都へ行き、折り返し、末期症状の岩倉を東京へ連れ戻した。 1883年7月20日岩倉薨去。 天皇は、岩倉に太政大臣を追贈し、三日間の喪服と日本初の国葬を命じた。

p154 具定は6月26日ナポリ出航。 8月4日帰着。 「よく帰った!」の父の声は聞こえてくるはずがない。 宮中を熟知する父と、権力平和譲渡の将軍慶喜が居なければ、あの維新はなかった。 
p155 岩倉の墓地は品川海晏寺(十三世紀開山、曹洞宗)にある。

p169 具定は1851年、京の岩倉邸で生まれた(三男)。 養子の長男具綱(1841-1923)が10才の時。 具綱は岩倉の長女増子と結婚して岩倉家12代を継ぐ。
東山道陳撫隊の先頭、離隊後3年間アメリカ留学、23才で秘書兼通訳で父をささえる。

p171 森は17才で薩摩を発ち、英国とロシアを経てアメリカへ、維新のことを聞いて帰国、岩倉邸にあらわれた。 p173 岩倉の末娘恒子は森有礼と結婚して、森寛子

p175 具定は侍従職幹事、機密顧問官、貴族院議員、学習院院長、岩倉鉄道学校校長を歴任し、宮内大臣として他界。 具視は本殿様、具定は若殿様、具綱は新殿様

p184 静岡は御用茶の産地、海舟は咸臨丸で渡米の際、日本茶の評判を聞いていた。
生き残り彰義隊84人や大井川で失業した川越人足も加わり、苦難のすえ収穫に。

p185 ”国策としての音楽” 1886年、鍋島直大は、鍋島家と岩倉家の寄付で音楽鑑賞団体「大日本音楽会」を作った。会員は岩倉具綱、具定、大山巌、戸田氏共、伊沢修二、矢田部良吉、村岡師為馳、中村祐庸、ルルー、エッケルト、ソーヴレー他だった。 一月にフルトヴェングラーが生まれ、7月にバイロイトでリストが逝った年だ。

1894年、海軍や陸軍の音楽隊にヨハン・シュトラウスやワグナーなどの演奏もさせていた「大日本音楽会」は解散した。

1886年秋に海軍音楽隊出身の人たちが創設した民間吹奏楽団体「市中音楽隊」が渋沢栄一を社長とする株式会社になって移動演奏会を行い、西洋音楽を広めた。 ここから、広告に使われるジンタ、さらに音楽の質にこだわらないチンドン屋も派生し、民謡歌謡が西洋音階で独特な大衆音楽「文化」になってゆく。
p186 もう一つの、淀みない教会音楽の流れも無視できない。 築地大学校に流れていた讃美歌も、この後の作曲に影響を与えたし、ロシア正教も1872年に聖歌隊育成と音楽教育をめざす「詠歌学校」を作り、三年後には女子信徒に音楽教育を始めた(『明治期日本におけるロシア音楽受容』大嶋かず路 上智大学)。

p193 クララは海舟の息子と結婚して六児の母になり、津田仙が語る義父の海舟が信者になるのを楽しみにしていたが、1899年に逝かれ、翌年、子供を連れて日本を去った。

p200 1887年(明治20) 戸田氏共はオーストリア=ハンガリーとスイス特命全権公使。4人の子供と共に同行した極子には、岩倉実家で習った英語に外交のフランス語、日常のドイツ語が加わった。 来賓のもてなしは国からの支給では無理だったので、実家から貰った骨董品を売った。 2年後に義弟森有礼が刺殺されたが、何もできず、帰国後、三女幸子の夫で松江藩主四男松平直平に、森家の財政を組み直させて、母子が生きていけるようにした。

p202 戸田伯爵夫妻が駐墺中に、憲法調査団が学んだシュタインに会う最後の日本人になる金子堅太郎(1853-1942)が、ウィーンへ来た。 かつて岩倉使節団と渡米して、ハーバードで法学を修め、伊藤博文、伊東巳代治、井上毅と憲法作成に参画、後に伊藤内閣の法相になる彼は、憲法の英訳を紹介して批評を聞き、議会制度を調査する旅をしていた。 「度々日本飯、伯爵ご夫妻に感謝している」 
p203 福岡出身の金子は川上音二郎(1864-1911)と同郷。
p204 川上より前にウィーン公邸の夜会で、琴を弾いた戸田極子は山田流名取。
ブラームスが演奏を聴いたとおもわれるメモ。 フランツ・ヨーゼフに「桜」を演奏した渡辺貞子。 イタリアで大山久子。

p205 極子は細かい事にも気が付く大型の人で、戸田家、岩倉家、森家を支えた。
1936年(昭和11)3月に79才で三週間前に逝った夫の後を追った。

p210 西郷従道と妻清子の長女桜子は1886年(明治19)壱月に生まれたが、従道にはすでに新橋の芸者桃太郎が生んだ娘がいた。 政子、従親、豊二、栄子、不二子と計5人、清子は、従理、従徳、豊彦、(上村)従義、(小松)従志、長女桜子の6人、妾妻が交互に出産する「にぎやかさ」は、現代人の想像を越える。

p212 長男 従理の死は過酷だった。 1874年(明治7)にうまれた賢い子で、4才頃から英国公使パークスの娘とよく遊び、子供なりに英語とフランス語を覚えた。 明治9年に日本最初の東京女子師範学校幼稚園(現御茶ノ水大学幼稚園)ができて、三条家、岩倉家、徳川家の子は馬車や人力車で、まもなく従理も「ロバで」通ったという。
幼稚園の園長の関信三(1843-80)は、三河西尾市の安林寺の息子で、政府の命で、「耶蘇教」を探るために受洗、教会に潜入し、スパイ活動で言葉を学び、東本願寺法主の随員として渡英した。 留学してフレーベル(1782-1852)の幼児教育見聞、キリスト教解禁と共に帰国、田中不二麿や中村正直の推薦で日本初の幼稚園の園長になっている。

p213 ロシアへ行った西郷従理は、皇妃マリア・フョードロヴナや皇弟に可愛がられ、ロシア正教の洗礼を受けた。 だが、公使に同行したアメリカで1884年腸チフスに罹り、死んでしまった。 死の前日、従理を見舞った大山巌が、帰国して最後の様子を語ると、従道夫妻はただ泣き続けたという。 ニコライ主教が葬儀を行うロシア正教会で、60人の聖歌隊が讃美歌を歌った。

p214 桜子は小学校も飛び級するほど賢く、琴は東京音楽学校教授の今井慶松に習い、88才まで女官に茶道(表千家)を教えていたのは父親譲り。 父の従道は海江田信義の推薦で島津斉彬の茶坊主(竜庵)として成長している。 巨体が音も立てずに座敷を歩いたという。
p219 17歳の桜子と岩倉具張(24歳)の挙式は明治35年6月17日だった。
p220 西郷従道は1902年(明治35)7月18日、59才で逝った。
p221 明治37年2月桜子が長男具栄を生み、
p226 やがて、具張は麹町桃吉御殿に入りびたり、桜子は霞が関の家を出て目黒に小さい家。 桜子は、長兄従徳、義姉東伏見宮妃殿下、大叔母戸田極子、森寛子に支えられ、七人の子供を育てた。

p222 勝家は貧しく、1853年5月、公募に応募した「海防」が、大久保一翁の目にとまり、7年後、咸臨丸で渡米。

p223 日清戦争の日本海海戦に上村艦隊の旗鑑「出雲」艦上で参戦した西郷家4男従義(1881-1937)は、上村彦之丞の養子となり、山本権兵衛の4女なみと結婚した。

p230 金融大恐慌で第十五銀行が倒産。

p271 1931年 ユンケル先生と乃ぶの娘ヴェラと結婚した具方に、1932年1月15日、具一誕生、翌年 具二誕生。
p274 1933年3月29日靖子が連行されて(赤化華族15人の一人)、
     12月11日釈放、21日右の頸動脈を鋭い刃物で切り、20才の命を絶った。

p289 1935年大晦日も迫る頃、具方が5年の留学を終えて、華族4人で帰国した。
     1937年3月、ハーバード具三が生まれた。  

p307~ 日本はロンドン軍縮会議から脱退、満州国建国が侵略とみなされた1933年、国際連盟からも脱退した。 1936年(昭和11)具方帰国後2か月目の2・26事件で、首相斎藤実と蔵相高梁是清が殺された。 
具方は報知新聞社の海軍従軍画家募集をみて動揺した。 海軍を避け、画家を志したが、先が見えない。 暫く自分を見つめるために、妻子と離れるのは、従軍画家だけかもしれない。 父(具張)の様に勝手に消えるのではない。 
p308 上海から最初の便り。 2通目、早く沢山えをかいて、、パパを守ってくださるようお祈りしてください。 10月8日、戦争の実際は恐ろしいものだ。 大叔父具経の4男で鮫島家に養子にいった具重(終戦時海軍中将)の評判を聞いた、長男は渋沢栄一の三男正雄の二女純子と結婚。
急な話だが・・・10月10日の具方の手紙は、母への最後の便りである。 一度帰って出直すか、迷っています。お兄様(具栄)、実(具実)、熙チャンも満足してくれる絵をかきたい。 風をひいたので薬を飲んで休みます。 さよなら。 母上様。 この4日後、10月14日,戦死。 右手は死してなお血潮と共に書筆を離さなかった。

p327 一人の人間にできることには限度がある。 しかし、出来ることだけはしよう。 フルトヴェングラーのそんな姿勢を、私は今、同胞に伝えられればいいと思っている。
p330 演奏に戻ったフルトヴェングラーは、密な日程の合間に野山を歩き回り「風邪」をひき、「新薬」(抗生物質)の過剰投与で聴覚障害を起こし、肺炎を繰り返し、1954年11月30日にバーデンバーデンの病院で逝った。

p334 1963年に古河不二子が、翌年(松平)初子が、1978年に具実、具栄が逝き、明治、大正、昭和を生きた桜子さんは、99才で1985年(昭和60)年に亡くなった。 
p335 海晏寺の岩倉具視は、西郷家からの嫁を優しく迎えたに違いない。 岩倉具視は西洋音楽を余り聴かなかったが、優しい人だったので、具定、具栄、具実、具方、雅子、靖子、熙子等の音楽好きな魂に囲まれて耳を傾けるだろう。 岩倉使節団の使命は、日本を世界の仲間に入れることだった。 岩倉は、「両方の国の川の水が太平洋で混ざれば分けることは出来ない」とアメリカで挨拶したという。

p336 岩倉具視が振り向いて、よく考えて、この道を探しなさいと言う。
「幕末、明治、大正、昭和」の楽譜はどこにあるか、テンポを間違えないように。
具一さんが、べートーヴェンの第七をかけてくれた。 フルトヴェングラーだ。

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