国境をなくすために

戦争をしない地球の平和を求めるには、国境をなくすことが必要と考えました。コミュニティガーデン方式を提案します。

『捨ててこそ空也』梓澤要著 新潮社、2013

2020-08-26 03:30:17 | Weblog
C 国境をなくすために → 歴史
(冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
   (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)

菅原道真が憤死した年に醍醐天皇に二人の皇子が誕生し、一人は2歳で皇太子となるも早世、もう一人が(この本の主人公)親王にも認められず母の実家を15歳で飛び出し、僧として生きようにも世の中は怨霊と自然災害の連続。 富士山の爆発、京都の地震や洪水など悲惨な庶民の生活の中で野積みにされた骸の弔い、井戸掘りなどを指導しながら、“民衆は念仏によって苦しみを軽減できる”を説く生涯でした。
 昨年、京都六道の辻で空也の像を偶然見ることができたのですが(ブログ2019年8月14日)、当時の時代背景や、そういう人生の人だったことがよくわかりました。

        宇多法皇
          |
   母 -  醍醐天皇  - 藤原穏子 (  兄 時平 39歳で死
     |         |         弟 忠平 右大臣
    五宮        保明           │
    2歳        2歳、皇太子    ―――――― 
    後の空也                兄 実頼   弟 師輔
                        幼馴染
私流メモ:
p13 菅原道真の政敵だった時平が道真を九州大宰府へ追放して政界に君臨し、ごり押しして2歳の甥を立太子させた。
五宮は、おなじ皇子なのに、親王宣下すらしてもらえず、母が激昂、皇子の左肘を骨折させ、実家に引取られた。
p15 五宮に唯一、情けをかけてくれるのが祖父の宇多法皇。菅原道真を重用して善政をしいたが、息子の醍醐へ譲位した2年後に仁和寺で出家。 退位後にもうけた子女も多く、皇子らとともに養育してやろうとの思し召し。 遊び相手の実頼は3歳年長。
p17 五宮が7歳のとき、菅原道真を追放した時平が39歳で急死。
p20 空理の法名をもつ宇多法皇のもとで五宮は仏法を学ぶ。
p26 比叡山の念仏は、入唐留学僧の円仁が中国五台山の五会念仏と呼ばれている。 円仁は延暦寺を創建して日本に天台宗を開いた最澄の弟子で、第三代天台座主になり、慈覚大師の諡号を賜った。
p28 老僧相応は、円仁の直弟子で、見たいか?と。 五宮は比叡山へ昇り、毎年の8月11日から17日の夜まで7日7夜、丸7日間不眠不休の不断念仏行、堂僧14人が阿弥陀仏の周りを巡りながら「なぁーもぉー あーびーたーふー」その声は力強く、激しく迸(ほとばし)り出すかと思えば、腹の底から絞り出すかのように重く、次の瞬間には喉をきつく締めつけて唸りを発する。 音声念仏ですと、相応が教えてくれた。
p29 「常に仏の周囲を巡ることで身の罪がことごとく失せ、経を常に唱えることで口の咎がことごとく消える。 そうやってひたすら一心不乱に行ずる。 これが不断念仏行の目的なのです。 身体と口と心、この身口意の三つの罪業、人がこの世で犯す罪業をことごとく滅し尽くさねば、阿弥陀浄土へは行けぬということです。」結局、三日間、苦痛と眠気と闘いながらひたすら見つづけた。 四日目の日中の行の後、立ち上がろうとして意識を失い、強制的に山を降ろされた。
p31 法皇は厳しい音声でこたえた。「そなた、叡山で何を見てきたのだ。 行は行者がやればよい。 厳しい行をし、その結果、験力を身につけて加持祈祷をおこなう。 誰のためにか。決まっておるわ。 われらのためぞ。 天皇家と貴族のためぞ。 それがひいてはこの国のためになるからだ。 病魔退散、怨霊調伏、国家安寧、災厄消除、そもそも仏法とはそれが目的だ。 坊主はそのために存在する。国が僧尼令で定め、税を免じ、身分を保障しているのだ。」その言葉に反発し、その後何度も比叡山へ昇った。どう生きれば?
p35 乳母の秦命婦は、母親からひと月ばかり離れた方がよいと考えて、嵯峨野で息子の道盛(5歳年長)に一緒に、のんびりと生気を取り戻すようにと。15歳。
p35 道盛と道に迷って化野へきて、2年前に嗅いだ骸を焼く臭い、猪熊と黄界坊さまに会う。「手伝わせて」手厳しい拒絶。
p40 その夜、道盛の妹‘阿古’を犯す、世間から忘れられたまま、ここで暮らそう。p43 嵯峨野に閉じこもってふた月後、実頼が訪ねてきた。
p44 「実は、相次ぐ不幸と天災は菅公の怨霊のしわざ、世間はそう噂していますが、わが父忠平がたくらんで故意に流したものでした。伯父の時平が切れ者で、風下に甘んじて、焦りと嫉妬で、時平の片腕だった右大臣源光の非業の死のあと右大臣に昇り、廟堂を率いている。 いまや藤原一門の氏長者の存在、私は父が許せない」
つい最近、実頼は時平の末娘を正室にむかえている。「お母様があなたを法皇さまの猶子にしていただきたいと頼み込んだそうです」
p48 翌年16歳の夏、母は哀訴がにべもなく断られて、井戸に身を投げ死んだ。
父、帝のことは顔も覚えていない。 この世に自分を繋ぎとめる者はない。 ただ、猪熊たちと行動をともにしたい。 道盛だけが2頭の馬を引いてついてきた。
p50 道盛が自分の思い人である草笛の家に案内した。次の日、猪熊の居場所を見つけてきた。 草笛がかいがいしく世話をして、4日後、出立、馬は無用ぞ。淀川ぞいを難波津へ下る途中、農家で男と衣をとりかえて、鎌をかり童子髪を首のところで切り落とし、「道盛、ついてくるなら、おまえもそのなりを替えよ」「むろんのこと」「私は宮でなく孤児の常葉丸だ」
p60 猪熊の隣に雑魚寝の場所を空けてくれた。30人近い男たちが盛大に鼾をかいて眠りこける中、常葉丸はぐっすり眠った。 紀州へ移り、今度は橋の架け替え工事。
集団は行動範囲が広く、5畿7道、山城、大和、河内、和泉、摂津の5国、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の7道
p61 諸国の百姓の課役を逃れ、租調を逃るる者、みだりに法服を着る。この喜界坊率いる連中のなかにも後ろ暗い過去がある者もないわけではない。 それでも彼らは水路の開削や井戸掘りを行いながら、吉野、大峰、大和葛城などの山林修行の行場を歴巡している。出身地もばらばら、架橋や土木の技術があって、河内や滋賀の渡来系氏族出身が多い。
仏教にしても、朝廷が正式に百済国から請来するはるか以前、彼らによって持ち込まれた。
智識寺と呼ばれる寺院を営んで技術を継承し、仏教文化圏を形成した。 そこから遣唐使船で唐に留学し、、行基も河内の渡来系氏族の出。
p68 道盛に時々命婦から手紙、妹は身籠って女の子を産み、皇子さまは必ずお帰りになると大事に育てていたが、流行り病で子もろともあっけなく世を去ったそうです。
子は4歳だったという。 「道盛、私はどうやって二人に償えばいい。教えてくれ」「南無阿弥陀仏と唱えてやることだけです」極楽浄土に往生できるように。そこで、この世に残された者が来るのを待っていられるのです。 いずれ、また会えますよ。
p69 道盛が崖から転落して死んだのは、常葉が19歳のとき。 木の枝に引っかかっていた巾着袋の中は火打石と木杖が形見。猪熊がひとりじゃねえぞと背中を押した。
p70 翌々年、同い年の保明親王が死んだと風の噂。 醍醐天皇は翌年、菅原道真を右大臣に復帰させ、正二位を追贈、彼の霊魂を慰撫しようとした。 相変わらず旱魃や疫病。
p71 常葉は21歳、病いに倒れた。
p72 出奔から5年、筋肉はつき、裸足で足の裏も硬く分厚くなって、でも限界。
p73 一人都へ戻ると実家は荒れ放題、母が身を投げた井戸は草茫々。命婦に会いたい
p74 命婦は赤子の産着を見せてくれ、春になるまでここで体を癒すよう。
p76 今一度、仏法をしっかり学んでみようと思う。尾張で悦良に。
p80 種から芽が出て、それが成長して葉になり、茎になり、花が咲き、花が枯れて実になり、実はやがて次の世代の種になる。あらゆる存在や物事を絶対に変わることのない固有の実体ならしめる自性はないということで、そのことを空というのだ。
p89 「すべては空」と悟ることでしか、苦しみから逃れるすべはない。 そこからすべてが始まる。「そうか、空なり、空也か」 沙弥名としたい。
p90 出家の日は、夜明け前から土砂降りの雨が金堂をたたきつける朝だった。
「沙弥空也、汝、六波羅蜜を持し、日々精進すべし。 空を知り、広く衆生を度する菩薩たるべし」空也は思った。 自分が生まれたのは、菅原道真の憤死が都に伝わった直後で、やはりこんな雷鳴と稲光が荒れ狂う朝だったと聞かされている。
p93 播磨国揖保群の峰合寺で修行と研学
p103 4年目の9月、28歳、醍醐上皇46歳で崩御の急報、
p106 駆けつけて、実頼に乞われ法要で焼香
p115 宇多法皇にあう、もう二度とここへは来ない
p119 峰合寺へ帰る、―おのれを捨てきる。
p122 翌年7月、宇多法皇崩御。 紺紙に金泥で記された法華経八巻が形見として送られてきた。気力をふり絞って書写している姿が目に浮かぶ。 77忌の日、峰合寺の観世穏菩薩像に奉納し、その前でひたすら読経した。
p123 「ここへは戻ってこぬが、おまえ、ついてくるか」頑魯は無言のままうなずいた。 淡路島南方、湯島の十一面観音に行く。
p127 舟さえあれば自分が漕ぐと頑魯。 急峻な杣道を、熊笹を掻き分けて、よじ登る。観音堂は楠がそそり立ち、大きな洞に十一面観音の像が安置。その夜は崖に打ち付ける波音が三方から迫って来る。翌日から如意輪陀羅尼経の六度行を開始。
p131 明日から五穀を絶って、7日間、不眠不休の行をする。食べ物はいらぬ。 水だけでいい。 翌朝、汲みたての若水で身を清めて開始した行は、合掌した右腕に抹香を載せて火を付け、焚きながら如意輪小呪を唱える。わが身を焼いて供養する焼身行。
満願の夜、だめか・・・、瞑った両目の瞼裏が明るみ始め、まばゆい光、結跏趺座して瞑想する仏の姿。阿弥陀如来・・「ああ、ああ・・」床にひれ伏し、額ずいて号泣した。
頑魯が火傷に薬、それから一か月余、体力の回復を待ちながら、霊験で見た阿弥陀仏と十一面観音の像を刻んだ。目を瞑れば見ることができる。
p139 尾張の国分寺に尋ねた悦良はいなかった。陸奥へいったとのこと。
p148 十一面観音立像を安置した厨子を背負い、曲がった左肘に金鼓を掛けて、右手に錫杖と打ち棒、頑魯は経典類を詰めた笈を背負い、法螺を吹きながらあるいた。天竜川、冨士山、大井川、駿府、白河の関を越え磐梯山、通りがかった年寄りが「わしの曾祖父が子供のころ真っ赤に燃えて降ってきたげな」130年ほど前(806)大爆発をして山頂が吹き飛び、大きく抉れて4峰になった。
p151 かすかに侮蔑を滲ませながらも、人のよさそうな住持は、しばらく逗留する気ならば、悦良のいた小堂の房舎に住んではどうかと勧めてくれた。 
p152 ここなら布教にかっこうだ。 初めて開く念仏道場だ。井戸を掘ろう、地下水は豊富にある、田畑に引いて作物を救える。 あきらめるのは早い。
p154 歩いてみてわかった。 どの村にも集落から離れた山際に遺骸を野捨てにする場所がある。飢饉や疫病で死んだ遺骸は穢れをおそれて、弔いもせず破棄している。
p155 「おまえは井戸の指図のほうをたのむ」頑魯は涙で汚れた顔を拭こうともせず、遺骸を抱いて運ぶのをやめようとしなかった。
p157 井戸掘り以外の弔いをして、雪がゆるんで小鳥がなく。「ミソサザイだよ。 味噌みたいな色で、ちっこくてありふれたやつさ」「そうか、目立たずとも春を教える役目があるのだな。 わしもそれでよいのだ。」
猟師が半ば雪に埋もれた凍死体をみつけた。悦良は餓死と見紛うほど痩せた姿で座禅の死
p158 筑波山の西8kmに広大な湖沼があり、鳥羽の淡海、葦の群生に縁どられてかくされていた、その東岸に百年ほど前、天台宗延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が創建した東睿山承和寺があると聞いてやって来た。円仁は天台宗の顕教と密教を融合させ、台密教学を確立した人物であり、阿弥陀信仰を唐から請来した人物で、空也が少年のころ不断念仏行を見せてくれた相応和尚が高弟だった。
下野国壬生郷の土豪の子に生まれた円仁は、9歳で地元の大慈寺に入って出家、15歳で比叡山に昇って最澄の弟子、最澄の東国布教の際、同行、36歳の時にも再び下向、中でも常陸、下総、下野にまたがる筑波山一帯を東国における護国鎮護の拠点とすべく大伽藍を造立したのが、東睿山承和寺。 焼け落ちていた。 突然、騎馬の一団、馬に乗った女に馬上に引き上げられた。
p162 女(ききょう)の馬にのせられ平将門の屋敷へ。
p164 将門が気に入り、話相手に。
p174 菅原道真公の長男は大宰府に送られたが、下の3人は連座を免れ、母の親族のもと不遇、14年まえ、晴れて叙任を許されて常陸之介、ご兄弟は父の遺骨を葬り菅原神社とした、少年だった将門は兄弟と知り合い、憤死された年にわしが生まれた、わしは菅公の生まれ変わりだ、精神誠意尽くしたあげく、無慈悲に切り捨てられた。怨霊となるのは当然ではないか。 空也は悟った、この男は伯父たちに裏切られて道真に仮託している
p175 「菅公の怨霊はわしがお守りせねば、わが家族とこの地を未来永劫守って下さる」空也自身が道真の怨念を背負って同年に生まれ、悩んだことをしらないはずなのに、なぜ愚僧にそんな話を?、「別に理由はない」 傲岸さは微塵もない人懐っこい笑顔。
p184 11月末、空也と頑魯は甲斐へ入った、下総を出て赤城へ向かい、数日来ひっきりなしの地震、富士山爆発。地鳴りは絶えまなく続き、振動が突き上げる、灰は何日も降り注いだ。師走も半ばになって7年ぶりの京都。
p192 938年4月15日、阿弥陀仏の縁日の夜、空也は愛宕山中の月輪寺の道場で阿弥陀経を誦していた。 満月の光は皓々と輝いて、霊気によって心身を浄化し、呪力を蓄える、行者や密教僧が集まる行場、ふいに月がゆらりと揺れた。地鳴りとともに床から衝撃が突き上げた。半年前、富士山の噴火に遭遇したとき、空がやはりこんな異様、絶え間なく揺れ、その度に唸りのような地鳴り。山崩れ、崖崩れで三日後に下山。京内は悲惨。
「南無阿弥陀仏」とつぶやく、人々にとって念仏は死を招き寄せる、おぞましい呪文、―そうではない、念仏を唱えるのは死者を阿弥陀仏のもとへ送り出してやるためなのだ。
p198 頑魯、草笛、老僕は無事、老婢は梁の下敷きで死。「惨い死に方でも往生できるだか?」「むろんだとも。阿弥陀様は誰でもかならず迎えてくださる」
p199 翌朝から頑魯をつれて周辺の井戸の状況を見て回った。喜界坊や猪熊はどこにいるのか、別れてから15年の月日。すでに36歳、京中の井戸を治す、心あるものは手伝ってほしい。最初に女性、やがて男たちも井戸なおし。
p208 実頼が訪ねてきた。 「東国の将門の従兄弟の申し立てで将門が朝敵になっている。身内争いが都に累が及ばぬかぎり、しったことではないが、この地震がおさまらねば困る」 西では藤原純友が頭角をあらわしている。
p209 凄まじい豪雨で鴨川と桂川が氾濫、地震は断続的。
p220 地震と洪水いらい、孤児がふえた。 奥州には金鉱があり、砂金がとれる。奥州馬を運んできた商人たちが、孤児を連れていって奴隷に売り飛ばす。
p221 世に仏法者たちが学問や朝廷のために加持祈祷に安住しているだけ、律令時代のまま僧位をもらい、民の上に傲然と居座っている。 いまや学問すらろくに修めず特権を貪るだけ、(悦良の言葉が思い出される)民衆はすがりつく対象を求めているのだが、、空也は厳しい修行をして京へ戻ったが、想像以上に人々の心は荒れはてている。
p222 「この御坊は小声で念仏を唱えるだけで、悪さはいたしません。布施された食べ物を貧者にあたえております」麻布を商う店の男が駆け寄ってきて、衛士の一人にそっと小銭を握らせた。 東市で乞食をするようになってほぼ一年、「妙な聖だ。あんなに薄汚
れてみすぼらしいのに、高貴なお方のように見える」
p242 下野の藤原秀郷が将門の陣に参じたものの、一転平貞盛と組み、「朝敵となった将門は流れ矢に顔を撃ち抜かれ即死」将門の首が東市に梟された。
p259 猪熊があらわれて、「布施させていただきましょう」練絹50反、女物襲十領だ。
p270 奈良興福寺へ。 奈良時代の学僧玄昉は唐に渡り、三蔵法師の孫弟子に学び、20年に及ぶ研学の成果は玄宗皇帝から紫衣を与えられたほどで、帰国時には5千余巻に及ぶ最新の経論と仏像・仏具の数々を持ち帰った。玄昉は聖武帝一家に信任され僧正の位に昇り、全国国分寺制度も彼の進言、寵愛されすぎて失脚、道真と似た末路。
p311 比叡山から得度、受戒をすすめられ、「夏安居は規定通り勤めますが、その後の12年籠山行はご容赦いただきたい」空也は比叡山をおり、死ぬまで登ることなし。
p359 村上帝は若いながら、忠平亡きあと新政にのりだし、財政逼迫を憂えて節約令を発し、国庫を安定させた。 親子ほども年が離れた異母兄弟、自分はとうに別世界であり、、「愚僧は余慶と申す三井寺の者、あなたは尊いご出自、醍醐帝の皇子さま、その腕はどうされました?」「この不具は、わが母が感情を高ぶらせ、わたしの片足をつかんで縁から下の地面に叩きつけたため、不便といえば疼痛、骨が軋むような感覚、すでに齢61、老いのせいと思えばどうということもありません」「やはり骨が折れて脱臼したまま固まっております。加持祈祷と申しましたが、いやなに、外れた関節を入れ直し、固まった筋を伸ばしてほぐしてやる、血の滞りが改善され、むくみ、冷え、痺れ(しびれ」、疼痛などの不調は自然になおります」余慶の掌の温かみが心の奥底まで染み入ってくる。母だ。きづくと肘は真っ直ぐに伸びていた。「今気づいたのです。わたしの心の底に、50余年もの間、自分ではそうと知らず、母に対する恨みつらみがわだかまっていた。 ねじくれて凝り固まっていたのは肘ではない、わが心だったようだ」
p364 三人は草笛の家で頑魯が養育した孤児、古縄の聖、瓜皮の聖、反古の聖、
「反古よ、ここへ。この者は、教えられぬのに自分で字を覚え、校正ができるまでになりました。貴僧のような高徳のお方のもとで学べば、いずれひとかどの者になるでしょう」「あなたの人を治す癒す力にすっかり心酔したようですので、本人もよろこんで行くと存じます」「わが父は工夫でしたが、足に負った大怪我がもとで死にました。母や兄弟たちは痘瘡に一人残らずもってゆかれました。 皆、治療や薬餌は一切受けられず、苦しみ抜いて死にました」「密教は呪術めいた加持祈祷だけではないぞ。 今見たように身体を調える術や薬の調合もある。心を癒すのもその一つじゃ」余慶は、その場で彼を義観と名づけ、三井寺へ連れ帰った。
p366 供養会、千人集まってきても、白い飯を腹いっぱい食わせてやれる。 一世一代の大盤振る舞いだぞ、頑魯が手を打って言いたて、皆、どっと笑った。
p381 毎日眠る前だけでいい。 強欲になっておらぬか。 身勝手ではないか。 ずるく立ち回っていないか。悪行をおかさなんだか。おのれを振り返ってみなされ。 ちくりとでも心が痛んだら、菩薩に近づいている証し。 空也の口ぶりはいつもの説法と少しも変わらなかった。
p386 大般若経供養会の後、空也は東山の道場で静かに晩年の日々を送っている。6百巻は櫃に収めて清水寺の塔院に寄贈した。 自分が権威になってはならない、道場はいつしか西光寺と呼ばれるようになった。 寺と呼ばれても、天台宗の寺でも清水寺の末寺でもない。 十一面観音のおわす本堂、聖たちがすまう長屋の房、孤児たちが暮らす建物、施食を調理する大きな厨、衆徒たちが集う講堂。どれも質素な板葺き屋根の建物だ。あとは広々とした草の原のまま。集まって来る人々に念仏行を指導するかたわら、文机に向って書きものをする。
p388 天禄元年5月、実頼が死んだ。 贈正一位摂政関白太政大臣。 一上、藤原氏の氏長者。 村上、冷泉、円融と三代の帝に仕え、位人臣を極めたものの、冷泉亭の狂気が安和の変を引き起すと幼年の円融帝を立てて奔走し、心身とも疲弊し尽して71歳の生涯を閉じた。 大洪水のとき、実頼が私財を投じて復旧に尽力したことを民たちは忘れていなかった。 門前に集まって人々は挙哀した。
法性寺で行われた葬儀の末席に連なった空也は、幼馴染の親友に幼名で呼びかけた。「のう牛養、以って瞑すべきではないか。 悪い一生ではなかったぞ。」
p394 天禄3年(972)9月11日 70歳。
「なむあみだぶつ」 か細い声が息とともに漏れ、それが次第に間遠になっていく。
--息精(いき)は即ち念珠。

『茶聖』伊東 潤著 幻冬舎、2020

2020-08-04 12:36:43 | Weblog
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『茶聖』伊東 潤著 幻冬舎、2020

織田信長は名物茶道具を部下への褒美とする案とともに、堺の武器を調達するために堺の茶人と通じた。 続く豊臣秀吉も同様の手法を受け継ぎながら、千宗易の‘天下統一を人々が茶の湯に親しむことにより戦のない世界を作り出す提案’に同調、九州、東北と次々平定してゆく武将たちの様子が詳しい本でした。
茶道の側からというより、堺の商人千宗易から利休に名前がかわってゆきながら、戦場での傀儡子(黒装束に身を固め、背後から人形を操る)の役割を引き受けて、荒ぶる武士の心をひきつけた茶の湯の流行と浸透への努力の様子がわかりました。

私流メモ:
p34 永禄13年(1569)2月、堺は信長に矢銭を払う代わりに、その庇護下に入ることを了承した。千宗易は信長の名物買い付けを手伝った。
p38 「茶の湯によって天下を統べようと思う。茶事の開催、つまり茶の湯張行を認可制にし、功を挙げた者には、褒美として名物茶道具を下賜するのだ」「茶の湯を流行らせ、道具の値打ちを高めれば、皆はこぞってそれをほしがる」
p42 今井宗久には交易の振興を、津田宗及には玉薬の原料となる焔硝の入手をになってもらう。 
p43 信長の目指すもの、すなわち「戦乱なき世」は、堺の目指すものと一致する、つまり操られているように見せかけて操ればよいわけだ。
p44 天正2年(1574)相国寺での茶会後に、宗易は信長から蘭奢待という天下無二の香木の一部をもらった。 信長の目指す「御茶湯御政道」は宗易の手助けを得て、うまく回り始めていた。茶の湯への熱狂は日増しに高まっていた。 そこに起こったのが本能寺の変だった。(天正10年―1582)
p45 天正10年、宗易は上京の「あめや」という窯元を訪ねた。先代が「阿米夜」という渡来人だったことに始まる、帰化して宗慶、子は長次郎と名乗り、瓦造りの窯元として洛中で名を馳せていた。 信長の死など下々には関係なく、楽市楽座、撰銭令、金銀貨の鋳造と普及、桝(単位)の統一、道路整備網といった景気刺激策が功を奏し始めていた。
p46 「つまり、村田珠光さまが考案した『冷凍寂枯』の思想を踏襲した茶碗を作れと仰せか」、珠光とは室町時代中期に活躍した茶人のことで、「茶禅一味」の思想を確立し、侘茶に行き着いた。寂は侘を構成する一要素。「ろくろを使わず、手捏ねで作ってもらいたい」「これまでのように、唐物の天目や高麗の井戸茶碗ではなく、和物の今焼き茶碗で、茶事を行うという仰せなのですね」「名物を見せ合い由来などを語り合う茶事ではなく、主人の作意によって競い合う茶事にしたい」大名物は本能寺で灰になり、残る名物を見立てて値打ちを高めていっても限りがある。
p48 「一つひとつが唯一無二となる茶碗によって、茶事に携わる者たちの数寄心を呼び覚まし、茶の湯を未来永劫に定着させたい。」
p48 天正11年(1583)閏正月5日、山崎宝寺城の山麓にある妙喜庵(二畳敷)に秀吉、「わが師、武野紹鴎は『茶の湯は一視同仁』と仰せでした。 相手がだれであっても平等に見て等しく仁を施す。
p55 「二畳の茶室はせまいな」「名物なければ作るまで、今焼き茶碗を、高い値で取引できるようにいたします。羽柴様が天下をとり、私の権威を高めていただければできます」
p55 天正11年(1583)清須会議の国分け、柴田勝家瓦解。
p57 宗易は23歳の時に最初の妻を娶った。稲という名の心優しい女で、一男三女をもうけた。だが、天正5年(1577)流行病で他界。 その後、りきを後妻に迎えた。 連れ子少庵を養子にした上、稲とは別に囲っていた側室に産ませた亀と娶あわせ、千家(田中家)の跡継ぎとした。 省庵と亀の間には、すでに息子(後の宗旦)がいる。
p59 縁に座って茶杓を削っていると、長男紹安(後の道安)38歳、妻も娶らず放浪の旅を続けている。p61気性が激しく、口論、3年ほど堺に帰っていなかった。
p61 一度目は伊勢から紀州へ。二度目は西国街道を通って赤間関、九州から四国へ。
北陸衆は柴田殿の下、結束力では比類ないものがありました。 北陸から越後に抜け、上野から武蔵へとまわってきました。越後上杉家の兵は精強で、謙信には財力もあります。ただし、玉薬の欠乏、羽柴殿の敵ではありますまい。 小田原には板部岡江雪斎殿がおります。北条家の重臣で、「宏才弁舌人に優れ、仁義、文武に達せし人」と傑物、茶の湯への傾倒は著しく、北条氏と織田氏が同盟関係の頃は、上洛したついでに堺に顔を出し、宗久、宗及、宗易らと親密に交わり、その茶風を東国にもたらす役割を果たした。
p66 紹安は帰り支度、羽柴様の権勢と父上の権威の及ばぬ地、白河の関を越え、奥羽の果てにでも行って、心ゆくまで自らの茶を楽しみます。
省庵と紹安は同い年、省庵は成人してからの茶の湯、振る舞い、目利きまで宗易の後継者になることは容易ではない。
p67 秀吉の御座船に風呂や茶道具を持ち込んだ宗易は、琵琶湖上での茶事を開くという趣向を考えた。琵琶湖の風が秀吉の鬢を撫でてゆく、「わしもすでに47歳だ、頼りになる息子もおらん。 茶の湯だけが武士たちの心を鎮め、謀反を抑えられるような気がする」「大坂、本願寺の跡地に城を造り、これからは商いがすべてを支配する、大坂の地には国中の富が集まって来る、そこを押さえる者が天下を制するのだ」「諸大名やその使者を招く。その時、城の搦手に造られた茶室で客人を接待する。つまりわが権勢の大きさを見せつけると同時に、茶事によって心を支配するのだ」
p87 天正12年(1584)正月3日、大坂城内に山里曲輪と茶室が完成し、祝賀に訪れた諸大名には二畳茶室を見せた後、御広間で秀長を主座に据えた茶事を行う。
p95 天正12年(1584)4月、犬山城の本曲輪の庭園で大寄せ、楽師たちの管弦と風に舞う篝火によって幽玄な空間が演出される中、宗易は茶を点てた。 
突然三成があらわれ、秀吉に耳打ち、・・小牧山での長期戦を覚悟し・・
p101 「そろそろ恫喝に行ってくれぬか」秀吉にたのまれた宗易は10月はじめ、清須城へ。p104 庭に案内された宗易は、四畳半茶室に通されると茶事が始まった。「この茶室は有楽殿の縄(設計)では」織田信雄がかるくうなずく。
p106 信雄がなれた手つきで濃茶を練った。
p109 『あなた様は総見院さまの息子です。天下を取って当然なのです』とわしを煽ったのだ。もうたくさんだ。肩の荷を下ろせた者の喜びのすすり泣き
p111 11月11日、秀吉は信雄と会見し、単独講和を結んだ。 一方、梯子をはずされた形の家康は12月12日、次男の義伊丸(後の結城秀康)を秀吉の養子にする前提で大坂に送り、和睦の道を探り始めた。
p116 天正13年(1585)2月、秀吉は大坂城山里曲輪に織田信雄を招き、講和を祝う茶会、織田有楽斎が参座、宗易と宗及が次の間に控えた。4月、秀吉は紀州雑賀・根来攻めの陣触れを発した。出陣に先立つ3月8日、信長の追善供養として、大徳寺の総見院において大寄せ、これが貴賤をとわない大規模茶事の走りとなる。最新の茶の湯が侘数寄だという話が広がっていった。
p117 久しぶりに堺へ帰って夜になって茶室に向かおうとすると、「藤波の花は盛りになりにけり、平城の京を思ほすや君」と皺枯れた声、「ノ貫(へちかん)、か」
ノ貫は上京の商家の長男に生まれ、親とのおりあいが悪く、堺の商人たちの食客になっていた。武野紹鴎に弟子入りし、宗易ともしりあった。
p119 茶の作法や道具にこだわらず、自由な茶風を愛したノ貫は、手取釜一つで粥を煮て茶を喫するという豪気な茶人として名を馳せ、「一向自適(ひたすら自分の思った通りにする)」を標榜し、真の侘数寄を追求した。その生き方は「しばしの生涯を名利のために苦しむべきや(短い一生を名誉や金のために苦しんでどうする)」という言葉に貫かれた。
p122 「嘘を申せ、おぬしは己の威権を確立するつもりだろう、そして己の認めた茶道具を、目の利かない武士たちに高く売りつけるのだ」「わしは商人だ、道具を客の求める値で売るのは当然のことだ」「このままでは、おぬしは死ぬことになる」-死は覚悟の上だ。
「何事にも相通じることだが、二人で何かを作り上げようとすれば、そのうち互いの距離が接近し、相手が煩わしくなる。 そして完成に近づけば、次第にその大半を己一人で作った気になってくる。挙句の果ては、言わずもがなのことだな」
「ノ貫よ、わしももう64歳だ。この一身を、世の静謐のためになげうっても悔いはない」
p146 秀吉が軍事と外交に掛かり切りになっている間、宗易は禁中茶会の根回しに奔走していた。9月8日、朝廷から「利休」という居士号を勅賜される。「利を(追求することを)休む」、すなわち商人としての宗易と決別し、茶人としての道を歩んで行くという覚悟がこめられていた。 というのも宗易自身が考案し、朝廷が追認という形で下された。
p146 10月7日、禁裏内にある小御所菊見の間において、禁中茶会(正式には献茶式)、正親町天皇、誠仁親王、和仁親王、この日のために秀吉は道具を全て新調。
p147 公卿たちに、広間で台子の手前を披露。
p151 帝はこんなものかと落胆されたかも、殿下の侘によって、もう一度茶会を
p154 秀吉の次なる攻略目標は九州の島津氏
p155 12月半ば、山上宗二(弟子)が利休の大坂屋敷へ。秀吉の勘気に触れて追放となったが、「小一郎様の傀儡子となり、この世を静謐に導きます」小一郎(秀長、秀吉の弟)素直で穏やかな性格の秀長は茶頭にしていた宗二に感化されて秀吉に換言するようになっていく。
p160 2回目の禁中茶会を控えた天正14年(1586)1月15日、宝物蔵の西日が当たるなか黄金の座敷を利休、蒲生氏郷、細川忠興、古田織部、高山右近、山上宗二らに見せた。「これがわしの侘だ」「利休よ、わしは明日、この黄金の座敷を御所に運び、帝のために茶を点てる」p164
p165 天井、壁,鴨居、障子の腰、茶道具もすべて黄金だ。 茶杓と茶筅だけは竹製だが、茶碗は新たに焼かせて金で覆った」
p167 二回目の禁中茶会は終始にこやかな雰囲気、大成功
p170 2月下旬、聚楽第の普請作業がはじまった
p180 3月16日、イエズス会の日本副管区長のガスパール・コエリョ(57歳)が大坂城へ。「わしは唐土を平定する。その時、民の心を平定するのは耶蘇教と茶の湯だ。だが国内に耶蘇教はいらん。この国には仏教がある。そなたたちは大民国に向え」
p188 紹安が北陸道を進み、前田利家、上杉景勝、伊達政宗、佐竹義重・義宣父子、北条氏政・氏直父子といった大名の許に厄介になりつつ、帰途に徳川家康の世話になったという。 そうした方々に歓待されたということは、茶の湯に執心し始めているということだな。茶の湯がそれだけ人をひきつけるから。三河殿は秀吉の意向を探ってほしいと。
p191 4月5日、大坂城内に大友宗麟。島津義久の侵攻をやめさせたい。
p195 秀吉は宗麟を黄金の茶室に招き、まず利休が、その後に、秀吉が茶を点てたので、宗麟は大いに恐縮し、その手前のみごとなことを称賛した。秀長屋敷で夕餉の饗応
p197 4月15日、秀吉に呼び出され、紹安は家康から仲介をたのまれていたのだ。
p200~205 秀吉の妹旭が家康の正室に、5月14日、岡崎に輿入れ、婚礼の儀
p206~ 利休は岡崎城に案内をされ、三畳台目の茶室、家康の手前
p215 大政所様が旭に会いに来る、家康上洛
p222 『関白殿下には、もう具足羽織はいりません。この家康が殿下にかわってこの羽織をきて、戦場に赴きます』と家康に言ってほしいのだ(と秀吉が利休に)。
p226 家康は様々な饗応をうけ、11月1日、朝廷関係者に挨拶をして、8日に帰途、入れ替わりに大政所が岡崎を出た。 天正14年(1586)12月19日、秀吉は太政大臣に任官し、豊臣姓を賜った。
p231 博多の豪商鳥井宗室とならぶ神谷宗湛(37歳)赤楽の薄茶、濃茶には黒、薄茶には赤、銘は『早船』
p234 唐入りの構想で博多商人は武器や食料補給で暴利を貪ろうとしているに釘
p242 3月1日、きらびやかな甲冑をまとった秀吉が大坂城を出陣、途中、厳島神社に参詣した後、29日に赤間関から渡海して小倉に到着。
p244 島津義久は剃髪、本領薩摩国安堵、九州全土が戦場になることは避けられた。
6月7日、秀吉、博多に凱旋、筥崎宮の近くに茶室、
p250 6月19日、秀吉は突然バテレン追放令をだした。
p257 高山右近は大名を降り、小西行長の庇護下に入り、その後は前田利家の家臣、天下が家康にかわり禁教令によって国外追放、マニラで客死。 秀吉14日、大坂凱旋。
p260 山上宗二が高野山行き、9月はじめ、秀長(秀吉の名代)と利休も行く。
p264 宗二に、出奔して小田原、北条氏に逃げるように。
p266 9月7日、秀吉目通り、九州平定が成り、聚楽第が落成したことを祝し、おおきな祝賀の催しを行うべきかとー。公家や武士たちだけでなく、民にも茶の湯を広げてゆく手段が大茶湯なのです。それにより、下剋上など考えるものはいなくなります。
p268 「一視同人」とは「一期一会」と並ぶ茶の湯の根本思想で、誰でも平等に遇し、一切の差別をしないという意味。これにより、茶の湯を下々まで敷衍させられます。 さすれば今様の茶道具も飛ぶように売れます。
p270 天正15年(1587)10月1日、北野天満宮の境内は数寄者たちで膨れ上がった。p275 秀吉がノ貫の茶席へ -うまい。 簡素な茶亭や茶道具、それに反する美味な茶、ノ貫が何らかの境地に達したのはあきらか。~p281 ノ貫との問答
284 大茶湯は10日間続けない、今日限りでとりやめ。あとはまかせる。
肥後で大乱がおこったので、しかたがない。
p287 宗及が「ここまで共に歩んできたが、限界、堺とも縁を切ってほしい」
p295 天正16年(1588)正月の行事も一段落した6日、秀吉は上洛を果たし、13日には足利義昭とともに参内して後陽成天皇に拝謁した。室町幕府再興をあきらめた義昭は秀吉から1万石を賜った。
p296 2月下旬、利休は秀吉に御広間で織田中納言様から借りた「四都図」(イスタンブール、ローマ、セビリア、リスボン)を見せて、総見院様は『富を生み出すのは港なのだ』『明国を倒したところで長く維持できるものではない。しかし、港なら別だ』と言われました。
p301 今更ながら、明智様が総見院様を襲った理由に思いいたりました。
寧波・厦門・広州・澳門といった異国の湊を守備するのは、武勇だけでなく統治にも優れた家臣たちが必要ということになります。 明智殿は五五歳、数寄や風雅を好むこと人後に落ちず。 総見院様は国内の領国をとりあげ、異国へと駆り立てたことでしょう。 それが本能寺の変のきっかけと申すか。 外征を小規模なものにさせようとした利休(p303)
p306 4月14日、後陽成天皇の聚楽第行幸、前代未聞の華やかさ、‘秀吉が天下人’を示す、 北条氏だけは呼びかけに応じることなく沈黙。
p307 家康の京屋敷を訪ねる。古田織部作の茶室。家康は娘督姫を北条氏直に嫁がせており、豊臣勢によって関東の地を蹂躙されたくないと案じます。
p313 天正17年(1589)5月27日、秀吉に男子誕生。のちの鶴松。古渓宗陳が恩赦、利休は10歳年下の宗陳を禅の師匠として仰いできた。聚光院に多額の寄進をし盛大な茶事、祝儀の意味を込めて山門造営費を寄贈、宗陳は金毛閣に着手。
p322 紹安が東国に向ってまもなく10月10日、古田織部が利休の大坂屋敷へ。織部は利休の高弟の一人というだけでなく、利休のやろうとしていることのよき理解者。
p327 12月10日、聚楽第において家康を交えた大軍議、小田原征伐は具体的になった。 また、肥後半島をあたえられた加藤清正が大坂にきたおり、秀吉は朝鮮出兵の支度を命じた。 関東と奥羽を制したあと、秀吉が唐入りすることは確実になった。
p349~380 北条征伐のため、秀吉は威嚇の意味で都を移すごとくのしたく、茶や能、北条からの使いとなった山上宗二と秀吉の壮絶な問答
p388 6月9日、利休のとりなしで伊達政宗は秀吉に面会した。政宗は鎧の上に純白の陣羽織を着て、髪の毛をザンギリ頭にして現れた。奇抜な姿に秀吉はひと目で気に入った。もう少し遅かったら、この首が落ちていたぞ。 政宗は利休に教えられた通り、「それがしが奪った蘆名領すべてを殿下に献上いたします。」
p396 小田原合戦は終わった。北条家は改易、氏直は高野山へ、一方、織田信雄は翌天正19年(1591)3月、秀吉から大坂城に呼びつけられ、尾張・伊勢・伊賀三国百万石の改易、家康の関東移封に伴い、家康の元領国250万石が与えられたが、織田家墳墓の地である尾張を離れたくないと言い、秀吉の勘気をこうむった。
p400 北条の処分を終えた秀吉は、7月17日、小田原を後にし、出羽・陸奥両国の仕置きを行うべく奥州へと向かった。8月12日、会津黒川を後にし、22日駿府に到着、迎えにきた小西行長に明への出兵準備を命じている。
p404 9月23日(1590)、聚楽第で天下平定を祝した大寄せ、秀吉の嫌いな黒楽(釈迦)使う。
p426 紹安に堺を譲る、紹安は豊前の細川忠興、飛騨の金森長近、阿波の蜂須賀家政などの大名家の間を行き来し、茶の湯の伝播に力を尽くした。それにより、いかに多くの武士たちの荒ぶる心が鎮められたかわからない。慶長12年(1607)に62歳で病没し、子がなかったため堺千家は絶家となる。
p452 織部の半東を務めた小堀作助、後の小堀遠州。 作助殿は大和大納言様の家老の小堀正次殿の長男で、茶の湯だけでなく四書五経なども
p456 正月22日(1591)、秀長が永眠、秀吉を支え続けた52年の生涯だった。
p484 閏正月24日、伏見にいた家康が上洛してきた、聚楽屋敷を訪れ、赤楽の「木守」いつもながら美味しい、
p502 ノ貫が自嘲的な笑みを漏らす「利休よ、若いころに道を違えたわれらだが、わしは己のためにだけ生きてきた。 だが、おぬしは、己のために生きてこなかった。 死がおとずれるまでの何年かを、己のために生きさせようと思うてな」隠遁者になれば、猿もおぬしのことを忘れてくれる。 それは叶わぬことだ。
p511 2月13日の深更、堺の屋敷に着いた利休は風呂に入り、りきの手になる食事をとり、人心地
p516 25日、聚楽第の大門に近い一条戻り橋で、利休の木像が磔にされた、大徳寺の山門・金毛閣に飾られていた、同日、秀吉の使者がきて、京に戻るよう告げてきた。
p517 -よって死罪に処す。表向きの理由は、大徳寺山門の木造の件と売僧の所業
「承りました」 (1591-天正19)2月28日
この日は朝から風が強く、水気を含んだ黒雲が低く垂れこめていた。 午後になると突然、霰が降り始め、やがてそれは雷雨に変わった。
p519 利休の死後、秀吉は何もかも忘れたかのように演能にのめりこんだ。そして、慶長3年(1598)病没