C 国境をなくすために → 歴史
(冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
(ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)
菅原道真が憤死した年に醍醐天皇に二人の皇子が誕生し、一人は2歳で皇太子となるも早世、もう一人が(この本の主人公)親王にも認められず母の実家を15歳で飛び出し、僧として生きようにも世の中は怨霊と自然災害の連続。 富士山の爆発、京都の地震や洪水など悲惨な庶民の生活の中で野積みにされた骸の弔い、井戸掘りなどを指導しながら、“民衆は念仏によって苦しみを軽減できる”を説く生涯でした。
昨年、京都六道の辻で空也の像を偶然見ることができたのですが(ブログ2019年8月14日)、当時の時代背景や、そういう人生の人だったことがよくわかりました。
宇多法皇
|
母 - 醍醐天皇 - 藤原穏子 ( 兄 時平 39歳で死
| | 弟 忠平 右大臣
五宮 保明 │
2歳 2歳、皇太子 ――――――
後の空也 兄 実頼 弟 師輔
幼馴染
私流メモ:
p13 菅原道真の政敵だった時平が道真を九州大宰府へ追放して政界に君臨し、ごり押しして2歳の甥を立太子させた。
五宮は、おなじ皇子なのに、親王宣下すらしてもらえず、母が激昂、皇子の左肘を骨折させ、実家に引取られた。
p15 五宮に唯一、情けをかけてくれるのが祖父の宇多法皇。菅原道真を重用して善政をしいたが、息子の醍醐へ譲位した2年後に仁和寺で出家。 退位後にもうけた子女も多く、皇子らとともに養育してやろうとの思し召し。 遊び相手の実頼は3歳年長。
p17 五宮が7歳のとき、菅原道真を追放した時平が39歳で急死。
p20 空理の法名をもつ宇多法皇のもとで五宮は仏法を学ぶ。
p26 比叡山の念仏は、入唐留学僧の円仁が中国五台山の五会念仏と呼ばれている。 円仁は延暦寺を創建して日本に天台宗を開いた最澄の弟子で、第三代天台座主になり、慈覚大師の諡号を賜った。
p28 老僧相応は、円仁の直弟子で、見たいか?と。 五宮は比叡山へ昇り、毎年の8月11日から17日の夜まで7日7夜、丸7日間不眠不休の不断念仏行、堂僧14人が阿弥陀仏の周りを巡りながら「なぁーもぉー あーびーたーふー」その声は力強く、激しく迸(ほとばし)り出すかと思えば、腹の底から絞り出すかのように重く、次の瞬間には喉をきつく締めつけて唸りを発する。 音声念仏ですと、相応が教えてくれた。
p29 「常に仏の周囲を巡ることで身の罪がことごとく失せ、経を常に唱えることで口の咎がことごとく消える。 そうやってひたすら一心不乱に行ずる。 これが不断念仏行の目的なのです。 身体と口と心、この身口意の三つの罪業、人がこの世で犯す罪業をことごとく滅し尽くさねば、阿弥陀浄土へは行けぬということです。」結局、三日間、苦痛と眠気と闘いながらひたすら見つづけた。 四日目の日中の行の後、立ち上がろうとして意識を失い、強制的に山を降ろされた。
p31 法皇は厳しい音声でこたえた。「そなた、叡山で何を見てきたのだ。 行は行者がやればよい。 厳しい行をし、その結果、験力を身につけて加持祈祷をおこなう。 誰のためにか。決まっておるわ。 われらのためぞ。 天皇家と貴族のためぞ。 それがひいてはこの国のためになるからだ。 病魔退散、怨霊調伏、国家安寧、災厄消除、そもそも仏法とはそれが目的だ。 坊主はそのために存在する。国が僧尼令で定め、税を免じ、身分を保障しているのだ。」その言葉に反発し、その後何度も比叡山へ昇った。どう生きれば?
p35 乳母の秦命婦は、母親からひと月ばかり離れた方がよいと考えて、嵯峨野で息子の道盛(5歳年長)に一緒に、のんびりと生気を取り戻すようにと。15歳。
p35 道盛と道に迷って化野へきて、2年前に嗅いだ骸を焼く臭い、猪熊と黄界坊さまに会う。「手伝わせて」手厳しい拒絶。
p40 その夜、道盛の妹‘阿古’を犯す、世間から忘れられたまま、ここで暮らそう。p43 嵯峨野に閉じこもってふた月後、実頼が訪ねてきた。
p44 「実は、相次ぐ不幸と天災は菅公の怨霊のしわざ、世間はそう噂していますが、わが父忠平がたくらんで故意に流したものでした。伯父の時平が切れ者で、風下に甘んじて、焦りと嫉妬で、時平の片腕だった右大臣源光の非業の死のあと右大臣に昇り、廟堂を率いている。 いまや藤原一門の氏長者の存在、私は父が許せない」
つい最近、実頼は時平の末娘を正室にむかえている。「お母様があなたを法皇さまの猶子にしていただきたいと頼み込んだそうです」
p48 翌年16歳の夏、母は哀訴がにべもなく断られて、井戸に身を投げ死んだ。
父、帝のことは顔も覚えていない。 この世に自分を繋ぎとめる者はない。 ただ、猪熊たちと行動をともにしたい。 道盛だけが2頭の馬を引いてついてきた。
p50 道盛が自分の思い人である草笛の家に案内した。次の日、猪熊の居場所を見つけてきた。 草笛がかいがいしく世話をして、4日後、出立、馬は無用ぞ。淀川ぞいを難波津へ下る途中、農家で男と衣をとりかえて、鎌をかり童子髪を首のところで切り落とし、「道盛、ついてくるなら、おまえもそのなりを替えよ」「むろんのこと」「私は宮でなく孤児の常葉丸だ」
p60 猪熊の隣に雑魚寝の場所を空けてくれた。30人近い男たちが盛大に鼾をかいて眠りこける中、常葉丸はぐっすり眠った。 紀州へ移り、今度は橋の架け替え工事。
集団は行動範囲が広く、5畿7道、山城、大和、河内、和泉、摂津の5国、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の7道
p61 諸国の百姓の課役を逃れ、租調を逃るる者、みだりに法服を着る。この喜界坊率いる連中のなかにも後ろ暗い過去がある者もないわけではない。 それでも彼らは水路の開削や井戸掘りを行いながら、吉野、大峰、大和葛城などの山林修行の行場を歴巡している。出身地もばらばら、架橋や土木の技術があって、河内や滋賀の渡来系氏族出身が多い。
仏教にしても、朝廷が正式に百済国から請来するはるか以前、彼らによって持ち込まれた。
智識寺と呼ばれる寺院を営んで技術を継承し、仏教文化圏を形成した。 そこから遣唐使船で唐に留学し、、行基も河内の渡来系氏族の出。
p68 道盛に時々命婦から手紙、妹は身籠って女の子を産み、皇子さまは必ずお帰りになると大事に育てていたが、流行り病で子もろともあっけなく世を去ったそうです。
子は4歳だったという。 「道盛、私はどうやって二人に償えばいい。教えてくれ」「南無阿弥陀仏と唱えてやることだけです」極楽浄土に往生できるように。そこで、この世に残された者が来るのを待っていられるのです。 いずれ、また会えますよ。
p69 道盛が崖から転落して死んだのは、常葉が19歳のとき。 木の枝に引っかかっていた巾着袋の中は火打石と木杖が形見。猪熊がひとりじゃねえぞと背中を押した。
p70 翌々年、同い年の保明親王が死んだと風の噂。 醍醐天皇は翌年、菅原道真を右大臣に復帰させ、正二位を追贈、彼の霊魂を慰撫しようとした。 相変わらず旱魃や疫病。
p71 常葉は21歳、病いに倒れた。
p72 出奔から5年、筋肉はつき、裸足で足の裏も硬く分厚くなって、でも限界。
p73 一人都へ戻ると実家は荒れ放題、母が身を投げた井戸は草茫々。命婦に会いたい
p74 命婦は赤子の産着を見せてくれ、春になるまでここで体を癒すよう。
p76 今一度、仏法をしっかり学んでみようと思う。尾張で悦良に。
p80 種から芽が出て、それが成長して葉になり、茎になり、花が咲き、花が枯れて実になり、実はやがて次の世代の種になる。あらゆる存在や物事を絶対に変わることのない固有の実体ならしめる自性はないということで、そのことを空というのだ。
p89 「すべては空」と悟ることでしか、苦しみから逃れるすべはない。 そこからすべてが始まる。「そうか、空なり、空也か」 沙弥名としたい。
p90 出家の日は、夜明け前から土砂降りの雨が金堂をたたきつける朝だった。
「沙弥空也、汝、六波羅蜜を持し、日々精進すべし。 空を知り、広く衆生を度する菩薩たるべし」空也は思った。 自分が生まれたのは、菅原道真の憤死が都に伝わった直後で、やはりこんな雷鳴と稲光が荒れ狂う朝だったと聞かされている。
p93 播磨国揖保群の峰合寺で修行と研学
p103 4年目の9月、28歳、醍醐上皇46歳で崩御の急報、
p106 駆けつけて、実頼に乞われ法要で焼香
p115 宇多法皇にあう、もう二度とここへは来ない
p119 峰合寺へ帰る、―おのれを捨てきる。
p122 翌年7月、宇多法皇崩御。 紺紙に金泥で記された法華経八巻が形見として送られてきた。気力をふり絞って書写している姿が目に浮かぶ。 77忌の日、峰合寺の観世穏菩薩像に奉納し、その前でひたすら読経した。
p123 「ここへは戻ってこぬが、おまえ、ついてくるか」頑魯は無言のままうなずいた。 淡路島南方、湯島の十一面観音に行く。
p127 舟さえあれば自分が漕ぐと頑魯。 急峻な杣道を、熊笹を掻き分けて、よじ登る。観音堂は楠がそそり立ち、大きな洞に十一面観音の像が安置。その夜は崖に打ち付ける波音が三方から迫って来る。翌日から如意輪陀羅尼経の六度行を開始。
p131 明日から五穀を絶って、7日間、不眠不休の行をする。食べ物はいらぬ。 水だけでいい。 翌朝、汲みたての若水で身を清めて開始した行は、合掌した右腕に抹香を載せて火を付け、焚きながら如意輪小呪を唱える。わが身を焼いて供養する焼身行。
満願の夜、だめか・・・、瞑った両目の瞼裏が明るみ始め、まばゆい光、結跏趺座して瞑想する仏の姿。阿弥陀如来・・「ああ、ああ・・」床にひれ伏し、額ずいて号泣した。
頑魯が火傷に薬、それから一か月余、体力の回復を待ちながら、霊験で見た阿弥陀仏と十一面観音の像を刻んだ。目を瞑れば見ることができる。
p139 尾張の国分寺に尋ねた悦良はいなかった。陸奥へいったとのこと。
p148 十一面観音立像を安置した厨子を背負い、曲がった左肘に金鼓を掛けて、右手に錫杖と打ち棒、頑魯は経典類を詰めた笈を背負い、法螺を吹きながらあるいた。天竜川、冨士山、大井川、駿府、白河の関を越え磐梯山、通りがかった年寄りが「わしの曾祖父が子供のころ真っ赤に燃えて降ってきたげな」130年ほど前(806)大爆発をして山頂が吹き飛び、大きく抉れて4峰になった。
p151 かすかに侮蔑を滲ませながらも、人のよさそうな住持は、しばらく逗留する気ならば、悦良のいた小堂の房舎に住んではどうかと勧めてくれた。
p152 ここなら布教にかっこうだ。 初めて開く念仏道場だ。井戸を掘ろう、地下水は豊富にある、田畑に引いて作物を救える。 あきらめるのは早い。
p154 歩いてみてわかった。 どの村にも集落から離れた山際に遺骸を野捨てにする場所がある。飢饉や疫病で死んだ遺骸は穢れをおそれて、弔いもせず破棄している。
p155 「おまえは井戸の指図のほうをたのむ」頑魯は涙で汚れた顔を拭こうともせず、遺骸を抱いて運ぶのをやめようとしなかった。
p157 井戸掘り以外の弔いをして、雪がゆるんで小鳥がなく。「ミソサザイだよ。 味噌みたいな色で、ちっこくてありふれたやつさ」「そうか、目立たずとも春を教える役目があるのだな。 わしもそれでよいのだ。」
猟師が半ば雪に埋もれた凍死体をみつけた。悦良は餓死と見紛うほど痩せた姿で座禅の死
p158 筑波山の西8kmに広大な湖沼があり、鳥羽の淡海、葦の群生に縁どられてかくされていた、その東岸に百年ほど前、天台宗延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が創建した東睿山承和寺があると聞いてやって来た。円仁は天台宗の顕教と密教を融合させ、台密教学を確立した人物であり、阿弥陀信仰を唐から請来した人物で、空也が少年のころ不断念仏行を見せてくれた相応和尚が高弟だった。
下野国壬生郷の土豪の子に生まれた円仁は、9歳で地元の大慈寺に入って出家、15歳で比叡山に昇って最澄の弟子、最澄の東国布教の際、同行、36歳の時にも再び下向、中でも常陸、下総、下野にまたがる筑波山一帯を東国における護国鎮護の拠点とすべく大伽藍を造立したのが、東睿山承和寺。 焼け落ちていた。 突然、騎馬の一団、馬に乗った女に馬上に引き上げられた。
p162 女(ききょう)の馬にのせられ平将門の屋敷へ。
p164 将門が気に入り、話相手に。
p174 菅原道真公の長男は大宰府に送られたが、下の3人は連座を免れ、母の親族のもと不遇、14年まえ、晴れて叙任を許されて常陸之介、ご兄弟は父の遺骨を葬り菅原神社とした、少年だった将門は兄弟と知り合い、憤死された年にわしが生まれた、わしは菅公の生まれ変わりだ、精神誠意尽くしたあげく、無慈悲に切り捨てられた。怨霊となるのは当然ではないか。 空也は悟った、この男は伯父たちに裏切られて道真に仮託している
p175 「菅公の怨霊はわしがお守りせねば、わが家族とこの地を未来永劫守って下さる」空也自身が道真の怨念を背負って同年に生まれ、悩んだことをしらないはずなのに、なぜ愚僧にそんな話を?、「別に理由はない」 傲岸さは微塵もない人懐っこい笑顔。
p184 11月末、空也と頑魯は甲斐へ入った、下総を出て赤城へ向かい、数日来ひっきりなしの地震、富士山爆発。地鳴りは絶えまなく続き、振動が突き上げる、灰は何日も降り注いだ。師走も半ばになって7年ぶりの京都。
p192 938年4月15日、阿弥陀仏の縁日の夜、空也は愛宕山中の月輪寺の道場で阿弥陀経を誦していた。 満月の光は皓々と輝いて、霊気によって心身を浄化し、呪力を蓄える、行者や密教僧が集まる行場、ふいに月がゆらりと揺れた。地鳴りとともに床から衝撃が突き上げた。半年前、富士山の噴火に遭遇したとき、空がやはりこんな異様、絶え間なく揺れ、その度に唸りのような地鳴り。山崩れ、崖崩れで三日後に下山。京内は悲惨。
「南無阿弥陀仏」とつぶやく、人々にとって念仏は死を招き寄せる、おぞましい呪文、―そうではない、念仏を唱えるのは死者を阿弥陀仏のもとへ送り出してやるためなのだ。
p198 頑魯、草笛、老僕は無事、老婢は梁の下敷きで死。「惨い死に方でも往生できるだか?」「むろんだとも。阿弥陀様は誰でもかならず迎えてくださる」
p199 翌朝から頑魯をつれて周辺の井戸の状況を見て回った。喜界坊や猪熊はどこにいるのか、別れてから15年の月日。すでに36歳、京中の井戸を治す、心あるものは手伝ってほしい。最初に女性、やがて男たちも井戸なおし。
p208 実頼が訪ねてきた。 「東国の将門の従兄弟の申し立てで将門が朝敵になっている。身内争いが都に累が及ばぬかぎり、しったことではないが、この地震がおさまらねば困る」 西では藤原純友が頭角をあらわしている。
p209 凄まじい豪雨で鴨川と桂川が氾濫、地震は断続的。
p220 地震と洪水いらい、孤児がふえた。 奥州には金鉱があり、砂金がとれる。奥州馬を運んできた商人たちが、孤児を連れていって奴隷に売り飛ばす。
p221 世に仏法者たちが学問や朝廷のために加持祈祷に安住しているだけ、律令時代のまま僧位をもらい、民の上に傲然と居座っている。 いまや学問すらろくに修めず特権を貪るだけ、(悦良の言葉が思い出される)民衆はすがりつく対象を求めているのだが、、空也は厳しい修行をして京へ戻ったが、想像以上に人々の心は荒れはてている。
p222 「この御坊は小声で念仏を唱えるだけで、悪さはいたしません。布施された食べ物を貧者にあたえております」麻布を商う店の男が駆け寄ってきて、衛士の一人にそっと小銭を握らせた。 東市で乞食をするようになってほぼ一年、「妙な聖だ。あんなに薄汚
れてみすぼらしいのに、高貴なお方のように見える」
p242 下野の藤原秀郷が将門の陣に参じたものの、一転平貞盛と組み、「朝敵となった将門は流れ矢に顔を撃ち抜かれ即死」将門の首が東市に梟された。
p259 猪熊があらわれて、「布施させていただきましょう」練絹50反、女物襲十領だ。
p270 奈良興福寺へ。 奈良時代の学僧玄昉は唐に渡り、三蔵法師の孫弟子に学び、20年に及ぶ研学の成果は玄宗皇帝から紫衣を与えられたほどで、帰国時には5千余巻に及ぶ最新の経論と仏像・仏具の数々を持ち帰った。玄昉は聖武帝一家に信任され僧正の位に昇り、全国国分寺制度も彼の進言、寵愛されすぎて失脚、道真と似た末路。
p311 比叡山から得度、受戒をすすめられ、「夏安居は規定通り勤めますが、その後の12年籠山行はご容赦いただきたい」空也は比叡山をおり、死ぬまで登ることなし。
p359 村上帝は若いながら、忠平亡きあと新政にのりだし、財政逼迫を憂えて節約令を発し、国庫を安定させた。 親子ほども年が離れた異母兄弟、自分はとうに別世界であり、、「愚僧は余慶と申す三井寺の者、あなたは尊いご出自、醍醐帝の皇子さま、その腕はどうされました?」「この不具は、わが母が感情を高ぶらせ、わたしの片足をつかんで縁から下の地面に叩きつけたため、不便といえば疼痛、骨が軋むような感覚、すでに齢61、老いのせいと思えばどうということもありません」「やはり骨が折れて脱臼したまま固まっております。加持祈祷と申しましたが、いやなに、外れた関節を入れ直し、固まった筋を伸ばしてほぐしてやる、血の滞りが改善され、むくみ、冷え、痺れ(しびれ」、疼痛などの不調は自然になおります」余慶の掌の温かみが心の奥底まで染み入ってくる。母だ。きづくと肘は真っ直ぐに伸びていた。「今気づいたのです。わたしの心の底に、50余年もの間、自分ではそうと知らず、母に対する恨みつらみがわだかまっていた。 ねじくれて凝り固まっていたのは肘ではない、わが心だったようだ」
p364 三人は草笛の家で頑魯が養育した孤児、古縄の聖、瓜皮の聖、反古の聖、
「反古よ、ここへ。この者は、教えられぬのに自分で字を覚え、校正ができるまでになりました。貴僧のような高徳のお方のもとで学べば、いずれひとかどの者になるでしょう」「あなたの人を治す癒す力にすっかり心酔したようですので、本人もよろこんで行くと存じます」「わが父は工夫でしたが、足に負った大怪我がもとで死にました。母や兄弟たちは痘瘡に一人残らずもってゆかれました。 皆、治療や薬餌は一切受けられず、苦しみ抜いて死にました」「密教は呪術めいた加持祈祷だけではないぞ。 今見たように身体を調える術や薬の調合もある。心を癒すのもその一つじゃ」余慶は、その場で彼を義観と名づけ、三井寺へ連れ帰った。
p366 供養会、千人集まってきても、白い飯を腹いっぱい食わせてやれる。 一世一代の大盤振る舞いだぞ、頑魯が手を打って言いたて、皆、どっと笑った。
p381 毎日眠る前だけでいい。 強欲になっておらぬか。 身勝手ではないか。 ずるく立ち回っていないか。悪行をおかさなんだか。おのれを振り返ってみなされ。 ちくりとでも心が痛んだら、菩薩に近づいている証し。 空也の口ぶりはいつもの説法と少しも変わらなかった。
p386 大般若経供養会の後、空也は東山の道場で静かに晩年の日々を送っている。6百巻は櫃に収めて清水寺の塔院に寄贈した。 自分が権威になってはならない、道場はいつしか西光寺と呼ばれるようになった。 寺と呼ばれても、天台宗の寺でも清水寺の末寺でもない。 十一面観音のおわす本堂、聖たちがすまう長屋の房、孤児たちが暮らす建物、施食を調理する大きな厨、衆徒たちが集う講堂。どれも質素な板葺き屋根の建物だ。あとは広々とした草の原のまま。集まって来る人々に念仏行を指導するかたわら、文机に向って書きものをする。
p388 天禄元年5月、実頼が死んだ。 贈正一位摂政関白太政大臣。 一上、藤原氏の氏長者。 村上、冷泉、円融と三代の帝に仕え、位人臣を極めたものの、冷泉亭の狂気が安和の変を引き起すと幼年の円融帝を立てて奔走し、心身とも疲弊し尽して71歳の生涯を閉じた。 大洪水のとき、実頼が私財を投じて復旧に尽力したことを民たちは忘れていなかった。 門前に集まって人々は挙哀した。
法性寺で行われた葬儀の末席に連なった空也は、幼馴染の親友に幼名で呼びかけた。「のう牛養、以って瞑すべきではないか。 悪い一生ではなかったぞ。」
p394 天禄3年(972)9月11日 70歳。
「なむあみだぶつ」 か細い声が息とともに漏れ、それが次第に間遠になっていく。
--息精(いき)は即ち念珠。
(冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
(ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)
菅原道真が憤死した年に醍醐天皇に二人の皇子が誕生し、一人は2歳で皇太子となるも早世、もう一人が(この本の主人公)親王にも認められず母の実家を15歳で飛び出し、僧として生きようにも世の中は怨霊と自然災害の連続。 富士山の爆発、京都の地震や洪水など悲惨な庶民の生活の中で野積みにされた骸の弔い、井戸掘りなどを指導しながら、“民衆は念仏によって苦しみを軽減できる”を説く生涯でした。
昨年、京都六道の辻で空也の像を偶然見ることができたのですが(ブログ2019年8月14日)、当時の時代背景や、そういう人生の人だったことがよくわかりました。
宇多法皇
|
母 - 醍醐天皇 - 藤原穏子 ( 兄 時平 39歳で死
| | 弟 忠平 右大臣
五宮 保明 │
2歳 2歳、皇太子 ――――――
後の空也 兄 実頼 弟 師輔
幼馴染
私流メモ:
p13 菅原道真の政敵だった時平が道真を九州大宰府へ追放して政界に君臨し、ごり押しして2歳の甥を立太子させた。
五宮は、おなじ皇子なのに、親王宣下すらしてもらえず、母が激昂、皇子の左肘を骨折させ、実家に引取られた。
p15 五宮に唯一、情けをかけてくれるのが祖父の宇多法皇。菅原道真を重用して善政をしいたが、息子の醍醐へ譲位した2年後に仁和寺で出家。 退位後にもうけた子女も多く、皇子らとともに養育してやろうとの思し召し。 遊び相手の実頼は3歳年長。
p17 五宮が7歳のとき、菅原道真を追放した時平が39歳で急死。
p20 空理の法名をもつ宇多法皇のもとで五宮は仏法を学ぶ。
p26 比叡山の念仏は、入唐留学僧の円仁が中国五台山の五会念仏と呼ばれている。 円仁は延暦寺を創建して日本に天台宗を開いた最澄の弟子で、第三代天台座主になり、慈覚大師の諡号を賜った。
p28 老僧相応は、円仁の直弟子で、見たいか?と。 五宮は比叡山へ昇り、毎年の8月11日から17日の夜まで7日7夜、丸7日間不眠不休の不断念仏行、堂僧14人が阿弥陀仏の周りを巡りながら「なぁーもぉー あーびーたーふー」その声は力強く、激しく迸(ほとばし)り出すかと思えば、腹の底から絞り出すかのように重く、次の瞬間には喉をきつく締めつけて唸りを発する。 音声念仏ですと、相応が教えてくれた。
p29 「常に仏の周囲を巡ることで身の罪がことごとく失せ、経を常に唱えることで口の咎がことごとく消える。 そうやってひたすら一心不乱に行ずる。 これが不断念仏行の目的なのです。 身体と口と心、この身口意の三つの罪業、人がこの世で犯す罪業をことごとく滅し尽くさねば、阿弥陀浄土へは行けぬということです。」結局、三日間、苦痛と眠気と闘いながらひたすら見つづけた。 四日目の日中の行の後、立ち上がろうとして意識を失い、強制的に山を降ろされた。
p31 法皇は厳しい音声でこたえた。「そなた、叡山で何を見てきたのだ。 行は行者がやればよい。 厳しい行をし、その結果、験力を身につけて加持祈祷をおこなう。 誰のためにか。決まっておるわ。 われらのためぞ。 天皇家と貴族のためぞ。 それがひいてはこの国のためになるからだ。 病魔退散、怨霊調伏、国家安寧、災厄消除、そもそも仏法とはそれが目的だ。 坊主はそのために存在する。国が僧尼令で定め、税を免じ、身分を保障しているのだ。」その言葉に反発し、その後何度も比叡山へ昇った。どう生きれば?
p35 乳母の秦命婦は、母親からひと月ばかり離れた方がよいと考えて、嵯峨野で息子の道盛(5歳年長)に一緒に、のんびりと生気を取り戻すようにと。15歳。
p35 道盛と道に迷って化野へきて、2年前に嗅いだ骸を焼く臭い、猪熊と黄界坊さまに会う。「手伝わせて」手厳しい拒絶。
p40 その夜、道盛の妹‘阿古’を犯す、世間から忘れられたまま、ここで暮らそう。p43 嵯峨野に閉じこもってふた月後、実頼が訪ねてきた。
p44 「実は、相次ぐ不幸と天災は菅公の怨霊のしわざ、世間はそう噂していますが、わが父忠平がたくらんで故意に流したものでした。伯父の時平が切れ者で、風下に甘んじて、焦りと嫉妬で、時平の片腕だった右大臣源光の非業の死のあと右大臣に昇り、廟堂を率いている。 いまや藤原一門の氏長者の存在、私は父が許せない」
つい最近、実頼は時平の末娘を正室にむかえている。「お母様があなたを法皇さまの猶子にしていただきたいと頼み込んだそうです」
p48 翌年16歳の夏、母は哀訴がにべもなく断られて、井戸に身を投げ死んだ。
父、帝のことは顔も覚えていない。 この世に自分を繋ぎとめる者はない。 ただ、猪熊たちと行動をともにしたい。 道盛だけが2頭の馬を引いてついてきた。
p50 道盛が自分の思い人である草笛の家に案内した。次の日、猪熊の居場所を見つけてきた。 草笛がかいがいしく世話をして、4日後、出立、馬は無用ぞ。淀川ぞいを難波津へ下る途中、農家で男と衣をとりかえて、鎌をかり童子髪を首のところで切り落とし、「道盛、ついてくるなら、おまえもそのなりを替えよ」「むろんのこと」「私は宮でなく孤児の常葉丸だ」
p60 猪熊の隣に雑魚寝の場所を空けてくれた。30人近い男たちが盛大に鼾をかいて眠りこける中、常葉丸はぐっすり眠った。 紀州へ移り、今度は橋の架け替え工事。
集団は行動範囲が広く、5畿7道、山城、大和、河内、和泉、摂津の5国、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の7道
p61 諸国の百姓の課役を逃れ、租調を逃るる者、みだりに法服を着る。この喜界坊率いる連中のなかにも後ろ暗い過去がある者もないわけではない。 それでも彼らは水路の開削や井戸掘りを行いながら、吉野、大峰、大和葛城などの山林修行の行場を歴巡している。出身地もばらばら、架橋や土木の技術があって、河内や滋賀の渡来系氏族出身が多い。
仏教にしても、朝廷が正式に百済国から請来するはるか以前、彼らによって持ち込まれた。
智識寺と呼ばれる寺院を営んで技術を継承し、仏教文化圏を形成した。 そこから遣唐使船で唐に留学し、、行基も河内の渡来系氏族の出。
p68 道盛に時々命婦から手紙、妹は身籠って女の子を産み、皇子さまは必ずお帰りになると大事に育てていたが、流行り病で子もろともあっけなく世を去ったそうです。
子は4歳だったという。 「道盛、私はどうやって二人に償えばいい。教えてくれ」「南無阿弥陀仏と唱えてやることだけです」極楽浄土に往生できるように。そこで、この世に残された者が来るのを待っていられるのです。 いずれ、また会えますよ。
p69 道盛が崖から転落して死んだのは、常葉が19歳のとき。 木の枝に引っかかっていた巾着袋の中は火打石と木杖が形見。猪熊がひとりじゃねえぞと背中を押した。
p70 翌々年、同い年の保明親王が死んだと風の噂。 醍醐天皇は翌年、菅原道真を右大臣に復帰させ、正二位を追贈、彼の霊魂を慰撫しようとした。 相変わらず旱魃や疫病。
p71 常葉は21歳、病いに倒れた。
p72 出奔から5年、筋肉はつき、裸足で足の裏も硬く分厚くなって、でも限界。
p73 一人都へ戻ると実家は荒れ放題、母が身を投げた井戸は草茫々。命婦に会いたい
p74 命婦は赤子の産着を見せてくれ、春になるまでここで体を癒すよう。
p76 今一度、仏法をしっかり学んでみようと思う。尾張で悦良に。
p80 種から芽が出て、それが成長して葉になり、茎になり、花が咲き、花が枯れて実になり、実はやがて次の世代の種になる。あらゆる存在や物事を絶対に変わることのない固有の実体ならしめる自性はないということで、そのことを空というのだ。
p89 「すべては空」と悟ることでしか、苦しみから逃れるすべはない。 そこからすべてが始まる。「そうか、空なり、空也か」 沙弥名としたい。
p90 出家の日は、夜明け前から土砂降りの雨が金堂をたたきつける朝だった。
「沙弥空也、汝、六波羅蜜を持し、日々精進すべし。 空を知り、広く衆生を度する菩薩たるべし」空也は思った。 自分が生まれたのは、菅原道真の憤死が都に伝わった直後で、やはりこんな雷鳴と稲光が荒れ狂う朝だったと聞かされている。
p93 播磨国揖保群の峰合寺で修行と研学
p103 4年目の9月、28歳、醍醐上皇46歳で崩御の急報、
p106 駆けつけて、実頼に乞われ法要で焼香
p115 宇多法皇にあう、もう二度とここへは来ない
p119 峰合寺へ帰る、―おのれを捨てきる。
p122 翌年7月、宇多法皇崩御。 紺紙に金泥で記された法華経八巻が形見として送られてきた。気力をふり絞って書写している姿が目に浮かぶ。 77忌の日、峰合寺の観世穏菩薩像に奉納し、その前でひたすら読経した。
p123 「ここへは戻ってこぬが、おまえ、ついてくるか」頑魯は無言のままうなずいた。 淡路島南方、湯島の十一面観音に行く。
p127 舟さえあれば自分が漕ぐと頑魯。 急峻な杣道を、熊笹を掻き分けて、よじ登る。観音堂は楠がそそり立ち、大きな洞に十一面観音の像が安置。その夜は崖に打ち付ける波音が三方から迫って来る。翌日から如意輪陀羅尼経の六度行を開始。
p131 明日から五穀を絶って、7日間、不眠不休の行をする。食べ物はいらぬ。 水だけでいい。 翌朝、汲みたての若水で身を清めて開始した行は、合掌した右腕に抹香を載せて火を付け、焚きながら如意輪小呪を唱える。わが身を焼いて供養する焼身行。
満願の夜、だめか・・・、瞑った両目の瞼裏が明るみ始め、まばゆい光、結跏趺座して瞑想する仏の姿。阿弥陀如来・・「ああ、ああ・・」床にひれ伏し、額ずいて号泣した。
頑魯が火傷に薬、それから一か月余、体力の回復を待ちながら、霊験で見た阿弥陀仏と十一面観音の像を刻んだ。目を瞑れば見ることができる。
p139 尾張の国分寺に尋ねた悦良はいなかった。陸奥へいったとのこと。
p148 十一面観音立像を安置した厨子を背負い、曲がった左肘に金鼓を掛けて、右手に錫杖と打ち棒、頑魯は経典類を詰めた笈を背負い、法螺を吹きながらあるいた。天竜川、冨士山、大井川、駿府、白河の関を越え磐梯山、通りがかった年寄りが「わしの曾祖父が子供のころ真っ赤に燃えて降ってきたげな」130年ほど前(806)大爆発をして山頂が吹き飛び、大きく抉れて4峰になった。
p151 かすかに侮蔑を滲ませながらも、人のよさそうな住持は、しばらく逗留する気ならば、悦良のいた小堂の房舎に住んではどうかと勧めてくれた。
p152 ここなら布教にかっこうだ。 初めて開く念仏道場だ。井戸を掘ろう、地下水は豊富にある、田畑に引いて作物を救える。 あきらめるのは早い。
p154 歩いてみてわかった。 どの村にも集落から離れた山際に遺骸を野捨てにする場所がある。飢饉や疫病で死んだ遺骸は穢れをおそれて、弔いもせず破棄している。
p155 「おまえは井戸の指図のほうをたのむ」頑魯は涙で汚れた顔を拭こうともせず、遺骸を抱いて運ぶのをやめようとしなかった。
p157 井戸掘り以外の弔いをして、雪がゆるんで小鳥がなく。「ミソサザイだよ。 味噌みたいな色で、ちっこくてありふれたやつさ」「そうか、目立たずとも春を教える役目があるのだな。 わしもそれでよいのだ。」
猟師が半ば雪に埋もれた凍死体をみつけた。悦良は餓死と見紛うほど痩せた姿で座禅の死
p158 筑波山の西8kmに広大な湖沼があり、鳥羽の淡海、葦の群生に縁どられてかくされていた、その東岸に百年ほど前、天台宗延暦寺第三代座主慈覚大師円仁が創建した東睿山承和寺があると聞いてやって来た。円仁は天台宗の顕教と密教を融合させ、台密教学を確立した人物であり、阿弥陀信仰を唐から請来した人物で、空也が少年のころ不断念仏行を見せてくれた相応和尚が高弟だった。
下野国壬生郷の土豪の子に生まれた円仁は、9歳で地元の大慈寺に入って出家、15歳で比叡山に昇って最澄の弟子、最澄の東国布教の際、同行、36歳の時にも再び下向、中でも常陸、下総、下野にまたがる筑波山一帯を東国における護国鎮護の拠点とすべく大伽藍を造立したのが、東睿山承和寺。 焼け落ちていた。 突然、騎馬の一団、馬に乗った女に馬上に引き上げられた。
p162 女(ききょう)の馬にのせられ平将門の屋敷へ。
p164 将門が気に入り、話相手に。
p174 菅原道真公の長男は大宰府に送られたが、下の3人は連座を免れ、母の親族のもと不遇、14年まえ、晴れて叙任を許されて常陸之介、ご兄弟は父の遺骨を葬り菅原神社とした、少年だった将門は兄弟と知り合い、憤死された年にわしが生まれた、わしは菅公の生まれ変わりだ、精神誠意尽くしたあげく、無慈悲に切り捨てられた。怨霊となるのは当然ではないか。 空也は悟った、この男は伯父たちに裏切られて道真に仮託している
p175 「菅公の怨霊はわしがお守りせねば、わが家族とこの地を未来永劫守って下さる」空也自身が道真の怨念を背負って同年に生まれ、悩んだことをしらないはずなのに、なぜ愚僧にそんな話を?、「別に理由はない」 傲岸さは微塵もない人懐っこい笑顔。
p184 11月末、空也と頑魯は甲斐へ入った、下総を出て赤城へ向かい、数日来ひっきりなしの地震、富士山爆発。地鳴りは絶えまなく続き、振動が突き上げる、灰は何日も降り注いだ。師走も半ばになって7年ぶりの京都。
p192 938年4月15日、阿弥陀仏の縁日の夜、空也は愛宕山中の月輪寺の道場で阿弥陀経を誦していた。 満月の光は皓々と輝いて、霊気によって心身を浄化し、呪力を蓄える、行者や密教僧が集まる行場、ふいに月がゆらりと揺れた。地鳴りとともに床から衝撃が突き上げた。半年前、富士山の噴火に遭遇したとき、空がやはりこんな異様、絶え間なく揺れ、その度に唸りのような地鳴り。山崩れ、崖崩れで三日後に下山。京内は悲惨。
「南無阿弥陀仏」とつぶやく、人々にとって念仏は死を招き寄せる、おぞましい呪文、―そうではない、念仏を唱えるのは死者を阿弥陀仏のもとへ送り出してやるためなのだ。
p198 頑魯、草笛、老僕は無事、老婢は梁の下敷きで死。「惨い死に方でも往生できるだか?」「むろんだとも。阿弥陀様は誰でもかならず迎えてくださる」
p199 翌朝から頑魯をつれて周辺の井戸の状況を見て回った。喜界坊や猪熊はどこにいるのか、別れてから15年の月日。すでに36歳、京中の井戸を治す、心あるものは手伝ってほしい。最初に女性、やがて男たちも井戸なおし。
p208 実頼が訪ねてきた。 「東国の将門の従兄弟の申し立てで将門が朝敵になっている。身内争いが都に累が及ばぬかぎり、しったことではないが、この地震がおさまらねば困る」 西では藤原純友が頭角をあらわしている。
p209 凄まじい豪雨で鴨川と桂川が氾濫、地震は断続的。
p220 地震と洪水いらい、孤児がふえた。 奥州には金鉱があり、砂金がとれる。奥州馬を運んできた商人たちが、孤児を連れていって奴隷に売り飛ばす。
p221 世に仏法者たちが学問や朝廷のために加持祈祷に安住しているだけ、律令時代のまま僧位をもらい、民の上に傲然と居座っている。 いまや学問すらろくに修めず特権を貪るだけ、(悦良の言葉が思い出される)民衆はすがりつく対象を求めているのだが、、空也は厳しい修行をして京へ戻ったが、想像以上に人々の心は荒れはてている。
p222 「この御坊は小声で念仏を唱えるだけで、悪さはいたしません。布施された食べ物を貧者にあたえております」麻布を商う店の男が駆け寄ってきて、衛士の一人にそっと小銭を握らせた。 東市で乞食をするようになってほぼ一年、「妙な聖だ。あんなに薄汚
れてみすぼらしいのに、高貴なお方のように見える」
p242 下野の藤原秀郷が将門の陣に参じたものの、一転平貞盛と組み、「朝敵となった将門は流れ矢に顔を撃ち抜かれ即死」将門の首が東市に梟された。
p259 猪熊があらわれて、「布施させていただきましょう」練絹50反、女物襲十領だ。
p270 奈良興福寺へ。 奈良時代の学僧玄昉は唐に渡り、三蔵法師の孫弟子に学び、20年に及ぶ研学の成果は玄宗皇帝から紫衣を与えられたほどで、帰国時には5千余巻に及ぶ最新の経論と仏像・仏具の数々を持ち帰った。玄昉は聖武帝一家に信任され僧正の位に昇り、全国国分寺制度も彼の進言、寵愛されすぎて失脚、道真と似た末路。
p311 比叡山から得度、受戒をすすめられ、「夏安居は規定通り勤めますが、その後の12年籠山行はご容赦いただきたい」空也は比叡山をおり、死ぬまで登ることなし。
p359 村上帝は若いながら、忠平亡きあと新政にのりだし、財政逼迫を憂えて節約令を発し、国庫を安定させた。 親子ほども年が離れた異母兄弟、自分はとうに別世界であり、、「愚僧は余慶と申す三井寺の者、あなたは尊いご出自、醍醐帝の皇子さま、その腕はどうされました?」「この不具は、わが母が感情を高ぶらせ、わたしの片足をつかんで縁から下の地面に叩きつけたため、不便といえば疼痛、骨が軋むような感覚、すでに齢61、老いのせいと思えばどうということもありません」「やはり骨が折れて脱臼したまま固まっております。加持祈祷と申しましたが、いやなに、外れた関節を入れ直し、固まった筋を伸ばしてほぐしてやる、血の滞りが改善され、むくみ、冷え、痺れ(しびれ」、疼痛などの不調は自然になおります」余慶の掌の温かみが心の奥底まで染み入ってくる。母だ。きづくと肘は真っ直ぐに伸びていた。「今気づいたのです。わたしの心の底に、50余年もの間、自分ではそうと知らず、母に対する恨みつらみがわだかまっていた。 ねじくれて凝り固まっていたのは肘ではない、わが心だったようだ」
p364 三人は草笛の家で頑魯が養育した孤児、古縄の聖、瓜皮の聖、反古の聖、
「反古よ、ここへ。この者は、教えられぬのに自分で字を覚え、校正ができるまでになりました。貴僧のような高徳のお方のもとで学べば、いずれひとかどの者になるでしょう」「あなたの人を治す癒す力にすっかり心酔したようですので、本人もよろこんで行くと存じます」「わが父は工夫でしたが、足に負った大怪我がもとで死にました。母や兄弟たちは痘瘡に一人残らずもってゆかれました。 皆、治療や薬餌は一切受けられず、苦しみ抜いて死にました」「密教は呪術めいた加持祈祷だけではないぞ。 今見たように身体を調える術や薬の調合もある。心を癒すのもその一つじゃ」余慶は、その場で彼を義観と名づけ、三井寺へ連れ帰った。
p366 供養会、千人集まってきても、白い飯を腹いっぱい食わせてやれる。 一世一代の大盤振る舞いだぞ、頑魯が手を打って言いたて、皆、どっと笑った。
p381 毎日眠る前だけでいい。 強欲になっておらぬか。 身勝手ではないか。 ずるく立ち回っていないか。悪行をおかさなんだか。おのれを振り返ってみなされ。 ちくりとでも心が痛んだら、菩薩に近づいている証し。 空也の口ぶりはいつもの説法と少しも変わらなかった。
p386 大般若経供養会の後、空也は東山の道場で静かに晩年の日々を送っている。6百巻は櫃に収めて清水寺の塔院に寄贈した。 自分が権威になってはならない、道場はいつしか西光寺と呼ばれるようになった。 寺と呼ばれても、天台宗の寺でも清水寺の末寺でもない。 十一面観音のおわす本堂、聖たちがすまう長屋の房、孤児たちが暮らす建物、施食を調理する大きな厨、衆徒たちが集う講堂。どれも質素な板葺き屋根の建物だ。あとは広々とした草の原のまま。集まって来る人々に念仏行を指導するかたわら、文机に向って書きものをする。
p388 天禄元年5月、実頼が死んだ。 贈正一位摂政関白太政大臣。 一上、藤原氏の氏長者。 村上、冷泉、円融と三代の帝に仕え、位人臣を極めたものの、冷泉亭の狂気が安和の変を引き起すと幼年の円融帝を立てて奔走し、心身とも疲弊し尽して71歳の生涯を閉じた。 大洪水のとき、実頼が私財を投じて復旧に尽力したことを民たちは忘れていなかった。 門前に集まって人々は挙哀した。
法性寺で行われた葬儀の末席に連なった空也は、幼馴染の親友に幼名で呼びかけた。「のう牛養、以って瞑すべきではないか。 悪い一生ではなかったぞ。」
p394 天禄3年(972)9月11日 70歳。
「なむあみだぶつ」 か細い声が息とともに漏れ、それが次第に間遠になっていく。
--息精(いき)は即ち念珠。