国境をなくすために

戦争をしない地球の平和を求めるには、国境をなくすことが必要と考えました。コミュニティガーデン方式を提案します。

『千 利休』 童門冬二著  PHP研究所、1996

2024-07-15 11:25:48 | Weblog
C 国境をなくすために → 歴史

(冊子『国境をなくすために』の送り状は2007年10月22日にあります)
   (ブログ『国境をなくすために』の趣旨は2008年10月15日にあります)



『千 利休』童門冬二著

童門冬二氏の『千 利休』は、武田信玄、朝倉義景がいて、、織田信長が堺の商人の利休の茶の湯のもてなしをうけて、これを利用して、勢力を伸ばすことを思いつき、足利義昭を奉じて京都へと天下への道をまっしぐら、、利休としては、続く秀吉の時代の茶頭として政治の中心にいながら、堺の町で培った「まちびと」(今の民主主義)の考えかたを主張したい、、この信念を戦国時代の歴史の中で確認してゆく利休の人生を紹介してゆく本でした。

”利休居士”の号は1585年(天正13)64歳の時に、秀吉が関白になったお礼として京都御所内で亭主となり禁中での茶会を催した時、無位無官で御所に上がる資格がないため秀吉の工作によって、それまで宗易と名乗っていた利休が「一日限りの条件をもって利休居士の号を与える」と天皇からお言葉を賜った。 利休はその後もこの居士号を名乗りつづける。(p39)

8代将軍足利義政に仕えた同朋衆の一人、田中千阿弥が利休の祖父。 利休が信長に、にじり口から入る茶でもてなした時、信長が、戦士の恩賞として茶道具のランク付けと茶会の開催権利を持ったシステムを考えつき、、秀吉は、わび茶を好まず大名茶へいざなう心持のなかで、利休は利休の茶道を確立したかった。 そんな流れとともに戦国時代の大名たちとの関わり方を述べる歴史背景が興味深い。

*** 話が前後するので簡単な年代メモ ***

室町幕府8代将軍 
 足利義政 1443~1473         祖父 田中千阿弥(同朋衆)
        1467応仁の乱 始まる
             能阿弥 『君台観左右帳記」・・東山文化台子茶   空海
        1480 芸阿弥 50歳「幕府山水図」            ↓
             相阿弥                    北向道陳
            (親子三代阿弥衆)    父 千与兵衛(堺で魚屋)
                     1522利休生まれる(堺の今市町) ↓                       
                         茶を教わり武野紹鴎を紹介される
 村田珠光・奈良派(1423~1502)
   ↓
 藤田宗理や十四屋宗悟
   ↓
 武野紹鴎・堺派(1502~55急死)                
1540 利休17歳を弟子にする 

1550 堺へザビエルが来た   
     
織田信長に利休自宅の「市中の山居」の躙り口から入ってもらい茶を差し上げる
1568 信長が足利義昭を奉じて京都へ
1573 室町幕府滅亡
1582 本能寺の変(信長自殺)
1585 「利休居士」の号を賜る
1592(文禄元年2月末) 利休切腹
 ー    ルソン助左衛門(納屋助左衛門)の葉茶壷50コ 
1595 2月7日 蒲生氏郷の死
                    ******   メモ終わり

堺の町に外国人が往来し始めたのは1550年(天文19)フランシスコ・ザビエルが上陸した時に始まる(p60)鹿児島出身のヤジロー(武士、人を殺して海に追いつめられポルトガル船でマラッカまで逃げていた、従者を二人連れていた、ポルトガル語を学び入信していた)と知り合い、日本人はすばらしい民族と認識していた。

ザビエルのほかに、堺とかかわる外国人宣教師は、ガスパル・ヴィレラ、ルイス・フロイス、アンシャンドゥロ・ヴァリニャーノ、ルイス・アルメイダ、ニエッキ・ソルデ・オルガンチーノ、フランシスコ・カブラルなど(p63)だが、日本人観は様々。 カブラルは偽装的な国民と嫌った(p64) ヴァリニャーノは褒めた。 ルイス・フロイスはリスボンで生まれて信長、秀吉など近畿地方の多くの大名と接触があり「日本史」を書いた。(p70)「日本とヨーロッパの風習の対照」として61もあって、例えば
・我々は、挨拶は厳粛な顔で行う。 日本人はいつも必ず偽りの微笑で行う。
・ヨーロッパでは言葉において明瞭さが求められ、曖昧さを避ける。 日本では曖昧なのが一番良い言葉であり、最も重んぜられる。
・我々は、別れる時とか、外から帰ってくると、抱擁するのが習わしである。 日本人は全くその様なことはしない。 むしろその様なことを見ると笑う。
・我々の書物の最後の頁が終わるところから、日本人の書物が始まる。
・我々は、いろいろな音響の音楽を響きが良く快いと思う。 日本のはただ単調に鳴り響くだけで、全くもってぞっとさせられる。
・ヨーロッパの貴人は、夜に寝て昼に楽しむ。 日本の貴人は昼に寝て、夜に宴会や娯楽を行う。
・我々は人を殺すことは恐ろしいことであるが、牛や鶏や犬を殺すことは恐ろしくない。 日本人は、動物を殺すのを見ると肝を潰す。が、人殺しはありふれたことである。
・我々は自殺は極めて重罪とみなされる。 日本人は戦いにおいて、最早力尽きた時、切腹することを勇敢とみなす。
・我々は食事をするのにひどく音を立てたり、葡萄酒を最後の一滴まで飲み干すのは卑しいことだとされている。 日本人は、そのどちらも立派なこととみなしている。
・我々は招かれた者が招いた者に礼を言う。 日本では招いた者が招かれた者に礼を言う。
・我々は、食卓で、客の前でゲップを吐くことは不作法とされる。 日本でははなはだ頻繁にやることで、全然気にしていない。
・我々は食後に歯を清める。 ところが日本人は顔を洗う前に歯を磨く。
・我々は、誰かが酩酊するとそれは大いなる恥辱であり不名誉であると考える。 日本ではそれを自慢する。
・我々の死者は顔を上に向けて横たえられる。 日本の死者は座らされ、顔を膝の間にして縛られる。
・我々は死者を埋葬する。 日本人は大抵死者を焼く。
・我々はすべての物を手で食べる(この頃のヨーロッパ人はまだフォークやナイフを使っていなかった)。 日本人は男女とも、幼児の時から二本の棒で食べる。
・我々は焼いたり煮たりした魚を好む。 日本人は生のままで食べることを喜ぶ。
・我々は、甘い物が大好きだが、日本人は塩辛いのを好む。
・我々は食事のはじめと終わりに手を洗う。 日本人は食物に手をふれないから、手をあらう必要がない。
・我々は葡萄酒を冷やす。 日本では酒を温めて飲む。
・我々は自分が飲みたいだけしか飲まないし、他人に強要することもない。 日本ではひどく無理にすすめ合う。 そのためある者は吐き、ある者は酔っ払う。
・日本の女性はあまり純潔を重んじない。
・我々は二十歳の男でもほとんど剣を帯びない。 日本では十二、三歳の少年も刀と脇差を帯びる。
・我々の子供は青年になってもまだ使者になれない。 日本の子供は十歳でもそれを果たす判断と賢明さにおいて五十歳にも見える。
・我々は俗人の教師に付いて読み書きを学ぶ。日本では全ての子供が僧侶の寺で学習する。
・我々の子供は、まずはじめに読むことを習い、ついで書くことを学ぶ。 日本の子供はまず書くことからはじめ、その後に読むことを学ぶ。
・我々は息子は親の死にともなって相続する。 日本では親が息子に財産を渡すために生前非常に早く引退する。
・我々の女性は顔に化粧品や美顔料が目立つならば、不手際とみなされる。 日本の女性は白粉を塗れば塗るほど美しいとみなす。
・我々は、夫婦の間で財産は共有である。 日本では各々が自分の分け前を所有しており時々妻が高利で夫に貸し付けている。
・我々は、妻を別離するこはそれが罪悪であることはともかく、最大の不名誉である。 日本では望みのままに幾度でも離別する。 そして女性たちは、それによって名誉も結婚する資格も失わない。
・我々は、妻は夫の許可なしに家から外出しない。 日本の婦人は夫に知らさず自由に行きたいところに行く。 

九州の平戸や長崎へヨーロッパ人が来ていたが、堺商人はそれを堺へ誘致して財力を得て自由都市を実現した。

p81 利休は1522年堺の今市町で生まれた、父は魚屋と納屋貸業を営む千与兵衛、母の名は伝えられていない、祖父は田中千阿弥といって、八代足利義政将軍に仕えた同朋衆、応仁の乱で将軍義政は細川勝元に味方、反乱者とみられた山名宗全に心を通じた千阿弥は堺に亡命して、商人になり財をなした(p83)堺が外国貿易で自由都市として発展してゆく中で、商人グループは、信長派と反対派に分かれたが、利休は武野紹鴎に学んだ「茶」によって中立の立場を得た。 利休は強靭な精神で「自分は、まちびと(市民)である」と考えた。(p87)

p103 ヨーロッパの市民と日本の阿弥を合体させ、「両者が求める新しい茶」として「茶道」を設定したのである。

おれは海のまちびとだというルソン助左衛門は「生活の道具にも、茶の湯で求める美が潜んでいる」という、既に亡くなった利休の考えを自分の商売に取り入れ(p124)50コの葉茶壷を秀吉に見せ、秀吉もそれにのり、大名たちに売りつけて大儲け、堺の家を豪壮な屋敷に建て直し、中に入れた調度品も破格の物、秀吉の誘う茶会にも出席せず、その内に怒りをしずめることができないだろうとの忠告をうけ、財産処分をして船に積み込み、一部は大安寺に寄進して海外へ去った。
カンボジアの日本人町の首領となり、1607年健在と鍋島文書に記述があるという(p136)

利休は「自分が唱える侘茶こそ、まちびとの考えを表し、それを実行する道なのだ」
「自分のこの考えを、茶を通じて分かってくれる人々は、一体誰だろう?」(p137)

「利休七哲」古田織部、細川忠興、蒲生氏郷、瀬田正忠、芝山監物、高山右近、牧村兵部

p143 蒲生氏郷は織田信長の婿、秀吉は恐れ「会津へ行け」。 利休が天正19年2月末、切腹したあと利休の養子・少庵が会津を訪ね、氏郷は少庵を守りぬいてやると。 
氏郷はその後、京都へ行って急死してしまう(1595年2月7日、40歳(p149) 

p150 利休はどれだけの人が俺の”まちびと”の精神を理解しただろうかと思う。 利休が最初に茶を学んだのは北向道陳、同じ堺の商人で家も近い。 道陳の紹介で同じ堺の茶人・武野紹鴎の弟子となった。 流れとしては北向道陳は貴族茶の開祖と言われた東山派の茶人・能阿弥(元は越前守護代朝倉家家臣)の弟子・空海に学んだ人。 能阿弥は東山御物の整理を行いながら『君台観左右帳記』(掛物の掛け方、花瓶の配置、床や違い棚に置く道具の組み合わせメモ(p151)にまとめた。

将軍足利義政のもとで、能阿弥→芸阿弥→相阿弥と三代に渡る「阿弥の精神」→空海→北向道陳→利休に強く流れた。(p158) つまり東山派で台子茶や書院茶を中心とする貴人の茶。 武野紹鴎は奈良派の村田珠光の孫弟子で、堺派。 武士や商人階級にも及んでいった。 千利休は東山派・奈良派・堺派のそれぞれの道を学んだ。(p158)

紹鴎は30歳まで連歌師だった。 茶道の極意を知って名人となり「歌の極意は、稽古と作意」 茶の極意も同じではないか、それなら未開分野の茶の道に新しい自分の道を開くことが可能ではなかろうか、つまり、茶の極意も「稽古と作意」だ。 武野家は皮革業者として富をなした。 1540年17歳の千宗易を茶の弟子にとった。(p163) このころはまだ、武田信玄や織田信長たちは少年時代で、その父武田信虎や、織田信秀たちが近隣諸国を荒らしまわっていた時代、天文24年(1555)10月23日に武野紹鷗は突然死んだ。
紹鴎は最後まで歌の精神を茶の極意に生かすことを忘れなかった。 弟子の利休にもよくこう言った。 「定家卿は、 ’いつわりなき世なりけし神無月 誰がまことよりしぐれそめけん’ と歌われたが、これは定家卿ならではのことである。 誰がまことよりというのは、心も言葉も及ばないところを的確に詠み当てられておられる。 茶の湯というのは、閑居して物外を楽しんでいるところへ友人がやって来た。 そこで茶を点ててもてなし、なには無くても花を生けて、主客ともにその心を慰めるのが本来の姿なのだ」 そう言って、「侘びの要点は、正直に慎み深く奢らぬことをいう」と教えている。(p164)

p166 利休は今まで果敢に現実の中に溶け込み、その中に潜む難問題に真正面から向き合ってきた。 「現実の難問に立ち向かい、鮮やかに解決してゆくのが、本来の茶の極意ではないのか」「自分の唱えるまちびとの精神なのだ」と定義づける。 権力で芸道がいかに左右されてきたことか。 堺の町も一時期は「自由都市」として、しかし、道陳や紹鴎のように隠遁ではなく、「隠遁の精神は、私の茶の極意ではない」、秀吉という権力に、たった一人で反乱して、最後まで己を守った。
室町末期に、阿弥といわれた社会的低位者が、足利義政によってその技能を愛でられ、また活用された。 それによって、東山文化といわれるものが次々と築かれた。 足利義政の権力と財力によってつくりだされたもの。

外国人宣教師からきいた「ヨーロッパにおける市民」の姿は、権力に対して独自な考え方を持っている。 市民という存在は日本にはない。 王や諸侯さえ窮地に追い込む力を持っている、それは、市民一人ひとりの自覚がそうさせるのだ」 織田信長も利休のこういう観点の持ち方に目を輝かせた。 市民という言葉を「まちびと」という言葉にした。

誰が自分の茶を理解したか?

p173 博多の鳥居宗室に、信長は本能寺で名物を見せたが、未明に明智光秀が襲ってきて、信長が火をつけて自刃したとき、脱出する際、床の間に掛かっていた「一切経千字文」を持ち出し東長寺に寄進した。 博多での茶会で利休は宗室と入魂の間柄になったが、権力に背いた者として冷遇された商人の末路。

p192 幽斎と三斎。 三斎(細川忠興)の父の幽斎(細川藤孝)は、三河地方の足利一族、1534年に京都で生まれて学問や和歌を学び5歳のとき細川常元の養子になった。 殺された将軍義輝の旧名義藤から一字をもらった藤孝は、信長が光秀に殺された直後、頭を剃り、幽斎と号した。
藤孝は義輝が殺されたとき興福寺に幽閉されている覚慶様を救い出し、次期将軍に押し立てようと志し、二人は流浪の旅に出た。 覚慶はのちに足利義昭と名乗り、室町幕府最後の将軍になる。「放浪将軍」と呼ばれている。 越前の朝倉殿を訪ねよう、そこに寄食していた明智光秀と入魂、朝倉殿は天下を望む志がない、風雅一途が望みの人、尾張の織田信長殿が義昭様を支えてくださるかも。 足利義昭は織田信長の力によって見事将軍のポストを占める(p200) 義昭は次第に、織田信長は自分を馬鹿にして仕方がないと、諸大名に彼を滅ぼせの手紙を出す、藤孝も光秀も落胆した。

p211 明智光秀が織田信長を殺した時、細川藤孝は息子の忠興と共に丹後国にいた。
p223 仕事人間ではない幅の広さの幽斎は風流心によって何度も危機を突破した経験から、息子忠興に歌を詠めとすすめるが、息子は才能がないからと、利休を師として茶の道に励んだ。
p225 古田織部は頓智と反権力志向。豪快な風流大名で、織部流を定着してゆく。
p237 「千利休は、茶室を政談や密謀の場として利用している。 彼があそこまで伸し上がったのは、茶を政略に利用して秀吉のご機嫌を伺ったから」と言われていた。
「茶をもって、政治権力に対抗するまちびとの立場を確立することができる」と思っていた。
p250 遺言の歌: 利休めはとかく果報のものぞかし 菅丞相になるとおもえば
            俺は果報者だ。菅原道真様と同じ立場になる
p251 偈:   人生七十 力い希咄 吾這宝剣 祖仏モ共ニ殺ス 
          提ル我が得具足の一太刀 今此時ぞ天になげうつ
                                ほうせん斎利休

こうして戦国末期に現れた日本で初めての”まちびと”千利休は、自ら自分の命を絶った。
七十歳であった。


追記
「一期一会」 

p58 「その人間にとって、生涯にたった一度しか会えない人間」とそのチャンス(機会)を言う。 しかし茶道では、そんな型にはまった考えではなく、「毎日顔を合わせている馴染みの人間でも、その日はじめて会った時は、生まれてはじめてこの人に出会ったと思い、また用が済んで別れを告げる時は、もうこの人とは二度と会えない、と思う気持ちで出会いを大切にする」ということだ。
だから茶室内で、亭主と客が遭遇し、亭主が茶を点てる時は、
「心の限りの奉仕精神を尽くす」
ということである。 また茶を受けた客の方が、
「結構なお点前でした」
と礼を言うのは、これもまた、「亭主の奉仕に対する精一杯の感謝の気持ち」
を表す行為である。 したがって、両者の間にすさまじい緊張感が生まれ、奉仕と感謝の念が宙で激突する。 その緊張感を利休は、狭い茶室で表したかった。 かれが「侘び」と称して、室町期の大名や公家や僧侶などがやって来た台子式の茶を、侘びを芯にした茶に変革して行ったのは、そういう思いがあったからである。

台子式の茶には、まだゆとりがあり遊びがあった。 その一切を利休は排除した。 人間ギリギリの精神でぶつかりあう場が、茶の席だと見たのである。

が、天下人になった秀吉は、次第にそういう利休の茶に疎ましさを感じはじめていた。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『大番』 | トップ | 『正妻』慶喜と美賀子 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事