国境をなくすために

戦争をしない地球の平和を求めるには、国境をなくすことが必要と考えました。コミュニティガーデン方式を提案します。

「またも辞めたか亭主殿」

2024-09-04 17:29:55 | Weblog

C 国境をなくすために → 歴史

「またも辞めたか亭主殿」

2003年のテレビドラマ 「またも辞めたか亭主殿」幕末の名奉行小栗上野介 が再放送されました。

前編・後編で、最後は、小栗上野介42歳 享年 と出て、画面はグレー。

いっときおいて、明治4年完成の横須賀造船所の石の階段の所で、くに子と名付けられた娘がヨチヨチと飛び回り、小栗上野介夫妻と3人の巡り合い、できないと思っていた造船所が出来たと、静かな喜びの場面で、白いチョウチョが空にむかって飛び、終わりました。
遠くまで行くんだと、娘を抱き上げました。

私が、当時から感じていたことでしたが、 ”小栗は水無河原で処刑されていない。 別の誰か囚人のような人が、身代わりになっていた。 小栗は、会津戦争から蝦夷地北海道への転戦に混じり、甲鉄船で、五稜郭で戦った武士たちと共に、アメリカへ渡った。”

小栗はすでに、10年前に、ハリスの日米和親条約のあとの幕府派遣のもと、遣欧使節団(77人)で、サンフランシスコ、パナマ運河、ワシントン、大西洋を渡って、奴隷船なども見て、外国を体験している地球を一回りした経験者です。 さらに、待ち望んだ赤ちゃんがお腹に居るとわかったばかりの時です。 ムザムザと新政府軍の処刑に応じるはずはありません。

私の想像では、五稜郭の武士たちと共に秘かにアメリカへ渡ったあとは、日本の明治維新を海外から助言・補佐を続けたと考えます。 日本国内では、勝海舟(遣欧使節の護衛艦としてサンフランシスコまで行って戻ってきた遣米施設に同行している)、徳川慶喜(表立っては渋沢栄一)の3人が、きちんとタッグマッチを組み、新政府とともに明治時代を築いていったと、教科書の歴史とは違う真実があるのではないかとの考えが、私の中では確信に近くなっています。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『正妻』慶喜と美賀子

2024-09-04 17:20:24 | Weblog
『正妻』慶喜と美賀子 上下巻 林真理子著 講談社、2013

歴史小説は面白いので、時間があると図書館で偶然みつけた本を読みます。

今出川家(琵琶の家)の延(のぶ)は、父が亡くなり兄が禁裏の楽団に加わって奉仕、西陣の織元の娘が実母で、身分が低くて側室になれず、病弱なこともあり町人に戻り、のんびりと暮らしているので月に2,3度養育者の萩乃と母に会いに行く。 6歳までは大原の地主の家で里子、野山を駆けまわり健脚、今出川家に引き取られ言葉、和歌、学問、書、成人の儀をむかえて、元小浜藩士の富良太(とらた)が外出にはつきそってくれる。

一条家の娘千代君(11歳で、一橋家に入った慶喜の婚約者だった)が疱瘡のあばた顔になった。 急遽、成人の儀をむかえても婚約の話がない延が、隣家の一条忠香の養女一条美賀子となって、代わりに一橋慶喜に嫁ぐことになった。 慶喜より2歳年上だが年回りは良いという。 一条家から宮路が従き、仕える。

正妻としての美賀、宮路、萩乃のチームの目で、15代将軍徳川慶喜となる前の大奥の雰囲気、武家の思惑、公家の振舞い方、明治維新成立前の外国とのからみ、様々に丁寧にわかりやすい。
江戸火消の新門辰五郎と娘お芳が、常に慶喜のそばにいて大阪城脱出など明解に説明しているのが新鮮。
明治維新後は、バリ万博で徳川昭武に随行した渋沢栄一が西洋の見分知識を活かして新政府に上手にかかわりながら活躍した様子をうかがわせました。

時代をじっくりと見据えて、登場するそれぞれの個人は、どうあるべきかと、それぞれに考えたのだと、よくわかりました。

p206(下巻) 美賀はいっときの間、父と呼んだ今は亡き一条忠香のことを思い出す。 そしてあのお方は時代の転換期でさまざまな手をうっていたのだと考えずにはいられない。 まず娘を将軍の妻にしようとした。 本当の娘が疱瘡にかかるやいなや、今出川家の自分をすばやく養女にしたのである。 忠香は5年前に亡くなったが、その時寿栄君は15歳であった。 すでに天賦の才と美貌ははっきりとみてとれたであろう。 この娘は次の天子さまの后にと、忠香は息子に託したに違いない。 忠香の読みはあたった。 今、新しい天子さまは権力の中枢にいる。 そして自分は敗れた側の大将の妻である。 恨むつもりはまるでないが、今この運命に対して一条家は複雑な思いを抱くべきなのだ。 だから美賀は現当主実良に向けて長い手紙をかく。 そして同時に、美賀は慶喜にも手紙を書く。

美賀子35歳、慶喜33歳(はつらつとして)、駿河へ。 明治2年、新門辰五郎が徳川の金2万両を水戸へ運び出したことにより、多くの者が、静岡へのがれることができた。 お芳はお囃子方の男について金沢へゆく、新門辰五郎は御作事火防方として静岡藩の正式な役人。 慶喜は側室から13人の子、美賀子は母性、慶喜は写真、絵、猟、刺繍、自転車。

p241 「わしたちは、ここで生きるしかない。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする