国語屋稼業の戯言

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融合文について 実戦問題編

2022-07-28 10:16:05 | 国語

次の短歌とその鑑賞文を読んで、あとの問いに答えなさい。

   題知らず              紀 貫之

A 初雁のなきこそ渡れ世の中の人の心の秋し憂ければ

   (初雁が【 甲 】ながら秋の空を渡っていくように、私も泣き暮らしている。あの人の心飽きを知らされたのがつらくて)

   題知らず               詠み人知らず

B 時雨つつみづるよりも言の葉の心の秋にあふぞわびしき

   (時雨がきて木々の紅葉する秋もわびしいが、人の心に飽きがきて、あれほどに頼みにさせた言葉が褪(あ)せてゆくのを知るのは【 乙 】わびしい)

 

 同じ「心の秋」を詠み込んでいても、AとBの間には、歌の時空を重層という点での開きがあり、「心の秋」に「言葉の秋」をつないだ工夫は、単なる修辞の例としてではなく、①古今集の歌人が、人の心と言葉との関係にどこまで踏み込んでいたか、その認識のあらわれとして私にはうつる。

 「言葉の心の秋にあふ」という言い方を支えているのは、「言葉の秋」はすなわち「心の秋」のあらわれだというのだという見方、ここで「言葉」と「心」は、前後上下の関係ではなく、対等の関係で見られている。それもきわめて自然に。古今集の【 丙 】に。紀貫之が、「やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」と記してこのかた、心と言葉の関係についての問いは、やまと歌の理論的研究の題目の一つであり続けた。

 歌を、ただのどかに詠み出していればよい時代が過ぎて、歌の歴史や表現の方法、効果などについて考え論じることが、詠むのと同じくらい重要になってきた中世歌壇での「心と詞」についての考究は、藤原俊成、定家、順徳院の歌論の大切な部分を占めている。その上、中世において画期的な分析帰納の進化をみせた。歌学歌論としての「心と詞」の論は、論者の意図をはるかにこえて、日本文学における心と言葉の問題として、後代の文章論、表現論、創作論に末永いかかわりをもつことにもなった。

 現代人として小説や評論を書きながら、何かといえば「心と詞」の論を読み返してきたのは、現代の日本の読み書きが、やまと歌の歴史の外にはなく、先人の「心と詞」についての諸論は、日本語による表現と言う共通の苦楽の現場からの声にほかならず、そこに経験の呻(うめ)きを辿(たど)りたいと思っていたからである。おのずからの示唆、啓発を待つ気持ちも少なくはなかった。

 しかし実際には、理解できない部分も多いし、日本語の歴史の短くも単純でもないことを今更のように思い知らされるだが、それでも反撥(はんぱつ)と共感との間を揺れながら各人各種の経験にひき入れられていくということを繰り返してきた。つまり、いつ読み返し始めても、「心と詞」の論は読まされてしまうのである。

 「心・詞の二つは鳥の左右の翼のごとくになるべきにこそとぞ思うたまへはべりける」と、『毎月抄』に記している定家は、同じ文章の中に「「心を本として詞を取捨せよ」と亡父卿も申し置きはべりし」と父の俊成の姿勢を伝え、自分もどちらかを選べと言われるならば心、「心の欠けたらむよりは、詞のつたなきにこそ侍らめ」とも述べている。

 これは、順徳院の「歌も心を本として、その上詞をもとむれば、自然にやさしきこともあるなり」(『八雲御抄』)とも通じる部分である。

 しかし、「歌の大事は、詞の用捨にて侍るべし」(『毎月抄』)と言っている定家に「詞」は「心」の次にしてよいという考えはあるはずもないので、あくまでも、感じる心のないところに鳥の両翼のような心と詞の緊張関係は望めないという、方便としての強調であったと私は見たい。

 その著『排蘆小船(あしわけおぶね)』の中で「歌のよしあしは多くは詞にありて情にありて情にあらず」「この故に詞をととのふるが第一といふなり」と言っている本居宣長にも、俊成、定家らの「心と詞」の論は当然考究の素材になっていたと思われる、表現行為の分析帰納としては、定家の穏やかな調和感覚が思いきりよく砕かれて先鋭化している。宣長は「心」を決めるのは「詞」だ、とまでは言っていないが、定家のいう緊張関係は結果として認めざるをえないとして、「心」の分明も不分明も、さし当っては「詞」で探られ、「詞」が定められていくというのが宣長の言いたいところだったとすれば、これはこれで言葉を用いる創作現場の者に耳をかたむかせる説だと言えるだろう。

 この頃になって思うのであるが、「心」と「詞」の論としては、物足りなさもありながら、最もととのったものを残した定家も、威勢よく先人に反抗した宣長も、それほど隔たった次元を発見したのではなかったろう。【 丁 】的でもなければ永続的でもない言葉との関係で成り立つ一回きりの表現について二人の感受と思考の二種の誠実は、その誠実さゆえに今なお後代を刺激し続けている。

 中世と江戸の論者が、分析と帰納の対象にした「心」と「詞」の関係を、論じてではなく、詠み出すことで表現の素材にしているのが古今集の歌人である。「時雨つつもみづるよりも言の葉の心の秋にあふぞわびしき」における「言の葉の秋」と「心の秋」とのなめらかな提携には、相対的で非永続的な言葉と、同じように相対的で非永続的な心との対等視があり、「言の葉の秋」のみをうたうよりも、「心の秋」ひとつをうたうよりも、深く心と言葉の関係に踏み込んだ直観の軌跡をそこに読むことができる。

(竹西寛子『古典を読む 古今和歌集』より)

 

 

問一 Aの和歌にある「渡れ」の活用形を漢字で書きなさい。

問二 (1)Aの和歌の訳文にある【 甲 】に入れるのに最も適当な言葉を二文字で考えて入れなさい。(2)また、(1)を解答する際の根拠となる和歌の表現技法を漢字で書きなさい。

問三 Bの和歌の句切れを指摘しなさい。

問四 【 乙 】に入れるのに最も適当な語を次の中から選び、記号で答えなさい。

 ア 非常に  イ 本当に  ウ やはり  エ もっと  オ とても

問五 【 丙 】に入れるのに適当な語句を漢字三文字で書きなさい。

問六 傍線部①「古今集の歌人が、人の心と言葉の関係にどこまで踏み込んでいると考えていたか」とあるが、筆者は、AとBのどちらが「心と言葉の関係に」より踏み込んでいると考えているか。A・B両方の歌から適当な語句を引用しつつ、理由を付して説明しなさい。

問七 作者の解釈における宣長の主張として妥当なものを次の中から選び、記号で答えなさい。

ア 感動と言う前提があって、その結果として言葉が出てくる。和歌はそれを定型にいれたものである。

イ 普段、使用する言葉は、からごころに汚されたものであるので、和歌に使用する言葉くらいは、いにしえの美しいことばを用いるべきであり、心情をありのままに表現することに注意しなくてよい。

ウ 和歌において、心と言葉は緊張感のあるバランスが必要なものである。だが、和歌を作る者は言葉にこだわりすぎるきらいがあるので、心を中心にして、言葉を取捨選択するのが良い。

エ 和歌は言葉を重視すべきである。ただし、心を明らかにするものは、言葉であり、言葉が心の内容を探求し、決定していくからである。

問八 【 丁 】(二か所ある)に入る単語を自分で考え、二文字の熟語で書きなさい。

 

 

 

※コピペして縦書きで解くのを推奨します。

 

融合文について 実戦問題解答解説編はこちら

 


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