http://d.hatena.ne.jp/bluesy-k/20060502/iden
だが「全ての」遺伝子組み換え反対は宗教的であるといえるか。
上のエントリで言及されているのは農業における改良なんて何らかの意味における「組み換え」によって成り立っているということであるが、種の掛け合わせと遺伝子操作を同列に扱うことは論理に飛躍があるように思う。遺伝子の情報と発生・形成がどう関連づいているかがわからない限りは遺伝子操作の危険性は残る。
私を含むほとんどのGMO容認派は、GMOが絶対安全だなどと主張しているわけではない。「非GMOと同程度に」安全だといっているのである。「遺伝子の情報と発生・形成がどう関連づいているかがわからない」のは、人工的な遺伝子組み換えが施されていようがいまいが同じである。
というわけで、上記エントリーへの反論としては、文脈上「種の掛け合わせと遺伝子操作を同列に扱う」ことに論理に飛躍はまったくないということになる。
GMOも非GMOと同じ程度に安全と見ることができ、またGMOも非GMOと同程度にはリスキーであるということだ。後者についてはブクマでコシヒカリのことを紹介している人がいる。まあ、そういうことだ。
逆にここがGMO反対派の論理の一貫していないところなのだ。彼らが言うGMOの危険性は、どれもこれもがGMO固有の属性とは無関係であり、GMO批判の根拠になりえないものばかりである。繰り返すが「何がどうなっているのは分からない」のは、人工的な遺伝子組み換えが施されていようといまいと、栽培種だろうと野生種だろうと、どの植物にいえることなのである。だから、「私はこれまで口にした経験のない食材は一切口にしません」と宣言するのであれば、それが現実的かどうかはさておき少なくとも主張は一貫しているといえよう。しかし私が見るかぎり、彼らに南蛮渡来の食品を口にすることを躊躇している様子はない。
こういうと彼らは、それらは長年食べられ続けてきて安全だという実績があるなどと反論する。だが、黒人や白人には大丈夫でも黄色人種には甚大な悪影響を及ぼす成分が含まれていないないなどとどうして確信できるのだろうか?
だいたい彼らと議論すると、話がこの辺まで来た時点で彼らは個人攻撃にシフトし始めるのが常である。人を病人扱いし始めるやつとか、議論のイロハとやらを講釈し始めるやつとか、いろいろある。そして、よくあるのが「モンサントの回し者」扱いする反応なのだ。
モンサント社は農薬耐性GMOとかを精力的に研究している会社。だがモンサントがそういう研究をしている存在であるということとGMOそのものの安全性とは全く別の事象である。なぜか彼らはその辺が全く理解できぬらしく、すぐにモンサントを持ち出して攻撃を始めるのである。本当に非論理的な人々なのだ。
かれらの反応は息子の洗脳を解こうと乗り出してきた両親を「あんたはサタンだ」と呼ばわる統一教の信者の反応となんら変わるところがない。
宗教であるといったのはそういうことである。
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