おいおいおい。この「手口」はかつてより「原理」こと「統一教会」が採っていた手法と同じじゃないのか。すなわち、少なくとも25年前には登場していた手法だ。それが今になってもまだ「手探り」とは?
カルト「摂理」、全国50大学で信者獲得 (朝日新聞) - goo ニュース
一方、各大学では、カルト集団への対応が主に「信教の自由」を理由に後手に回ってきた。「摂理」について情報収集に乗り出す大学も出始めたが、学内のポスターで注意を呼びかける程度で「まだ手探り」(千葉大)なのが実情だ。
明治学院大(東京)は30日、「摂理」などカルト集団への対策を考える勉強会を初めて開く。担当者は「危機感はあるが、有効な対策があるのかどうか……」と悩む。
オオムの大騒動では過剰反応で入学拒否問題などもできている。要するにヤバイものを初めから取り込まないでいることには熱心であるが、身内に取り込んだ後でヤバくなってしまったものをコントロールする能力は全くなく、磨こうともしなかったということなのか? なんとも中途半端な!
「学生をあくまでもオトナとみなし、大学は学問なり実務能力なりを磨くことにのみ責任を負い、それ以外のは全て学生の自己責任として大学は一切関知しない」という姿勢を貫けばいいのではないか。
もちろん大教祖の息子娘であろうが、所定の学力があれば入学を認める。能力を伸ばすチャンスを可能なかぎり多様に提供する。一方で学業をおろそかにしているようならさっさと放り出す。いわゆる生活指導的なことは一切行わない。学生が広島の千羽鶴をいくら燃やそうが大学とは関係ない。批判されるべきは学生個人のみ。それでいいではないか。
どうも大学の学生指導というのはどっちつかずでいけない。理念ではなく教職員の保身やブランド保持のようなものを第一に考えて場当たり的にしのごうという意識が見え隠れしている。
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