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新・非公正ブログ



「種の壁」も非常によくあるポピュラーな論点で、物申したい部分はあるがおそらく理解は得られまい。「宗教家の公理」と言われてはこれ以上話を接ぐ気にもなれない。こちらはこちらで「三流科学者の公理」を粛々と押し通すより他ないようだ。

ところで氏は、自分の主張はあくまで自分の宗教観だと明言している割りに、舌の根も乾かぬうちに「僕ら宗教家」などとおっしゃっているのだが、結局のところどうなんだろうなあ。

あと一点だけ反応しておく。

http://tsukigage.seesaa.net/article/18620729.html

(前掲ブログより引用開始)
それと、倫理の話と経済の話と科学の話と、次元の違う話をごっちゃにするのは良くないと思う。
(引用終了)

 次元が違うとお考えになるのはご勝手ですが,それではただの専門○○。様々な見地から物事を俯瞰することも大事だと思います。もちろん,僕の知識・理解が浅い事は自覚していますよ。


様々な見地から物事を俯瞰することが大事なのは論を待たない。私はそんなことを否定しているわけではない。「話をごっちゃにするな」といっているのである。唐突に違う話をもちだすなっていうこと。どうもGMO反対派の人は「安全性」の話で反論できなくなると「自然の摂理に反するな」と言い出し、それでは自然の摂理とは何か説明して見せろというと「モンサントの独占を許すな」と話をそらす(そういいながら国内の研究の足を引っ張ったりしているのだから矛盾もいいところだが)。そういう傾向が顕著であるように感じる。

だからいつまで経っても話が進展しないのだ。複眼視点を持つことは論理を混乱させることとは違う。


↑B
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http://d.hatena.ne.jp/ayokoyama/20060525/p1

プレインテキストでメールすれば済むことなのに、もったいぶって Excel のファイルが添付されてきて、中を見たらスプレッドシート上にテキスト枠が一つ貼られていて、そこに今週の予定が箇条書きされていた、なんてことは日常茶飯事です。

あと、知り合いの営業さんが商社から送られてきた PowerPoint 資料上の、売上計算表の計算が間違っているので修正しようとしたら、あろうことか計算表が画像を貼り付けたものなので泡を吹いてました。ダブルクリックしたら、画像編集ソフトが立ち上がってきたみたいです。オジさんじゃなくて若い商社マンだったみたいですけど。合掌。


この記事の趣旨、5年前の私だったら全面的に賛成したと思う。でも今の私は、この人の主張になんだか原理主義的なものを感じてしまう。

「プレインテキストでメールすれば済むことなのに、もったいぶって Excel のファイルが添付されてきて、中を見たらスプレッドシート上にテキスト枠が一つ貼られていて、そこに今週の予定が箇条書きされていた。」という状況にオブジェクションがあるのは私も同じだし、職場の同僚がそんなことをしたら恐らく一言物申すと思う。明らかに余計な手間がかかり互いに時間の損失があり、百害あって一利なしの手法といえる。


だが、「計算表が画像を貼り付けたものなので」の方は、私も積極的にそのようにしている。この点では私は泡を吹くほうが間違っているように思う。

だって、excelの表をpowerpointのページの中で大人しくさせとくのって、すごくめんどくさくない? レイアウトがぜんぜん思うとおりにならない。何か操作をするたびにいちいちレイアウトが予想もつかなかったような変貌を遂げる。視覚的なバランスをとろうとちょっと枠のサイズを変えただけでたちまち表の一部が視野から消失する。大汗かいて修正しなければならない。面倒だ。そう感じるのは私だけだろうか。

それに、プレゼン資料を作成したパソコンとプロジェクタにつながっているパソコンが別で、USBメモリに入れてファイルを移動させなければならないようなときに、参照もとの表計算ファイルも一緒に持っていかなければならず色々とチェックが面倒だ。画像にして貼り付けておけば後腐れがない。

そもそも計算結果の間違いを何でpowerpointの中で修正しなければならんのであろうか。大元のexcelの窓に立ち返って修正すればすむことではないか。そのためのマルチウィンドウなんだし。

なんて思うのはまだpowerpointに慣れてない証拠なんだろうか。毎朝毎朝前日の業績とその日の計画をプレゼンしなければならず鬼のようにpowerpointを使いまくっているような人にとっては私の主張はナンセンスに写るのかな?

しかし、ポワポは外向けの発表用、エクセルは内輪の処理用と分けて考えるならば、私の(そして泡を吹かれたオジサン)の発想のほうが本筋に近く合理的で実際的だと思うのだがどうだろう。

適材適所で目的に応じたソフトを使い分けることは大切だ。しかし、何をもって適材適所とするかはユーザーの立場によって多様である。プロのそれとアマのそれは同じとは限らないし、当然ながらマイクロソフトの想定したオフィスソフト間の情報共有スタイルに骨の髄まで付き合わねばならない義務は我々にはない。エンドユーザーからすればソフトを「正しく」使うことが目標ではない。excelを原稿書きやポスター作成に使うのだって、当事者にとって合目的性があるならばなんら問題はないのだ。

↑B
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私が書いたエントリー、「遺伝子組み換え反対は宗教であるということ
に関して、「時をかける僧侶」氏が反論をお書きになっている。

http://tsukigage.seesaa.net/article/18066669.html

氏は「人為的な」遺伝子組み換え技術による食物と,「自然的な」品種改良による食物をゴッチャにしていらっしゃるようです。ま,人間の都合で食物を変容させるという広義の意味で考えれば同じ「組み換え」だと言ってしまえるかもしれませんが,そうであると考えると,「遺伝子組み換え食品とは品種改良の進歩したものである」ということになります。ここが一つのポイントですかね。僕は「宗教家」なので,そのようには考えません。


やれやれである。もういい加減に「人為」と「自然」を自己都合で勝手に定義するのは止めてもらえないものだろうか。

ようするに「そのように考えない」ならどう考えて遺伝子組み換えを「自然ではない」とするのか、その点に関してこそ、きちんと論理を示してほしいのだ。しかるに氏はその点は完全にスルーで、唐突に倫理の問題に飛んでしまっている。

「実質的同等性」の話に始末をつける前にそちらの話に入るのは全く意味がないのだが。


(引用開始)
豊葦原瑞穂の国という言葉があるように,米(アメリカじゃないぞ)は日本の食品の象徴です。神代の時代から大事にしてきたのが米文化なのです。それを人為的で自然破壊的な科学技術である遺伝子組み換えなんぞで,たかだか花粉症の治療のために穢そうという。
(引用終了)

 日本人が自国の文化を軽視するのみならず,花粉症などという人類の退化による病症(昔は花粉症なんてなかったという事実から十分結論づけられるでしょう)を克服するために,あろうことか自然物の方に手を入れる,そういうことを推奨する産経新聞の社説を僕は批判したわけです。



「オレが花粉症になったのは花粉が悪いのだ。この花粉に打ち勝つために遺伝子操作をした食物を作って何が悪いのだ。」という思想は,僕のような宗教家にとっては見逃す事のできないものです。ま,純粋な科学者にとっては不思議でも何でもないのかもしれませんが,宗教家は「花粉症になるのはオレに問題があるのだ(昔はなる方が少なかったんだから)。オレの普段の行いを改めるべきなのだ」と考えるものなのです。これは「人類の福祉向上への営みに挑戦する恥ずべき姿勢」でしょうか?


ハッキリお答えしよう。間違いなく、恥ずべき姿勢である。

彼の前提には大きな問題がある。


花粉症などという人類の退化による病症(昔は花粉症なんてなかったという事実から十分結論づけられるでしょう)


昔は花粉症なんてなかっただって? なんでそんなことがいえるのか。医学の技術向上は治療技術の向上だけではなく病気の同定技術の向上をも含んでいるということを氏は理解できていない。要するに、花粉症は昔は気の病とか風邪とかで片付けられていた可能性が高いのだ。

もちろん戦後のスギ植林により、昔よりは患者数が増えているというのはおそらく事実だろう。それを人類の退化と呼ぶことはまあできるかもしれない(かなり違和感はあるけどね)。

しかし、これが患者の自業自得であるかのような主張には断じて賛成できない。というか、ふざけるなという感じである。患者らは好き好んで花粉症になったわけではない。こんな発想が宗教家のスタンダードな考え方であるというのだろうか。やはり私はいかなる宗教家をも許容することはできない。


退化した人類のわがままにつきあわせるために自然物に手をかけることこそ,僕は恥ずべき姿勢だと思います。自己反省と謙虚さを持ち合わせているかどうかということに尽きますね。


自己反省をいくらしようとも謙虚であろうとも病気になるときには病気になる。花粉症に限らず病気とはそういうものではないか。もちろん病気になる確率の高いライフスタイルというのはあるだろうが、だからといってその結果を自業自得のものとして「自然」に運命を委ねることを強いられる謂れはない。患者たちの多くは切実に病気からの決別を欲しているはずである。そのための新しい技術を開拓して何が悪いのだ。

そう。人類は昔から「自然物に手をかけて」暮らしてきたのだ。田畑の開拓はその最たるものである。氏の崇め奉る「コメ文化」とは組織的な自然改変の文化でもある。その結果として弥生人は急速に人口を増やして縄文人文化を席巻することとなった。これが氏のいう「神代の時代」(笑)におきたことである。氏にはその辺の認識ができていない。彼の定義する「恥ずべき」営みを否定することこそ、人がこれまで歩んできた歴史を否定するものである。恥ずべきはどちらの側か、結論は明白だな。


モンサントなどの巨大穀物商社が展開しているこの動きをマスコミもワッチしていないでしょ?


ああまたでましたモンサント。いや心配せんでもその会社について論じた書籍やwebページはいっぱいありますって。ただ宗教家の手による神がかり的言いがかり的な物が多く、冷静な論評は相対的に少ないかもしれないが。それと、倫理の話と経済の話と科学の話と、次元の違う話をごっちゃにするのは良くないと思う。


このエントリーは拡張extedit.jsによって作成されました。
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少子化対策「お見合い国営で」 猪口担当相 (朝日新聞) - goo ニュース

はあやれやれ。

これが想像力の限界ね。

過ちその1: 人は誰でも適当な相手さえいればすぐにも結婚したいと願っていると妄想している。



もちろん中にはそういう人もいるだろうよ。でも大部分の非婚者は、近くに立派な異性が沢山いるにもかかわらず、ずっと非婚であり続けているのだよ。

お見合い? なんですかそれ? ……というのが彼らの感覚さ。結婚生活そのものに関心がないんだよ。結婚して家庭人を演じている自分が想像できない。昔はそんな発想は当たり前のように異端と切り捨てられていたのかも知れないが、あいにくと今は21世紀なんですよ猪口先生。

過ちその2: 人は結婚しさえすればすぐにも子供を授かるものだと思っている。



なんでも産婦人科医不足で全国の病院でどんどん産科が閉鎖されているそうじゃないか。都会では子供を託児所に預けるのも一苦労。共働きは厳しい。でも旦那一人に生計を託していてこの世知辛い世の中で本当に大丈夫なの??

本当に少子化が問題だというなら、もっと本質的な部分を対策するべきだろう。でもそもそも少子化に対策が必要なのかね。もっと人口密度が減って、皆がゆったり広い家で暮らせるようになれば大いに結構ではないか。年金が破綻するとか言うが、人は年金のために生まれてきて生きるのではない。本末転倒な主張でまったく馬鹿げている。


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ちょっと興味深いブログを発見。

http://asatteblog.exblog.jp/485488

<2、愛国心の内容>

これについては「人間の尊厳とは何か。」という点にまで
遡る必要があります。
二つの立場があります。 (社会学者の宮台真司先生の分類)

(1) 崇高なるものとの一体化で得られる自尊心こそが尊厳だとする尊厳観と、
(2) 尊厳とは社会関係の中での自由な試行錯誤の積み重ねで得られる自尊心だとする尊厳観
です。

この二つの尊厳観のどちらの立場にたつかによって愛国心の意味が変わってきます。

(1)の立場では、
崇高なる精神共同体との一体化を愛国心であると考えます。(保守派が考える愛国心)
(2)の立場では、
自由な試行錯誤を支える公共財は血によって購われてきたものだからタダ乗りは許されないということを愛国心だと考えます。(リベラル派が考える愛国心)

私の立場は(2)の立場です。
(1)の立場は次で説明する「国粋」につながります。


うーん。

asatte_no_houkou氏がそういう捉え方をするのは自由なのであるが、(2)が「リベラル派が考える愛国心」と広く認知されているとは到底思えない。氏は、それは正しい理解が広がっていないだけであって是正すればよいと考えているようだが、私には現実的とは思えない。

専門家が専門家同士の議論をする場合なら、強いて「正しい」定義を共有する方向に持っていくことになるのだろうが、「愛国心」が主に議論の対象とされている場は「専門家の議論の場」ではない。そこにおいては「多数派の考える愛国心」こそが「正しい」愛国心だとするしかないのではないか。

どう転んでも、氏の考えるような「所属する社会を適切にドライブしようとする意欲」を愛国心と捕らえている人が「右」の人であれ「左」の人であれ多数派とは言えまい。どちら側の人も、暗黙のうちに(1)に近い定義を使って議論していると思う。

どちらにせよ、こんなあいまいな概念を前文であれ条文であれ法律の中に持ち込むことには反対せざるを得ない。あまりにも危なっかしすぎるだろう。氏の言う国粋と愛国がきちんと区別される保障は全くないどころか、混同される危険性のほうがはるかに大きいということは、最近の東京都教委の暴走ぶりを見れば明らかである。君が代は強制されないという当時の文部大臣の答弁にも関わらず、「国旗・国歌法」を根拠に国粋的な君が代賛美が事実上強要されており、それを支持する一定の保守派が厳然として存在する。この上で憲法などに愛国心という文言がもりこまれたらどうなるか。東京都教育委員会のように国粋に向かって暴走する腐った勢力が続出するであろうことは想像に難くない。
私は、
http://www.asahi-net.or.jp/~yg5t-ssgc/page004.html
の危惧に強く共感するものである。


asatte_no_houkou氏の言うような要求を満たしたければ、素直に「自分の住む社会を維持しようとする努力」といった表現を使えばいいのだ。手垢の付きまくった愛国心などという概念を持ち出す必要は全くない。要するに「愛」というのが外に出てくることが不適切。

その意味で民主党にはまたしても失望させられた。あの党は一刻も早く右派と左派に分裂すべきである。


↑B
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無関係な、しかも先人と全く同じ情報を「俺も俺も」とこうも連続して書かれては、全く百害あって一利なしである。情報として役に立たないばかりか、本題についてのコメントがあったとしても埋もれてしまうのだから、はっきり有害である。

レイアウトに文句をつけたいならサポートにメールを出したらどうかな? それが真っ当なユーザーの姿勢だと思うがね。

それはそれとして、新しい機能が付け加わると必ず「いらねー」と文句をつける人が出るのも理解しがたい。

貴方には不要でも、他の人は欲しがっていたかもしれないジャン。そういう視点はないわけ? たとえばアフィリエイトに手を出していてSEOなんていう概念に興味がある人とかさ。「人に読まれて何ぼ」とかいうけど、それが唯一無二の評価基準だと信じきっているというのも何だか窮屈すぎるのではなかろうか。

↑B
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さっそくLUMIX DMC-LX1で撮影。こういうときはマニュアルフォーカスのほうがいいようだ。

↑B
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交通博物館がもう少しで閉館するという噂はそれなりに広く認知されていたらしい。



とくに鉄道模型やシミュレーターのあたりのすさまじいこと。前方は黒山の人だかりである。しかもその黒山を構成する男性陣の全員が子供を肩車しているので、割ってはいることも、その黒山越しに向こうを覗き込むこともできやしない。



交通博物館は旧万世橋駅の施設を再利用する形で開館したもの。その名残は半世紀以上の時を経てまだ少し残っている。写真は、今は一部が休憩コーナーに回想されているホームへの階段である。壁で仕切られていて立ち入れないが、ガラス越しに昭和初期のままのたたずまいを見ることができる。博物館は廃止しても何とかこれらの施設だけは見学できるようにしていただけないものかと思う。受けると思うんだけどなあ。

万世橋駅はかつてまだかんだ駅や秋葉原駅が存在しなかったころ中央線(昔は甲武鉄道という私鉄だった)の終着駅であったそうだ。その上、万世橋の前が市電の大ターミナルだったそうで、東京駅にも匹敵する交通の要所として大賑わいだったという。万世橋駅の駅舎は東京駅を設計した人物でもある辰野金吾が設計し、それは繰り返し土産用絵葉書の題材として使われるほどの立派な建物だったが、関東大震災で焼け落ちてしまった。その後は中央線の東京駅延伸、神田・秋葉原駅の開業などを経てすっかり利用客が減り駅は昭和初期に閉鎖されてしまった。

万世橋界隈は往時には居酒屋・ミルクホール・食堂などが立ち並び大変にぎやかだったそうだ。また明治以前は将軍が神田明神に拝観する際の通り道としてそれなりに栄えた土地だったという。江戸時代から昭和にかけてこのあたりの町並みはめまぐるしく変化したようだ。

交通博物館と万世橋駅
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このキップは、つくばエクスプレス(TX)の浅草・新御徒町駅以外駅を始点としたTX往復キップと都営地下鉄・都電・都バスの一日自由乗車券がセットになったものだ。秋葉原駅には行けない。秋葉原は始点になるのだ(秋葉原から新御徒町までの往復割引なんて使う人いるのかな)。地下鉄でも東京メトロ系は利用できないのも微妙ではある。

始点は万博記念公園駅とした。記念公園というが、実際の公園は数キロのかなたにあるので詐欺同然の駅名である。地元の地名は「島名」といい、素直に「島名駅」とすればよかったものを、バカの癖にエライおじさんたちがよってたかって訳の分からん駅名をあてがってしまったのである。TXの駅名は「研究学園」駅だの「流山おおたかの森」だの、ろくなセンスのものがない。まあ平成の大合併でできた新市に恥ずかしげもなく「つくばみらい市」などと命名してしまうような土地柄に多くは期待できないのだが。

万博記念公園駅

とにかくこの駅は、周りに何もない代わりに駐車場料金が安いのだ。未舗装の無人駐車場(封筒に代金を入れて入り口のポストに投函しておく)なら一日300円。機械式(出口に遮断機がついていてお金を入れると開くやつ)が一日500円である。



駅の周りには他に何もない。



新御徒町では大江戸線に乗り換えられるので、六本木とか新宿にいきたい場合は便利である。しかしなぜか私は万世橋の交通博物館に立ち寄っただけであった。いや本当はもっと遠くに行ってみるつもりだったのだが博物館を歩き回っただけで疲れてしまったのである。結局ふつうにキップ買って乗ったほうが結果的にはベターであった。




↑B
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http://d.hatena.ne.jp/bluesy-k/20060502/iden

だが「全ての」遺伝子組み換え反対は宗教的であるといえるか。

上のエントリで言及されているのは農業における改良なんて何らかの意味における「組み換え」によって成り立っているということであるが、種の掛け合わせと遺伝子操作を同列に扱うことは論理に飛躍があるように思う。遺伝子の情報と発生・形成がどう関連づいているかがわからない限りは遺伝子操作の危険性は残る。



私を含むほとんどのGMO容認派は、GMOが絶対安全だなどと主張しているわけではない。「非GMOと同程度に」安全だといっているのである。「遺伝子の情報と発生・形成がどう関連づいているかがわからない」のは、人工的な遺伝子組み換えが施されていようがいまいが同じである。

というわけで、上記エントリーへの反論としては、文脈上「種の掛け合わせと遺伝子操作を同列に扱う」ことに論理に飛躍はまったくないということになる。

GMOも非GMOと同じ程度に安全と見ることができ、またGMOも非GMOと同程度にはリスキーであるということだ。後者についてはブクマでコシヒカリのことを紹介している人がいる。まあ、そういうことだ。

逆にここがGMO反対派の論理の一貫していないところなのだ。彼らが言うGMOの危険性は、どれもこれもがGMO固有の属性とは無関係であり、GMO批判の根拠になりえないものばかりである。繰り返すが「何がどうなっているのは分からない」のは、人工的な遺伝子組み換えが施されていようといまいと、栽培種だろうと野生種だろうと、どの植物にいえることなのである。だから、「私はこれまで口にした経験のない食材は一切口にしません」と宣言するのであれば、それが現実的かどうかはさておき少なくとも主張は一貫しているといえよう。しかし私が見るかぎり、彼らに南蛮渡来の食品を口にすることを躊躇している様子はない。

こういうと彼らは、それらは長年食べられ続けてきて安全だという実績があるなどと反論する。だが、黒人や白人には大丈夫でも黄色人種には甚大な悪影響を及ぼす成分が含まれていないないなどとどうして確信できるのだろうか?

だいたい彼らと議論すると、話がこの辺まで来た時点で彼らは個人攻撃にシフトし始めるのが常である。人を病人扱いし始めるやつとか、議論のイロハとやらを講釈し始めるやつとか、いろいろある。そして、よくあるのが「モンサントの回し者」扱いする反応なのだ。

モンサント社は農薬耐性GMOとかを精力的に研究している会社。だがモンサントがそういう研究をしている存在であるということとGMOそのものの安全性とは全く別の事象である。なぜか彼らはその辺が全く理解できぬらしく、すぐにモンサントを持ち出して攻撃を始めるのである。本当に非論理的な人々なのだ。

かれらの反応は息子の洗脳を解こうと乗り出してきた両親を「あんたはサタンだ」と呼ばわる統一教の信者の反応となんら変わるところがない。

宗教であるといったのはそういうことである。


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