当ブログは移転しました。http://kojidoi.home-server.jp/blog/
新・非公正ブログ



ノーベル賞を受賞し筑波大学の学長もつとめた物理学者である朝永振一郎の「滞独日記」を読んでいるところだ。とあるホームページで「日記の貴重さ」を示す例としてあげられていて、興味を持って注文したのである。

私も一応若手の研究者の端くれであるだけに、内容に引き込まれずにはいられない。

滞独とはもちろんドイツ留学のこと。ヒトラーが元首であった時代(1938-1940)のドイツで理論物理の研究を苦しい思いと闘いながら進めていたのである。
日記の始まりは、意気軒昂としていて、いかにも新進気鋭の研究者らしいというか若者らしい勢いのある考えが並んでいる。ところが、3ヶ月目ぐらいからだんだん悩みの吐露がおおくなってくる。3日に一度は仕事がはかどらないとか、やる気が出ないとか、劣等感にさいなまれるとか、そんな記述がでてくる。


こんな調子だ。


十一月十九日
さて、おきて、数値計算にとりかかる。計算尺ばかりいじって数字をかきならべている。その間は余念ないが、さて、お前は一体何をしているのだと問いかかると、ただ時間のみがつぶれて行くような気がする。

十一月二十三日
ゆうべは、ねどこへ入ってから色々な事があたまに浮かんで困った。それも涙もろい弱々しい考えばかりである。こんな気もちに甘えては女々しくていけないが、あったことはそのまま書く。丁度自分一人とりのこされて人々がみな進んでいくような気もちがするのである。(中略)
田中夫妻がぼくに結婚しろという。結婚すれば考え方が変るものであろうかしら。子供が出来て、それを父おやとして教育するなどということが出来るかしら。父おや自身どうやっていいか判らずに子供をおしえることが可能であろうか。(後略)

一月七日
そろそろ物理学をはじめようと思って、何かいい問題もがなと思うがいい思いつきもなく、苦しむ一方だ。どうして自分はこう頭が悪いのだろう、などと中学生のなやみのようなものが沸いてくる。


思ったようには仕事が進まず、ひとり悶々としていたのだ。ライバル湯川秀樹が論文を出したと聞いて嫉妬し、同僚たちが自分の知らないところで美味くやってるんじゃないかと猜疑心にさいなまれ、そんな下らない考えに惑わされている自分を嫌悪する。

ノーベル賞学者も劣等感の虜だった。テーマこそ違えど、その悩みの本質は平成時代の私のそれと少しも変わらないものだったようだ。


4622051249朝永振一郎著作集〈別巻2〉日記・書簡
朝永 振一郎
Amazonで詳しく見る
by G-Tools


↑B
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




郵政のみが国政か? 理想が正しければ方法論も自動的に正しくなるのか?
小泉支持者にはいろいろ危なっかしさを感じる。まずはとにかく勉強して欲しい。

ということで、以前に書いたエントリーを引っ張り出してくる。


  • 「年収300万円時代を生き抜く経済学」森永卓郎著・光文社


以下は以前にチャンネル北国TVに掲載したエントリーの転載である。



小泉改革を一刀両断! 痛みに耐えても国民は幸せになれないそうである。

なかなか刺激的な問題提起である。

第1章は経済学的な議論。小泉戦略の誤謬を かつての世界恐慌時の事例なども引用しつつ 解説している。

経済学は素人である私だが、自分なりに要約すると 以下のような筋立てだ。


  1. 財政を改善するにはデフレを止めなくてはならない。
  2. デフレを止めるには需要を増やすか供給を減らす必要がある。
  3. 小渕内閣は前者、森や小泉内閣は後者の戦略をとった。
  4. 供給を減らすには、総労働時間の短縮が有効だが、小泉はその方法として労働者一人あたりの労働時間を減らすのではなく、「企業をつぶす」ことで実現しようとしている。
    当然余剰人員が出る。それは新規の生産力の高い職場に再吸収されるはずだったが、まったくそうはならなかった。
  5. その結果、国民の財布の紐は固くなった。たしかに供給は減ったが、需要も減ったため、事態はまったく好転していない。


小泉は、構造改革を高らかに唱え、古いものを壊せば自動的に新しい良いものが出てきて後を埋めると考えている。多くの国民がその可能性に期待し、彼に拍手している。

ところが、既に70年代の不況下のアメリカの事例で、 こうした「創造的破壊」は必ずしも起こらないことが確かめられている。実現したのは「非創造的破壊」でしか なかったのである。

また、しばらく前に深刻な経済危機に見舞われた韓国が 「V時回復」を成し遂げたことは良く知られているが、 これも「需要拡大策」によるものだという。

そうだったのか!

私は財政支出の拡大など「絶対悪」という漠然とした 思い込みを持っていたが、それは例の高速道路問題 などに引きづられた偏った考えであったのだ。高速道路の作りすぎは馬鹿馬鹿しいが、それは「頭の悪い財政の支出」の例であるというだけで、財政支出自体が根本的に悪いと考えるのは誤り。需要と供給は密接に絡まっており、経済を考えるときは両方を同時に考えなければならない。 ものごとは輪廻するということを忘れてはいけないのだ。

それにしても著者の論旨は明快だ。国民に労働の機会を与えるという憲法の理念を忘れ、毎年1万人以上の国民の命を奪っているに等しいと、小泉に対する批判は手厳しい。

反対意見もぜひききたいところではあるが、私としては 近く実施の総選挙で自民党にだけは投票すまいという決意を新たにした次第である(一度もかの党に投票したことないけどね)。




新版 年収300万円時代を生き抜く経済学

光文社

このアイテムの詳細を見る


↑B
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




伝説のSM小説「家畜人ヤプー」がいつのまにかコミックになっていた。 しかも絵を書いているのがあの江川達也。これは買うしかない。

このとんでもない奇天烈小説の存在を知ったのは阿刀田高のエッセイによってだったと思う。大学2年生か3年生のころだ。それで近くの本屋で探して買い求めたのだが……あの衝撃は忘れられない。

あまりの内容に、最初の10ページで読み進むのが耐えられなくなる人も少なくないに違いない。以下にちょっとだけ概要を書くが、精神力の強さに自信がない人はここで読むのを止めるように。

舞台ははるかな未来。白人女性が頂点に立つ絶対的階級社会である。日本人の末裔は人間とは「別種」と位置付けられている。彼らは様々に品種改良され、食用にされたり皮膚を衣服の材料にされたり、はては生体改造されたうえで固定されてイスやテーブルの材料に使われたりする家畜以下の存在となっている。これが「ヤプー」なのだ。

なかでもIQの高い個体には、読心能力を与えられ、洗脳され、手足を切り落とされ、栄養供給管をお尻に差し込まれた状態で、所有者たる白人の便器として一生を全うする運命が待っている。なにしろ洗脳されており、ご主人が排便したいと思った瞬間それを察知し、大小便を口で完璧に受け止めることが人生最高の名誉であり、便器こそがヤプーのエリートだと認識させられている。いかにうまくウンチを受け取るかの技術を究めるための大学院まで存在するのだ。

小説では何十ページものスペースを費やして、生体改造や洗脳の過程が描写される。これでもかこれでもかと。そのディテールの悪趣味さが小説の売りの一つ(もうひとつは舞台設定に見られる言葉遊びのコジツケ。古事記から星新一のショートショートまでが、このとんでもない未来の伏線とされてしまう。ちななみにヤプーは「カリバー旅行記」の「馬の国」編に出てくる蛮人ヤフーから来ている)。

原作は長大だ。コミックは2巻に至っても起承転結の「起」の部分をまだ脱していない。何巻まで続くのだろう。

感想。絵で見るよりも小説のほうがずっとショッキングであった。少なくとも小説を読んだときのような「夜うなされそうな」感覚はない。江川さんの絵が下手だということではない。だがやはり、「人間が便器に改造されている」と言葉で説明されたときに脳内に想起されるとんでもない空想の広がりが、絵があるとどうしても限定されてしまうのは避けられないようだ。 もっとも、こちらは原作を既に読んで免疫があるし、大学生のころよりは年も取っているから、単純にこちらの感性が鈍っているだけなのかもしれないが。

もちろんコミックにはコミックなりの可能性というものがある。まだ先は長いし、上で指摘した程度のことはとっくに江川氏も気付いているだろうから、今後なにか仕掛けをしてくるに違いない。当分目が離せない。

それにしても、この小説が着想されたのが2004年だったら、いったいどういう描写が飛び出したことだろうね。たてがみの立派な猫科動物風に改造されたペット用ヤプーが一番に登場したかもしれないな。「私たち皆、ペットになる覚悟は出来てます」とか言って胸を張って見せるのだ。

……以上は2004年3月23日に
チャンネル北国TVに作成したエントリーである。既に一部の情報が古いが、当時の記録ということでそのまま保全する。



家畜人ヤプー 1 (1)

幻冬舎

このアイテムの詳細を見る


↑B
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




半年後にあなたは100%確実に死を迎える。そればかりか貴方の家族・友人なども全員同じ運命を共にすることになる。……そういう状況におかれたとしたら、貴方は最後の日まで日常生活を普通に送れるだろうか。

渚にて―人類最後の日を読了した。

1950年代SFの名作の一つに数えられる作品だが、この小説をSFとして読む必要はない。この小説には超能力を持つスーパーヒーローも超科学的な装置も出てこない。登場人物の誰もが至って普通の市民であり、時は静かに流れていく。話の発端こそ未来SFらしく第3次世界大戦という全面核戦争ではある。しかし、話の主題は「核兵器の非道さを訴える」なんてものではない。そんなものとは全然関係ないところにあるのだ。

コバルト爆弾の雨を降らせあった結果、北半球諸国は放射能を帯びた大気に覆われて全滅。オーストラリアは戦争に直接荷担しなかったため即時全滅は免れたが、大気の対流により、北から順に放射性元素を濃厚に含む空気に覆われ、生物が生育できない状態に陥ると予測された。おそかれ早かれ地球全土は汚染した大気に覆われて全ての人間は死ぬ。逃げ場はないのだ。

アメリカ合衆国の潜水艦スコーピオンは、たまたま南方で活動していたために生き残りオーストラリア海軍の指揮下に入ることになる。その艦長ドワイトと、彼に恋するオーストラリアの娘モイラ、この二人を取り巻く幾人かの人物たちの半年が淡々と描かれる。

艦長は事態を理解していながらも、とうに死んだはずの妻と娘と息子のことを現在形で語り、息子への土産として上等な釣りざおを買い、釣りのコツを教えてやることを夢想したりしている。彼の部下ピーターと妻は、それが完成したときには既に誰も見る者は居ないことを知っていながら、庭の模様替えと植物の植え替えに余念がない。一方、潜水艦で彼らと一緒に仕事をした科学者オズボーンは本来なら購入などありえなかったであろう高価なスポーツカーを手に入れ、死者続出の命がけのカーレースに出場して爆走する。若い娘であるモイラは、自分に将来というものがないという事実に押しつぶされ酒におぼれているが、どんなときにも規律とけじめを重んじる艦長に感化され、タイピストの訓練を始める。おそらくそのスキルを役立たせる機会は永遠にやってこないのだが。

そんな中、予測どおりに北から順に都市が放射性の空気に飲み込まれて沈黙していく。苦しまずにすぐ死ねる毒薬のパッケージが無料で配布され始める……。

そして、ついに彼らの住む町にも「そのとき」がやってくる。

死はいつか誰にもやってくる。しかし、その死が極めて近いうちにやってくると告げられたら? その上、何かを遺したとしてもそれを見る者が誰一人居ず、自分の子供たちも自分と同時に死んでしまうとしたら?

そんな中でも、人はこの小説の登場人物たちのように「日常生活」を続けられるものなのだろうか? また、本当に幸せで充実していたといえる人生とはいったいどのようなものなのだろうか?

初出:http://ch.kitaguni.tv/u/1181/%a4%b3%a4%f3%a4%ca%cb%dc%a4%f2%c6%c9%a4%f3%a4%c0/0000190108.html

渚にて―人類最後の日

東京創元社

このアイテムの詳細を見る

↑B
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




007シリーズのパロディなのだが、唯のウケ狙い小説ではなく、なかなかどうして本格的なアクション小説である。

以前から読みたいと思っていた本郷隆作「定吉七番シリーズ」の第一作「 定吉七は丁稚の番号 」をようやく古本で入手した。

主人公は「定吉七(セブン)」というコードネームを持ち、大阪商工会議所秘密情報部員として暗躍する腕利きのスパイである。対する敵は、関西を否定し、神田明神を崇め、東日本から全ての関西系企業を駆逐せんと暗躍する秘密結社 NATTO !

さっそく第一話「ドクター・不好(プーハオ)」を読了した。敵は湘南・江ノ島に秘密潜水艦基地を建造しつつある謎の中国人・プーハオ。定吉七は拳銃の代わりに「富士見西行」なる業物の包丁を武器とし、敵方の下っ端戦闘員(全員が御宿出身の千葉県人で埼玉県人に変装している)を相手に大活劇を演じる。

いうまでもなく映画で展開されるおなじみのストーリー・場面の焼き直し。だが、単に大道具を日本のそれに置き換えただけでない。情景描写を通じて、この小説が書かれた当時(1985年刊行)のチャラチャラした風俗を皮肉り、ダサイタマなどといって「田舎」を馬鹿にしたり妙に都会人ぶったりすることの多かった当時の関東人を毒々しく馬鹿にする。その毒が小気味よい。

また戦闘シーンや武器の描写が大変リアルだ。それも道理で、作者はもともとアフガン内戦の取材経験などを持つジャーナリストだという。なにやら銃器関連の大スクープをものにしたこともある人物らしい。そのようなバックグラウンドあってのパロディなのである。やはり一級品を世に出すには思いつきだけではダメなのだ。

定吉七(セブン)は丁稚(デツチ)の番号

角川書店

このアイテムの詳細を見る


定吉七(セブン)は丁稚の番号

講談社

このアイテムの詳細を見る

↑B
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ウルトラマン昇天―M78星雲は沖縄の彼方

ウルトラマンの名前を聞いたことのない日本人はほとんどいないだろう。しかし、特撮モノに興味のない人は、ただの子供だまし番組との認識しか持っていないかもしれない。だが、少なくともウルトラマン・ウルトラセブンの2作品は、鋭い文明批評が織り込まれたメッセージ性の高い作品も多く、大人の鑑賞にも十分堪えうるものだ。

たとえばウルトラセブンに「ノンマルトの使者」というエピソードがある。ここでは、地球防衛軍の潜水艇が敵の海底都市に有無をいわさずミサイルの雨を降らせ、壊滅させる。「地球はわれわれのものだ。これで平和になる」と高らかに笑う隊長。だが、実はその「侵略者」こそが人類よりも古くから地球に住む先住民族であった可能性が提示されるのだ。ここで「正義の使者」と「侵略者」の立場が逆転させられている。果たして正義は誰の下にあるのか? パレスチナ問題やイラク問題に「答え」を見出せない我々に40年のときを超えて提起される重い問題。

この脚本を書いたのが、金城哲夫である。ウルトラシリーズが製作され始めた最初期に円谷プロにいて脚本家のリーダーとして活躍した。
掲出の書籍は、その金城哲夫の軌跡を、彼の大学の先輩に当たる著者がまとめたものである。

金城は沖縄出身で、昭和13年の生まれ。すなわち沖縄戦で戦火の下を逃げ回る経験をした人である。しかし中学にあがるときに、当時は外地だった東京にでて玉川学園を出、円谷英二に出会ってウルトラシリーズの脚本を書くことになった。そして、ウルトラセブンが放映されたのはちょうどベトナム戦争でのアメリカの非道ぶりが明らかになってきた時期と重なる。「正義とは何だ」という重いテーマを扱う脚本が生み出されたのは偶然ではなかった。

さて、金城氏は弱冠二十代半ばで円谷プロの文芸部トップに抜擢されたくらいであるから、とても優秀で才気煥発な人だった。ところが、「ウルトラマン昇天」によれば、彼はひとつのジレンマを抱え込んでいて、それに一生悩まされた。ついにそれを最後まで克服できなかったようなのだ。

そのジレンマとは、彼のアイデンティティの拠り所がないことだった。沖縄出身にもかかわらず、彼は生粋の沖縄言葉を操ることができなかった。だが、日本本土では彼は「外国人」。いったい自分は何人なのか? と、うつうつと悩んでいたようなのだ。

ウルトラセブンが終わってしばらくして、金城は円谷プロをやめ、沖縄に戻り、ラジオの仕事などをしながら沖縄芝居の脚本を書き続ける。だが、書いても書いても「何かが違う」。言葉のギャップだけではなく、なにか沖縄人ならではの機微のようなものを彼は会得することができなかった。やがて彼は沖縄海洋博覧会の開会式・閉会式をとりしきる大役をまかせられることになるが、この博覧会に対しては地元民は必ずしも好意をもっていなかったらしい。酒を手に地元の漁民の家々などを回って博覧会への協力を要請することも金城の仕事となったが、これによって「沖縄人としての機微」を身につけられていない自分と地元民とのギャップをさらに思い知らされることになった。

心の隙間を埋めようと酒に溺れ、ついに彼はアル中に陥る。心配した家族は、アル中の治療を専門に行う病院への入院をアレンジした。だが、あと数日で実家を離れて入院というある日、金城は自宅の外付け階段から足を踏み外し、二階から転落。コンクリートのたたきに頭をぶつけ、死亡した。享年37歳。

いろいろなことを考えさせられる。金城哲夫は天才であり、また高い志を持った人でもあった。だからこその苦しみがあったのだろうが、それにしてもあまりに苦悩に彩られすぎた寂しすぎる死に様ではないか。違う進路を選択していれば、いまごろは手塚治虫や宮崎駿にも匹敵する日本が誇るクリエイターとして名前を連ねていたかもしれない。本当に惜しい。

**ウルトラマン昇天―M78星雲は沖縄の彼方

朝日新聞

このアイテムの詳細を見る

↑B
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




私が文部科学大臣なら、この本を政府推薦として全国民に読書感想文を書かせたいとか言ってみる。


--------------------------------------------------------------------------------

たとえば
  • 最近少年犯罪の凶悪化・多発化が著しい。
  • 少子化が子供をダメにする。
  • 若者の読書離れが深刻だ。

こういうことを訳知り顔でのたまう批評家たちを、さまざまな統計資料を論理的に吟味することによって次々一刀両断にしていくのが「反社会学講座」。上記の例はどれもまともな根拠のない嘘だそうだ。

特に、戦後直後から現在にいたる犯罪統計のグラフを参照してむしろ少年犯罪は昔よりへっていることを指摘し、ついでに、少年犯罪の原因を食べ物やテレビゲームに求める説もバッサリ切り捨てていく下りは痛快だ。本書はwebサイト上のコンテンツを改稿したものなので、オリジナルをまず読んでみることを勧める。 URLはこちらだ。

尤も、そういう著者自身の主張も情報操作の結果かもよ、という趣旨のことを webサイト の方で遠まわしに示唆していることも見逃してはなるまい。要は、「ううんそうだったのか、今の若者は悪くないんだ!」とかいうレベルで納得するのではなく、世の中の「もっともらしい主張」がいかに実はもっともらしくない論理で作られうるのかを理解せよということなのだろう。

それにしても、豊富なデータのタイミングよい提示。適度なギャグと皮肉。読み物としても実に完成度が高い。こういう文章を書けるようになりたいものである。

私が特に強く膝をたたいた箇所をいくつか引用しておきたい。


悲観主義者というのは、ひきょうなんです。悪いことが起こるぞお、さあ困った大変だ、と警鐘を鳴らしておけば、もし実際に悪い結果になった場合、「ホラ、いわんこっちゃない」と自分の先見の明を鼻にかけることができます。予想に反してよい結果に落ち着いたら、「いやあ、杷憂だったねえ。でもまあ、備えあれば憂いなしともいうでしょ。私の警告もムダではなかったよね」と前向き思考でちゃっかりと喜びを分かちあおうとします。どっちに転んでも自分が傷つくことはありません。
ところが楽観主義者は、そうはいきません。良い結果になればみんな喜んでくれるのですが、もしも悪い結果が出た場合、ウソつき呼ばわりされ、クソミソに叩かれます。つまり、楽観主義者は自分の意見に責任を負わざるをえないのですが、悲観主義者は常に逃げ道を確保しているズルい人たちなのです。


拉致家族問題に関して共産党を叩くネットウヨたちを髣髴とさせる。そうそう、遺伝子組み換え食物反対の頑迷な論客たちも、沐浴の後正座して拝読すべし。

「自立している」人など、どこにもいやしません。世界中の誰もが誰かに依存して成り立っているのが現代社会です。他人に迷惑をかけずに生きることなどできません。自立の鬼は、自立という幻想を喰らって太る妖怪です。

「やればできる」は努力を勧めているようで、じつは暗に結果を求めています。教育者たるもの、そんなウソを教えてはいけません。「できなくてもいいから、やってみろ。それでダメなら生活保護があるさ」と教えるのが本当の教育者です。


イラク人質事件以後の自己責任論を思い出させる。この議論をあおっている者たちが暗に求めている「結果」とはなにか? 2005年の重要な問題の一つだろう。


反社会学講座

イースト・プレス

このアイテムの詳細を見る


↑B
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




想像してみてもらいたい。

あなたはそれなりの社会的な地位と幸せな家庭をもつ善良な市民。ところがある日突然、敵の工作員と決め付けられ周り中から命を狙われることになる。




彼らが言うところでは、敵は貴方そっくりのクローンを作って本物の貴方と摩り替え、破壊工作をさせる計画であるという。あなたはクローン技術で作り出された偽者だと思われているのだ。

もちろん貴方に心当たりはない。俺は俺だ! いつもと同じ今日という日の生活をいつものように始めただけだ! まがうことなき本物の俺に決まっている!

だがどうあっても信じてもらえない。クローンは本物と寸分たがわぬ肉体を持ち記憶も完璧にコピーされているため、計画を実行に移すその瞬間までは自分こそ本物だと信じて疑わないのだという。

こんな目にあったらあなたはどうする?

私はこの小説を中学生のころに読んだ。どこかのSF短編集に収録されていて、学校の図書室に並んでいたのを借りて読んだのだ。当時はSFに狂っていて、図書室にあるSF全集の類は一冊残らず読んだ。なかでも痛烈な印象が残っていたのがこの作品。ここでは書かないが、なにしろ結末のどんでん返しが衝撃的なのだ。お年頃の私の琴線に触れないわけがなかった。いったい「自分」とはなんだろう? 肉体と記憶が同一であるふたりの人間が居たとして、「本人」としての権利を得ることが出来るのはどちらなのだろうか? 

しかし、大学に入ってからこのSF小説を再読したいと思った時には作者も題名も忘れてしまっていて、読めぬまま現在に至っていた。

ところが今月の初めにテレビで放映された映画「クローン」をこの週末に見て、この長年の問題が思いがけなく解決することになった。これこそが私が捜し求めていた小説を映画化したものだったのだ。この情報を手繰っていくことにより、小説の正確な情報が手に入った。

トータル・リコール、ブレードランナー、マイノリティ・リポートなどの映画の原作者としても知られるアメリカのSF作家、 フィリップ・K・ディック の短編作品「偽者」。

googleを駆使して調べてみると、「偽者」はハヤカワSF文庫の『パーキー・パットの日々 : ディック傑作集1』に収録されていることが分かった。もう早速注文である。

なお映画「クローン」のほうは近いうちにDVDが出るそうで(それでTVで放映したのだろうか?)こちらも amazonで予約受付中 (クローンIMPOSTOR) であるようだ。




ただ、冷静に考えてみるとやはりあの結末には無理がある。私が「敵」の立場ならあんな決定的証拠をそのまま放置しておくなど有り得ない。


↑B
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日、深田恭子主演で公開された「下妻物語」。この舞台となったのは、わが住処であるつくば市から目と鼻の先にある下妻市である。これは話の種に見に行かねばなるまいと思った。というか、先々月に別の映画を見た折りに流れていた予告編がめちゃくちゃ面白そうで気にもなっていたのだった。

予想以上に面白いお話だった。ヒロイン「桃子」は、どうしようもないヤクザな詰まらない親父をもつ高校生。フランスのロココにあこがれ、全身にヒラヒラのついたお人形さんみたいな浮世離れした衣装に身を包み、日傘をさして、下妻の田んぼの中の道を闊歩している変な女の子である。

あるきっかけで、彼女は「イチゴ」という同じ年の女の子と出会う。彼女は下品でド派手な「特攻服」に身をつつみ、竹槍マフラーを装着した改造50ccバイクを乗り回す暴走族なのであった。

この、まるで接点のなさそうな二人が、お互いバカにしあいながらおかしな友達関係を作っていく物語である。

ショートショートの名手として知られた星新一が、面白い話を作るコツは「異質なものの組み合わせ」だと指摘してたが、この小説はまさにその王道をいっている。なにしろ「ロココ」と「暴走族」である。この組み合わせを思いついただけでもすごい。だがそれだけでなく、頭の悪い下っ端ヤクザである「父」と「桃子」の関係があり、桃子の出自は「河内弁」の文化圏。いっぽう、イチゴの家庭は実はけっこうハイソらしく、両ヒロインともに別の軸での「異質なものの組み合わせ」を抱え込んでいるのである。

これらのミスマッチが生み出す様々なエピソードが小説のクライマックスにおいて全て伏線として生かされているという、なかなか心憎い構成なのであった。

二人は回りのものに一切妥協せず、自分のスタイルをあくまで最後まで貫き通す。互いに相手の馬鹿馬鹿しさ加減をフンと鼻で笑いながらも、しかしお互いを否定もしない。実に大人びていてかっこいい(でもちょっとバカだけど)。女の子が元気な物語というのは読んでいて気持ちがいいものだ。

それにしてもこの原作者はどういう人なのであろうか。洋裁や刺繍、パチンコ、暴走族、それぞれのディテールの描写の細かさは半端でない。その描写がこの小説の中の「ミスマッチ」を非常に現実的なものに見せる効果を与えている(しかし、できれば登場人物にはもっと徹底した茨城のダッペ言葉をしゃべってもらいたかったが……)。

下妻物語―ヤンキーちゃんとロリータちゃん

小学館

このアイテムの詳細を見る



映画のほうは思いのほか好調で、海外での公開も決まったそうだ(外人にジャスコネタや水野晴郎ネタや、ヤンキーの何たるかが理解できるものかよくわからないが……)。

下妻物語 スペシャル・エディション 〈2枚組〉

東宝

このアイテムの詳細を見る


* このエントリーは北国TVに2004年掲載したものを加筆転載したもの


↑B
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )