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新・非公正ブログ



朝日新聞の記事より:

NTTドコモは28日、国内2位の簡易型携帯電話(PHS)の新規受け付けを4月30日で終了する、と発表した。135万件の利用者には携帯電話への乗り換えを勧め、少なくとも2年をかけてサービスを終える。これに伴い、資産の減損損失610億円を05年3月期連結決算に計上する。

 NTTグループは低料金・高音質を前面に出して95年にPHSサービスを始めた。携帯電話に押されて利用が減少、05年3月期は250億円の赤字の見通し。データ通信の需要で一時持ち直したが、高速化の流れに対応するには4千億~5千億円の再投資が必要とみて、事業継続を断念した。


私のPHSはNTTドコモ関西の契約で、古い端末をもう5年ぐらい使いつづけている。ノートパソコンでインターネットにアクセスするために維持しているのだ。たまに出張先でノートを使いたいというときにありがたい存在だ。私の場合、そんな日は年に10日とはないのでb-mobileやH"(別の名前に変わったらしいが)ではオーバースペック。無線LANカードとホットスポットという手もあるがまだまだ拠点駅と一部店舗でしか使えず、これのみに頼るわけにはいかない。結局ドコモのPHSをUSBで接続して使うのが一番という結論になったのである。

普段持ち歩く携帯はドコモ四国の契約でF503isという機種。関東在住の私がなぜ四国だの関西だのにばらばらに契約しているかといえば、少なくとも購入当時は、田舎のショップの通販の方が関東の店よりも余裕で一万円以上も安く端末を購入できたからだ。当時は非常に貧乏だったのでこれは無視できない要素だった。とはいえ、会社がばらばらではファミリー割引も使えない。上で述べたようにいろいろ考えた結論とはいえ、PHSとMOVAに別々に料金を払うのが馬鹿馬鹿しい感じもないではなかった。

そんなわけで、そろそろPHS+MOVA->FOMAに乗り換える潮時かもしれないという考えが日増しに強くなっていく今日この頃だった。

で、最近のトレンドをいろいろ調べていたのだが、結論として、ケータイの進化には「参りました」である。

最初にカメラ付きケータイが出たとき、こんなイロモノ端末誰が買うんじゃいと私は内心バカにしていた。我々の親世代はどこかに遊びに行くとなるとかならずカメラを持ち歩き、要所要所で記念写真をとるのが習慣化しているように見受けられるが、そんなのいまどきの若者にはハヤラネーよと思っていたのだ。認識不足であった。はやってないのは俺だけだった。みんなカメラに興味がなかったわけではない。単に持ち歩くのが面倒なだけだったのだ。

今やケータイのカメラは200万画素当たり前で、オートフォーカスとかついていたりする。ここ北国TVでもケータイの写真を披露しておられる方がいるが、わたしが真面目にごついデジカメで取った写真よりはるかにキレイではないか。しかも、ただ撮影できるだけでなく、図形や英単語を認識してネットにアクセスしたり辞書を引いたり出来るのだからすごい。これは確かにカメラつき携帯でしか成し得ない便利さだ。

そして、felicaにも注目せねばなるまい。先日のオランダ旅行の準備をしているときに知ったのだが、今は携帯電話をカード代わりにして航空券の直接発行をしてもらえるらしいではないか。suicaも近いうちにfelica対応になるらしい。うちの近所にはお財布ケータイを認識するコカコーラの自販機も存在する。私が思っていた以上にお財布ケータイの利用範囲は急速に広がりそうだ。

なんてことだ。皆こんな便利なものを使ってやがったのか。ぜんぜん知らなかったよ。

購入を決意した。

シャープのSH901iC。カメラやスケジューラ機能が使いやすそうだし、PDFビューアや動画・音楽の入力・再生機能にも惹かれた。英和辞書までも内蔵しているらしい。いずれも、「あったら便利な機会があるだろうな」と思えるがそのためだけに単体の器具を持ち歩こうとまでは思わないものばかり。それらの希薄な欲求が全て携帯一台だけで片がつくのはありがたいことだ。

電話番号を維持し、長期割引を利用するため、全国対応の通販業者を利用した機種変更とすることにした。 値段 を調べてみたら、昔と違い、なんだか当地の店頭で買うよりむしろ数千円高いのだが、まあ今はそんなものなんだろう。

初出:2005年02月27日チャンネル北国TV



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オランダ・スキポール空港の売店で見つけた一品。


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金属製の筆箱、いわゆるカンペンケースである。 同様のデザインのメモ帳もあった。なかなかいい味が出ているでしょ。 不二家の許諾を受けているとはとても思えないのだが……。

これはスキポール空港のゲート外の土産物屋で買った。しかし、同空港のショッピングセンターは実は出国審査をして搭乗ゲートに向かうまでの間にある。それも半端ではない広大なショッピングエリアが広がっていて、酒・お菓子・陶芸品・木靴・チューリップの球根にいたるまで、観光客が土産として買っていこうかと思いつきうる全てのジャンルのものがそろっているという感じだ。また、寿司屋だのマッサージ屋だの絵画展示室だのもある。

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ウルトラマン昇天―M78星雲は沖縄の彼方

ウルトラマンの名前を聞いたことのない日本人はほとんどいないだろう。しかし、特撮モノに興味のない人は、ただの子供だまし番組との認識しか持っていないかもしれない。だが、少なくともウルトラマン・ウルトラセブンの2作品は、鋭い文明批評が織り込まれたメッセージ性の高い作品も多く、大人の鑑賞にも十分堪えうるものだ。

たとえばウルトラセブンに「ノンマルトの使者」というエピソードがある。ここでは、地球防衛軍の潜水艇が敵の海底都市に有無をいわさずミサイルの雨を降らせ、壊滅させる。「地球はわれわれのものだ。これで平和になる」と高らかに笑う隊長。だが、実はその「侵略者」こそが人類よりも古くから地球に住む先住民族であった可能性が提示されるのだ。ここで「正義の使者」と「侵略者」の立場が逆転させられている。果たして正義は誰の下にあるのか? パレスチナ問題やイラク問題に「答え」を見出せない我々に40年のときを超えて提起される重い問題。

この脚本を書いたのが、金城哲夫である。ウルトラシリーズが製作され始めた最初期に円谷プロにいて脚本家のリーダーとして活躍した。
掲出の書籍は、その金城哲夫の軌跡を、彼の大学の先輩に当たる著者がまとめたものである。

金城は沖縄出身で、昭和13年の生まれ。すなわち沖縄戦で戦火の下を逃げ回る経験をした人である。しかし中学にあがるときに、当時は外地だった東京にでて玉川学園を出、円谷英二に出会ってウルトラシリーズの脚本を書くことになった。そして、ウルトラセブンが放映されたのはちょうどベトナム戦争でのアメリカの非道ぶりが明らかになってきた時期と重なる。「正義とは何だ」という重いテーマを扱う脚本が生み出されたのは偶然ではなかった。

さて、金城氏は弱冠二十代半ばで円谷プロの文芸部トップに抜擢されたくらいであるから、とても優秀で才気煥発な人だった。ところが、「ウルトラマン昇天」によれば、彼はひとつのジレンマを抱え込んでいて、それに一生悩まされた。ついにそれを最後まで克服できなかったようなのだ。

そのジレンマとは、彼のアイデンティティの拠り所がないことだった。沖縄出身にもかかわらず、彼は生粋の沖縄言葉を操ることができなかった。だが、日本本土では彼は「外国人」。いったい自分は何人なのか? と、うつうつと悩んでいたようなのだ。

ウルトラセブンが終わってしばらくして、金城は円谷プロをやめ、沖縄に戻り、ラジオの仕事などをしながら沖縄芝居の脚本を書き続ける。だが、書いても書いても「何かが違う」。言葉のギャップだけではなく、なにか沖縄人ならではの機微のようなものを彼は会得することができなかった。やがて彼は沖縄海洋博覧会の開会式・閉会式をとりしきる大役をまかせられることになるが、この博覧会に対しては地元民は必ずしも好意をもっていなかったらしい。酒を手に地元の漁民の家々などを回って博覧会への協力を要請することも金城の仕事となったが、これによって「沖縄人としての機微」を身につけられていない自分と地元民とのギャップをさらに思い知らされることになった。

心の隙間を埋めようと酒に溺れ、ついに彼はアル中に陥る。心配した家族は、アル中の治療を専門に行う病院への入院をアレンジした。だが、あと数日で実家を離れて入院というある日、金城は自宅の外付け階段から足を踏み外し、二階から転落。コンクリートのたたきに頭をぶつけ、死亡した。享年37歳。

いろいろなことを考えさせられる。金城哲夫は天才であり、また高い志を持った人でもあった。だからこその苦しみがあったのだろうが、それにしてもあまりに苦悩に彩られすぎた寂しすぎる死に様ではないか。違う進路を選択していれば、いまごろは手塚治虫や宮崎駿にも匹敵する日本が誇るクリエイターとして名前を連ねていたかもしれない。本当に惜しい。

**ウルトラマン昇天―M78星雲は沖縄の彼方

朝日新聞

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