(2016.7.25 文知摺石:綾形石とも鏡石とも呼ばれる)
7月25日、福島の桃“あかつき”が出荷される頃だろうと、“ワイフ君”と実家のお義姉さんとで、福島市へ桃を買いに出かけました。
自分の家で食べる分なのでお使い用の高級なものはいらないから、特別安くておいしい桃をたっぷり調達してきました。甘くてジューシー、やっぱり福島の桃は最高です。
行くときに渋滞していた国道4号線を避けて、ローカル廻りで帰ることにしました。途中で、まだ見たことのないお義姉さんのために縄文時代の遺跡が再現されている『じょーもぴあ宮畑(宮畑遺跡史跡公園)』に立ち寄りました。
中央の広場を囲むように再現された大きな建物が四棟ほど展示してあります。
縄文の昔、この建物はいったい何に使われていたのかと、現地でしばしタイムスリップしてみるのも楽しいものです。
実際には直径が90センチぐらいの柱のあとが発掘されたとのことです。再現には同じ太さの栗材が使用されているようです。太古の昔、縄文の人たちはどのようにしてこんな太い木を切り倒し、どのようにして加工しながらこの建物を建てたのでしょうか。
次に来たのが文知摺(もちずり)観音。宮畑遺跡から3キロほど離れたところにあります。
境内への入り口にある橋を渡ってすぐのところに、芭蕉の銅像があります。奥の細道で信夫の里(福島)を訪れた芭蕉は、『文知摺石(もちずりいし)』を見るためにここ文知摺観音を訪れ、「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺」という句を残しました。さてさて、それでは拝観料を納めたときにいただいた半券から、信夫文知摺についての解説を少々いたしましょう。
『かつてこの地(信夫の里)は、綾形石(あやがたいし)の自然の石紋と、しのぶ草の葉形などを摺りこんだ風雅な模様の“しのぶもちずり絹”の産地でした・・・その名残をいまに伝える“文知摺石”は、奈良の都からの按察使(あぜち:巡察官)“源融(みなもとのとおる)”と長者の娘“虎女(とらじょ)”の悲恋ものがたりを生み、源融(河原左大臣:かわらのさだいじん)の詠んだ「みちのくの 忍もちずり 誰故に 乱れ染めにし 我ならなくに」という和歌は、古今集に編纂され小倉百人一首にも収められています・・・』
源融は紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれるお方ですから、相当見目麗しき貴公子だったと思われます。
ここには、松尾芭蕉はじめ、正岡子規(まさおかしき)や小川芋銭(おがわうせん)なども訪れているようです。
さあ、では拝観料400円をお納めして、境内をみてみましょう。
これが、文知摺石(綾形石)。源融(みなもとのとおる)を恋い焦がれてひたすら待つ虎女(とらじょ)が、この石に源融の面影が浮かんだのを見たというエピソードから“鏡石”とも呼ばれているそうです。
この案内板に、河原左大臣源融と山口村の長者の娘虎女の悲恋物語が解説されています。
おまけに、違った角度から文知摺石をもう一度。
(足止め地蔵と階段上の三十三観音堂)
静かで綺麗な境内ですが・・・うるさく飛び回ってつきまとう虫が少々。
(観音堂)
観音堂境内にある河原左大臣源融(みなもとのとおる)の歌碑。
「陸奥の 忍もぢずり 誰故に 乱れ染めにし 我ならなくに」(みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに)
【現代語訳】「陸奥(みちのく)で織られる“しのぶもぢずり”の摺り衣の模様のように、乱れる私の心。いったい誰のせいでしょう。私のせいではないのに(あなたのせいですよ)」(ちょっと差がつく百人一首講座より)
高貴なお方が、ちょいと田舎娘をもてあそんだということだと、少々腹が立ちますが、身分違いのしがらみから虎女を迎えにこれなかったというふうに解釈したいものですね。じゃないと、福島県では郡山の采女と、二人も奈良の巡察官にたぶらかされたことになってしまいますからね。
ここには見事な細工の多宝塔があるのですが、あいにく屋根を修繕中とのことでした。(参考までに2年前の写真を以下に掲載しました)
(多宝塔 2014.9撮影)
(多宝塔 2014.9撮影)
ここは伝光閣(宝物殿・資料館)。建物内は撮影禁止でしたが、絵画やいにしえの資料が沢山展示されていました。
早くもモミジの紅葉?
文知摺観音、綺麗ないいところでした。秋の紅葉の時期もきっといい趣がありそうです。
そこに“mimozaさん”が今回河原左大臣の歌を紹介して下さったという訳です。ですから全くの偶然で、凄いことなんか全くないんですよ。でも、地元のことを勉強しておいてホントよかったと思いました。
博学のkojiさんに学ぶところ大です。
私は通過するだけ。kojiさんは掘り下げをされますね。
凄い~!!
慧日寺跡にある徳一廟。糠沢の高松山観音寺にもお墓(徳一大師宝塔)がありました。高松山観音寺も徳一大師が開山したということで、分骨し五輪塔に安置されているようです。
最澄や空海と論をたたかわせていた徳一、慧日寺が残っていたら世の注目度も全く違っていたでしょうね。
例えば、伊達政宗に破壊されて消滅した東日本最大だったと言われる徳一上人の「慧日寺」と関東にまであったというその寺院群はその一つでしょう。
転勤の多かった“estema22さん”ですから、退職後の自由な生活を期待しつつ、どうぞいまの状況を存分に楽しんでしまってください。
いまは福島方面に出かけることに、全く抵抗が無くなりました。ハハ
ところで、芭蕉の奥の細道は適当に旅しているのかと思っていたのですが、このようにいにしえの和歌に詠まれている由緒のある場所とかを選んで旅しているんですね。
ここで詠んだ句、「早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺」はいったいどういうこと?と分からずにいたのですが、・・・田植えの前段、苗代から稲の苗を引き抜いている所作が、その昔“しのぶもちずり絹”を染め上げているのを連想させる・・・というような感じのことを解説している方がいて、なるほどなと思った次第です。短い俳句でそれだけのことを表現しようというのですから、芭蕉ってやっぱり天才かもしれないですね。
自転車であちこち行きましたが、須賀川・白河・黒羽と、いたるところ芭蕉だらけでした。渋滞と駐車場の心配が無い自転車の名所巡りは絶対いいですね。