(2021.4.21 土津神社の境内に咲く小彼岸桜:猪苗代町)
4月21日、猪苗代町の「観音寺川桜並木」、北塩原村の「桜峠の大山桜」と巡って来たわが家は、遠く飯豊連峰を配した喜多方市をかすめて磐梯町の「道の駅」で昼食を済ませ、道の駅から1キロ足らずの「慧日寺跡」へとやって来ました。
ここ慧日寺跡には、中門や金堂などが再建される以前から幾度となく訪れているわが家ですが、今回は金堂内に再建された薬師如来坐像と初対面を果たすためにやってきたのです。
高僧徳一(とくいつ)と慧日寺(えにちじ)の縁起についてはこちらをご覧下さい。
手前が中門、薬師如来が収められている奧の金堂へと向かいます。
幾度となく焼失に見舞われた慧日寺の薬師如来坐像が、明治5年に焼失して以来、ここにきてようやく現代の調査研究を基に平成30年こうして復元されたとのことです。
金ぴかの薬師如来にあえて手を加えて経年劣化を表現したというところがいいですね。これまでは薬師如来の大きな写真でしたが、薬師如来坐像が復元されてまた一歩古の姿に近づくことが出来たようです。
本日のお仕舞いは、猪苗代町のここ「土津神社(はにつじんじゃ)」です。ここが秋には見事な紅葉スポットになることは承知していましたが、この時期桜がどうなのかは知らずに来てみたのです。
土津神社は桜の時期も綺麗でした。日本一大きな石碑がある境内の桜は「小彼岸桜」というのだそうです。
これでわが家の今年の桜ドライブはとりあえずお仕舞い。あとは里山の「山桜のシーズン」ですね。
「亀ヶ城址跡公園」まで行ったのですが、脚にきていたので、本丸跡には登りませんでした (^_^;
当然ながら「土津神社」へ行く元気もなく、また来年見に行こうと思います。
これから桜の花を見ることができるのは裏磐梯方面ですね。
「桜峠」は行けそうにないので、違うスポットに行ってみようと思います。
僧の数300、僧兵数千、寺領18万石と栄華を極めた時期もあったようですが、伊達政宗に焼かれてそのほとんどが焼失してしまったようです。
(参考)https://blog.goo.ne.jp/koji5678/e/7a8d0e61a9ae726d6990d4f6d31b9997
(薬師如来の位置が写真だった時の記事)
桜の花びらがヒラヒラと、散り始めもまた趣があっていいですよね。
桜峠はドライブで行っても楽しめると思いますよ。ちょうど見頃だと思います。
わたしは、最澄、空海とならぶ同じ年代の三大上人と呼んでいます。
最澄と徳一の「平等論争」は仏教界の伝説になっています。
赤べこ伝説も本来は徳一上人だけの伝説でしたが、空海の弟子たちが弘法大師伝説にしてしまいました。
シダレザクラで有名な大玉村の相応寺は、徳一上人が建立したものです。
ですから、境内には薬師如来のお堂が建てられていますがそれは本堂ではなく別のお堂で、のちに真義真言宗になったお寺の中は大日如来になってしまいました。
ですから、善光寺やお伊勢参りもしていませんし、出雲や熊野様にも詣でたことがないのです。
日本三大神宮の中で辛うじて鹿島神宮と香取神宮には行ったことがあります。こちらは地理的に近いですからね。
ただそのような場所に立っただけで厳かな気持ちになるのは不思議な気がします。
こうして徳一上人のことを少しだけかじっただけでもその偉大さが分かります。徳一上人が開かれたお寺は身近なところでもそこここにあります。
やはり慧日寺が形として残っていなかったというのが大きいのでしょうね。
しかしながら、お寺の沿革を見てみると焼失というのがとても多いですよね。慧日寺の薬師如来も何度も焼失しているのです。不思議なことに薬壺だけはそのたびに焼失を免れていたようですが。
戦火で焼け落ちるのは意思が働いていますが、その他のケースは線香やロウソクなどの火種によるところが大きいのでしょうか。不思議です。
猪苗代の土津神社の小彼岸桜、きれいですね。
慧日寺の薬師如来坐像も、なかなか立派なお姿で、見ているだけで心が落ち着きます。
意欲的な探訪のご様子、なによりです。
土津神社は会津藩初代藩主の保科正之公をお祀りしている神社です。保科正之公は二代将軍徳川家忠公の落とし胤で、三代将軍家光公、四代将軍家綱公を補佐していた人物なのだそうです。
慧日寺の薬師如来坐像は焼失してしまっているので、様々な時代考証を重ねこのお姿で蘇ったということです。ですから、扱いとしては展示物ということになるのだそうです。
脳梗塞の後遺症はなかなか手強いですが、運転が出来ることがせめてもの幸いです。