食いしん坊ケアマネ の おたすけ長屋!

困ったら、悲しかったら、ツラかったら、
「長屋付き合い」を始めようよ!
現代版人情長屋に寄っといで!

お助け長屋の棟上げ式

2009-12-28 | 友人・仲間
昨夜、東京国立市のアパートで、私たちの寄り合いがありました。



どういう構成だったかというと、三人の独身中年男と、立派に子供を育て上げた同年輩のご婦人二人…です。

この五人がそもそも何ゆえに集まり始めたか…ということについては、まことにご面倒ではありますが、このブログの一番初めの記事、
「長屋付き合いを始めよう!」をご覧下さいませ。



昨日は通算五回目の寄り合いでした。

今まではずっと居酒屋での開催でしたが、今回初めて、民家で鍋を突きながらの寄り合いとなりました。

初めに「アパート」と書きましたが、これがまた、かぐや姫の『神田川』に出てくるような、木造モルタル二階建て、風呂はないし都市ガスも通っていない…という昔ながらの「貧乏学生の宿」なのでした。

なにゆえにそんなアパートを?と思われるでしょうが、ご婦人のお一方が美術系のアーティストで、自宅以外にアトリエを…というので借りておられるのです。

掃除が行き届いている上に、置かれた家財ひとつひとつにアーティストのセンスが発揮されていて、「木造モルタル風呂なしアパート」といっても、とてもお洒落で居心地がいいのでした。



さて、お手製の料理と鍋を食しながら、いつものように「ややお上品げ」な会話を続けていました。

私たちは皆、カトリックの信徒です。そして、そこそこ教養(?)もある。
だから、どうしても話の内容が、信仰や音楽や文藝…といった「文化教室後の懇談会」みたいな傾向になり勝ちなのです。

でもねエ…と、私は焦りと空しさを感じ始めていました。


もともと私が三人の中年独身男性に「集まろうよ!」と呼びかけた本意は、
「このままじゃ、孤独死するかもよ?ヤバクないか?」
という切羽詰った実感からでした。

その呼びかけに応えてくれたのですから、濃淡の違いは多少あれど、
「何とか変らなきゃ」という意識があるハズです。

でも、集まると、ナゼかどうしても踏み込めない。普通の飲み会になってしまう。

そこで、この問題に関心のありそうなご婦人たちに声を掛けたのです。
私の目にそんなに間違いはなかったようで、彼女たちも参加してくれるようになりました。



そして昨夜、会も終わり頃になって、ご婦人の一人が、私の思いを代弁するように口火を切ってくれたのです。

「じゃあ、共同で部屋をいくつか借りましょうよ。生計は自活しながら、困ったときは助け合うって感じで」

そうです!そうです!

つまり、『現代版人情長屋』を、意図的につくってしまうのです!

すでに東京の若者たちの間では、十数人単位でのルームシェアが胎動しています。
たいていは「世話人」格の大人が付いているようですが、それは若者たちが経済的にも自我においても安定していないからでしょう。

でも、私たちはもう大人なのだから…。

それから色んなアイデアが、夢のように出てきました。


信徒の高齢化が進む教会では、ミサに与りたくても叶わないひとが増える一方です。私たちの共同体にそういう人々を集め、司祭を呼んでミサが出来ないだろうか?…

教会にもいわゆる「ニート」「ひきこもり」と言われる若者(もはや若くない人も含めて)がおおぜいいる。
彼らの「休息所」に出来ないだろうか?…



もちろん酒の勢いもありますから、ある種デタラメのように考えが浮かぶのですが、少なくとも二つの点に於いては真実を突いている…と思うのです。

・孤立するな。共同体を作って助け合おう。

・自分が動かなければ何も変らない。「常識」に媚びる必要はない。

この二点に関しては、仕事に縛られてヒヤヒヤしてばかりの独身男どもよりも、ご婦人の方が直感で真実を掴み、行動に移す腰も軽いようでした。



「ピンチはチャンス」だと思います。

今のように古今未曾有の激動期こそ、「お助け共同体」を意図的に作るチャンスだと思うのです。

ちょいと前なら「変人」「可哀相な人の集まり」と白眼視されたでしょうが、今は多くの人が「明日は我が身」と感じる時代ですから、むしろ、
「お、そんな方法で生き延びてもいいのか?」
と、勇気を感じてくれるかもしれないし。



昨日カトリックでは、聖母マリアと父ヨゼフ、そしてイエスの「家族」を祝う「聖家族」の祝日でした。

その日が、私のいう「お助け長屋」の棟上げ式、新しい共同体の出発になることを、私たちは予感したのです。





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