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震災文庫 新たに16件の阪神・淡路大震災の関連映像を公開

2023-01-13 19:57:15 | ニュース
  神戸大学附属図書館は、1月12日、震災文庫デジタルアーカイブでサンテレビジョン撮影の映像を新たに公開したことを発表した。〈塚本光〉


(画像:震災文庫サイトのスクリーンショット)

 神戸大学附属図書館は、震災文庫デジタルアーカイブでサンテレビジョン撮影の映像を新たに16件公開した。

 今回公開された映像には、震災当日正午前の空撮映像や、当日の夜に生中継で放送された、須磨区大田町の火災現場と神戸市立西市民病院の映像などが含まれている。
また、インターネットでの公開が適切ではないと判断された映像も1件追加された。これらの画像は、震災文庫の室内設置端末での閲覧が可能。
 
「震災文庫」は、神戸大附属図書館の社会科学系図書館管理棟3階にあり、1995年の地震発生の3か月後から阪神・淡路大震災関連の資料の収集を開始し、保存している。

●デジタルアーカイブの視聴はこちらから=https://lib.kobe-u.ac.jp/libraries/23198/



【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)=父・博昭さん、母・典子さんの証言=<前編>

2023-01-13 14:08:18 | 阪神・淡路大震災
 二宮健太郎さん(当時21歳、千葉県市川高校卒、法学部2年・根岸ゼミ/テニスサークル「ビッグアップル」所属)は、神戸市灘区友田町4丁目1番地の下宿2階に暮らしていた。
 震災当日、いったん出社した父・博昭さんは、昼食時にテレビで伝えられる神戸の光景を見て、急ぎ帰宅。夜のANA臨時便で大阪に向かった。
 翌朝、伊丹の妻・典子さんの実家で義弟と合流。自転車で神戸に入る。
 健太郎さんの住むアパート手前の角を、祈るような気持ちで曲がったが、そこには、無残にもペシャンコになった建物があった。瓦礫をはいでいくと…、そこに見覚えのある左手が見えた。

 取材班は、千葉県船橋市の実家を訪ねて、父・博昭さん(78)、母・典子さん(72)にお話をうかがった。

【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/d2620c207cd412b67e2124cf287dcb70
【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/90422d79434ff8f1b9fa37b8ae355b61


《写真》テニスサークル「ビッグアップル」の夏合宿で。(1994年8月、山梨県)

電話がつながらない… 当日夜の臨時便で大阪へ向かう

きき手)地震当日、どのようにして地震の発生を知ったのか。いま一度、詳しく教えてください。
父)私たちは、千葉県船橋市の社宅にいました。地震の大きさはあんまり感じなかったものですから、私は朝、普通どおり会社に出ました。神戸は最初は震度6というような、報じ方をされてですね、ああそうかと。ちょっと大きいなと思いながら出社しました。

父)普通どおり、仕事をやっておりましたところ、昼食の時間になりましてテレビを見たらですね、高速道路が倒壊するとか、大変なシーンを見まして、これは大変だと。大丈夫かなと思って、すぐ健太郎に電話を入れたんですね。当時は携帯を持っておりませんでした。健太郎も持っておりませんでした。そしたら、ブーブーと鳴るだけで、つながらないんですね、あれどうしたんかなと。

父)その後、何回か電話をかけても同じような状況でしたから、これは、ひょっとしたらと…。すぐ、会社を早退しました。関西の、神戸の方へ行くべくいろいろ情報を集めたんですが、新幹線がストップし、フライト(航空便)もストップしてですね、どうしようもない。
夜になって、ANAの臨時便が出るという情報に接しまして、それに乗ってなんとか関空のほうへ飛びました。

父)大阪に着いた時には遅い時間でしたから、会社の近くのいつも宿泊していたホテルに泊まりました。
きき手)1月17日は、朝の揺れは感じなかったですか。
父)揺れは分からなかった。
母)ただ私の妹が、埼玉の方にいるんですけれども、彼女の方は揺れたと言ってました。ただ、私たちには、揺れは感じなかったです。


《写真》千葉県船橋市で行われたインタビュー(2022年11月20日午後)

関西で生まれ育ち、中学2年で千葉に転校

きき手)神戸に行かなければと強く感じたのは、どういうことからだったですか。
父)テレビで、家などが倒壊している状態が見えてですね、これはと…。というのは、健太郎の家はモルタルづくりの古い家だったんですね。

きき手)アパートだったんですか。
母)木造の2階建ての文化住宅で、モルタル塗り。1階に2戸、2階に2戸、合計4戸の古い住宅です。
きき手)「○○荘」というような、アパートの名前はなかったんですね。
父)表示は何もなかったですね。

きき手)お父様は、差し支えなければどんな会社にお勤めだったんですか?
父)住友化学です。私は大学時代に法律を専攻しておりまして、その縁があってか、法務部に所属していました。

きき手)住友系の会社の多くは、もともと関西が拠点ですね。
父)ええ、大阪市内の中之島に住友ビルというのがあって、そこに20年近くおりまして、それから東京の方に転勤しました。
きき手)では、東京に住まいを移されたのはいつごろでしたか?
父)転勤で東京に来たのは昭和62年(1987年)です。
きき手)健太郎さんが何歳ぐらいの時ですか?
父)我々が結婚したのは昭和47年(1972年)で、関東に引っ越してきた時は、健太郎は中学2年生でした。
母)最初奈良の方に、家を構えましたので、小学校、中学校はそっち(奈良)の方です。
きき手)じゃあ関西には、なじみがあったんですね。
父)ええもちろんです。で、大学は神戸に行きたいと。
母)関西しか目に入っていなかったんです。夢は、甲子園球場で旗を持って走りまくることでした。(笑)
きき手)野球チームを応援したいから?
母)阪神タイガースを応援したいから。(笑)
父)希望がかなって向こう(神戸)の大学に行って…。巨人じゃなくて阪神なんです。
母)言葉も、関西弁で通していましたね。弟の方は標準語に直すことが多かったけれど。

震災翌日、自転車で伊丹から神戸へ 道は寸断、迂回しながら

父)神戸に向かうときは、お父様とお母様お二人だったんですか?
母)1月17日の夜は主人だけです。
父)私がまず行ってみてということで、状況がまだ分からなかったものですから。2人で一緒に行くことにはまだならなかったですね。
きき手)お母様はどういうお気持ちで、待っていたのですか。
母)電話をかけてもかけてもつながらないし、その日だったか次の日だったか覚えてないんですけれども、テレビかなラジオかな、この人を捜していますというようなところ(安否情報の受け付け)に電話をして、連絡待ちみたいなことをしてたりとかしたんですけど、全然、連絡がない。

母)私の里が兵庫県伊丹市なんですね。次の日(1月18日)に、主人がとりあえず、
そこへ何とかたどりついて。それで、私の弟と一緒に、神戸に自転車で行ってくれたんです。
父)18日朝、阪急電車で移動しました。
きき手)伊丹駅も高架の駅が落ちている状態だったですよね。
父)一つ手前の新伊丹駅の先で(乗客を)降ろしてたんですよ。
きき手)臨時に降りる場所があった?
父)そうそうそれを急きょ作ってたんですね。そこで降りてトコトコ歩いてですね。ご存じですか、伊丹には住友電工の大きな工場がある。昆陽(こや)池がありますね。そこの、近くに、家内の家があるんです。

母)昆陽池っていう大きな、伊丹空港で飛行機で乗って上から見れば、見えますね。行基上人が作ったという大きな池で、あの近くなんです私の実家が。
きき手)ということは、お父様は義理の弟さんと合流されたと。
父)そうです。一緒に自転車に乗って神戸へ向かいました。
きき手)何時ごろ出発しましたか?
父)何時ごろかな、午前9時とか10時あたりでしょうか。

父)午前中にスタートして、途中、道があちこちで寸断されていましてね。もうまっすぐ西の方(神戸の方)へ行けないんですね。ずーっと海側じゃなくて山側の方に迂回しながら。

《写真》インタビューはオンラインでも行われた(2022年11月20日午後)

グランド六甲を過ぎ、友田町にあるアパートへ

[地図]=神戸市灘区友田町4丁目1番地 https://goo.gl/maps/REPZ66Wh2qU92ezJ8

父)阪急六甲駅、JR六甲道駅、それから阪神新在家駅と、(山側から)ほぼ一直線になってますね。
健太郎のアパートは新在家の駅と2国(国道2号)の間の、灘区友田町というところなんですね。
きき手)何時ごろ着いたかは覚えていらっしぃますか?
父)たぶんね(1月18日の)午前11時とかね。それぐらいだったと思いますね。六甲ボウルというボウリング場をご存じですか?
母)今もうないでしょ。
きき手)いま「神戸六甲ボウル」があるグランド六甲のビルですね。
父)たぶんそこだと思います。
父)そこから自転車を走らせて、海側の新在家駅の方向に下りていって、そして、左に曲がったら、すぐ健太郎の住むアパートが見えるんです。

祈る気持ちで角を曲がると… 無残にも潰れたアパートが

父)その角を曲がるときにね、家が潰れてたら、もうダメの可能性がある。そうでなくて、きちんと残ってたら、これは幸いということになる。祈るような思いで角を曲がったんですよ。
曲がったら…アパートは無残にもペシャンコになっておりましてね。それで、ああこれは大変だと。

父)1階部分はもうなくなっていた。下におじいさん、おばあさんがおられて、1人は亡くなられたというのは後で聞きましたが。健太郎は2階にいました。

父)健太郎の部屋は2つあって。1つは勉強部屋いうか、居間。6畳やったかしらね。
母)6畳ぐらいね。
父)それから隣も6畳ぐらいかな、いや隣はちょっと小さかったかな。
きき手)2間?
父)2間あったんです。

父)手前の広い方の部屋の中に潜って行ったら、まだ空白部分があったんです。というのは、机があったもんですから、それでもって、ペシャンコにならなかったんですね。
ですから、例えば机の下に健太郎がいたとしたら、まだ生存の余地があるなと瞬間的に思ったんですが、そこにはいなかったんですね。

父)そして、その奥の方の寝室です。そこは、どうかなと思って見ても、もうグシャッとなっていて、中の状況は全然分からなかったんですね。

父)手前の部屋は机があって、空白部分(空間)が残ってたもんですから。ですから、ひょっとしたら、助かってるかもしれない。外へ出てるかもしれない。あいつのことだから、あちこち、他の人の救助や世話とかで出かけてるかもしれないなと、そういう思いもあったもんですから。アパートの周辺(の町)を私自身、ぐるぐる回ってみたんですね。小学校もありました。
きき手)ちょっと山の方ですか?
父)六甲ボウルまでの間にね。(編集部注:神戸市立烏帽子中学校と思われる)

父)そこには「誰々さん、連絡待つ」とかいろいろ、メモとか連絡書がたくさん貼り付けてありましたから、それをひとつずつ見ながら、ずっと、歩いて回って…。

父)その間、30分なり40分なりあったと思います。


《写真》倒壊した二宮さんのアパート。北側道路の東から撮影。(1995年3月18日撮影 「震災犠牲者聞き語り調査会」提供)

寝室を捜索 瓦礫の中に、左手が見えた

父)そして、そのあと、また現場へ戻ってきて、健太郎の寝室あたりを集中的に、ひとつひとつ、上の方から、瓦礫を取り除いていったんですね。
私は、寝る位置とかよく知っていましたので。

父)どれくらいだったか忘れましたが、瓦礫をはがしていった時にね、仰向けになって寝ていた健太郎の、左手を、一番最初に発見しました。非常に冷たくなっていました。
母)いつも寝る時に、こうして(ひじをあげて、手のひらを上に向けて)寝るんですね。
父)健太郎の手の形は私のとよく似ているから、これはもう健太郎に間違いないと思いました。
きき手)ということは最初に見つけられたのはお父様?
父)そうです。私が最初に見つけたんです。それから近所の人、6人か7人かに手伝ってもらって健太郎を引っぱり出したんです。近所の人には大変お世話になりました。

息子をリヤカーに乗せ、遺体安置所へ

父)そして、健太郎をリヤカーに乗せました。
お手伝してくださった方の中の一人に、リヤカーを出してもらいまして。健太郎に毛布をかぶせて。2国沿いにあった、灘区役所へ運びました。(編集部注:山手幹線沿いにあった)
きき手)当時は、水道筋の方に区役所はありましたね。
父)リヤカーは私一人で引っ張って行きました。
そしたら、区役所は、もう既に遺体で満杯状態で、ここではもう収容できませんと、職員の人に言われて。ああ困った、どうしようと思っていましたら、王子のスポーツセンターがありますよ、と教えていただきました。

父)そこからまた…。
きき手)さらに西ですね。
父)西の方へ西の方へと(進みました)。もう当日は寒くて寒くてね。頭の中は真っ白な状態で、ただ呆然と西の方へリヤカーを引っ張って行ったのを思い出します。

父)スポーツセンターの近くになったら、荷台の広い車が通りかかり、声をかけてくださる人がいて。どこへ行くのかと聞かれたので、これこれで「スポーツセンターへ」と言ったら、乗せてあげるからということになり、健太郎と一緒にセンターまで行きました。
きき手)荷台のある車、軽トラックのような?
父)そうですそうです。それが、当日の状況です。
きき手)これが1月18日の、午後ですね。

遺体が並ぶ、王子スポーツセンター

父)スポーツセンターは、ものすごくたくさんの、たぶん数百人オーダーの遺体が、広い床一面に並んでいまして、そこへ運び込むという状況になりました。

父)阿鼻叫喚というのは、まさにこういう状況なのかと思いました。
当日、夜になってやっと、家内と次男が一緒に、王子スポーツセンターのほうに到着しました。

母・典子さんと次男・潤一郎さんも神戸へ

きき手)奥様には、いつどのように連絡が入ったんですか。
母)私は時間的な感覚というのは忘れているんですけど、健太郎のいた家の、道向かいの方が電話を貸して下さって、主人が家に電話をかけてきてくれたのを覚えているんですね。
きき手)何ておっしゃいました、ご主人はその時。
母)どう言ったんやろね。ダメやった言うたんかな、全然覚えてないね。

母)それでまあ、とにかく、電話も途切れ途切れなんですね。きちっとつながらない状態で。何を言ってるのか。どうも駄目だったって言ってるふうに聞こえて。それで、下の息子を連れて、その日の最終便のフライトで伊丹に入りました。

母)とにかく、伊丹の空港に着いて。それで、私の実家が伊丹ですから、なんとかタクシーも行ってくれて。それで、きょうは神戸に入るのは無理だと思っていたら、弟が神戸から自転車で…。
きき手)また戻っていらしてたんですか?
母)戻っていて、それで行こうって言ってくれて。私と下の息子をのせて、神戸へ走ってくれたんです。

きき手)交通手段は?
母)弟の車です。彼はその日(1月18日)自転車で(神戸から)帰りながら、道がここだめあっちだめと分かりながら帰ってきている。だから、家から自動車で阪神競馬場の方へ抜けて、そこから(西宮市)仁川の山の方ですかね。ずっと住宅地の中を通りながら、こっちだろ、こっちで間違いないだろう、と言いながら神戸にたどりつきました。
その日の夜は、(スポーツセンターの)体育館で過ごしました。

きき手)お父様が神戸に向かわれるとき、臨時便を待つまでのお気持ちというのは、どんなようなものだったのでしょうか。
父)そうですね正直、どうなってるか全く分からない。情報が何も得られない。
ですから、悪いことを想像したり。あいつのことだから、と逆の発想をしたりですね。そこから揺れ動いて、もうちょっと…普通の状況ではなかったですね。

父)あのころっていうのは、携帯電話を持ってる方って、ほんの、一部の人だったんですね。それで、我々が受ける情報というのはテレビぐらいしかないんです。
火事の現場とか阪神高速や家屋が倒壊しているとか。
ヘリコプターからそれを俯瞰している、そういう情報しかなくて。
電話をしても、つながらない。
これは絶対何かあった、ということしか思えなかった。

梁が落ちてきて、胸を横断するように

きき手)お父様は友田町の角を曲がるとき、祈るような気持だったと、いうことでしたね。
父)そうですね。あの時(倒壊したアパートを見て)、地獄へ突き落とされたみたいな、そういう感じにもなりました。
それでもなおまだ、健太郎は2階にいたしね。1階に比べて、まだ少し安全だから。ケガはしていても、なんとか無事でいてくれという、思いはありました。
しかしかなりのところ、ショックを受けて、足が、ガタガタ震えていましたですね。

きき手)1階と2階に東西で2軒2軒ですか。
父)そうですね。
きき手)2階の、西側でしたか?東側でしたか?
父)西側です。西側の2階です。
きき手)へしゃげて?
父)もうグシャやったね。道路に倒れたり後ろに倒れたりではなく、まっすぐズトンと、
きき手)まっすぐ、ずとんと落ちる感じ?
母)一番揺れがきつい場所だった。
きき手)震度7というのが一番強い揺れの地点ですね。
父)友田町の辺りは、山側に比べて、圧倒的に震度が強かったと思います。

きき手)2階ということは、天井や屋根が落ちてきているわけですか?
父)そうです。天井の梁(はり)が…。申し忘れましたが、瓦礫を剥いでいくでしょ、そしたらね、このように梁が、こんなに胸を横断するような形で梁が落ちてきてました。
ですから、もう、即死ですね。多分。


《写真》倒壊したアパートから取り出された、ラケットとバイクのヘルメットは、実家で大切に保管されている (2022年11月20日、千葉県船橋市で)

胸部の圧死 瞬時のできごとだった

父)検視の結果もそうですが、胸部の圧死ですよね。それが、死因です。
私は、健太郎が……<声を詰まらせる>…涙をね…流してたら、どうしようかと。なぜならば、前日に(救援に)来れなかった。来てやれなかった。
それがゆえに、健太郎が家族のことを思いながら涙を流しながら息を引き取っていたとしたら、申し訳ないなと、心の中で強く思ってたんです。
彼の目を見たら、涙が出てなかった。それほど、瞬時の圧死だったのですね。検視の結果も、そういうことでしたね。

父)2階だったら何10%ぐらい助かってもいいのになと…。2階だと助かった例も結構ありますし。そういうケースだったらよかったんですが、不幸にも、梁が胸部を、もう本当に横断するような形でドンと落ちてました。ですから、これはもう、どうしようもない状況だったなと思います。

きき手)今、お父様のお話にあった思いは、つまり、前日、長い間苦しまれて救援を待っていたのだったら…と、お父様は思われたんですね。
父)そうですそうです。
きき手)早く助けてほしいという訴えを、もししていたとしたら…という思いだったと。
父)そうです。

きき手)手は冷たかったんですね。
父)冷たい。そうでなくてもね。あの日の冷たさというか。
母)あのときは寒かったね。
父)非常に寒かったです。寒いのを想定して、厚着して行ったんですが、それでも凍りつくような、寒さでした。

【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)=父・博昭さん、母・典子さんの証言=<後編>に続く。


《写真》千葉県船橋市で行われたインタビュー(2022年11月20日午後)

<2022年11月20日取材/2023年1月13日 アップロード>

【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/d2620c207cd412b67e2124cf287dcb70
【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/90422d79434ff8f1b9fa37b8ae355b61

【連載 【慰霊碑の向こうに】 震災の日、学生たちの命は…】
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています

https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3e6b34f6761ad0439dea1a0d93c2e9c1



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【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)=父・博昭さん、母・典子さんの証言=<後編>

2023-01-13 14:07:03 | 阪神・淡路大震災
 二宮健太郎さん(当時21歳、千葉県市川高校卒、法学部2年・根岸ゼミ/テニスサークル「ビッグアップル」所属)は、神戸市灘区友田町4丁目1番地のアパート2階で亡くなった。圧死だったという。
 母・典子さんは何か月も泣き続けた。あとは自分の心を閉ざして過ごして来たと話す。このインタビューの日、久しぶりに感覚の扉を開けたと語ってくれた。

 神戸で大きな地震がありました、という1行で終わせてほしくないという母。
 関西出張の折にはときどき大学慰霊碑に立ち寄るという父・博昭さんは、後々に伝えていくことは、「リスク管理にも、人間形成にも通じる」と語る。
 取材班は、千葉県船橋市のご実家を訪ねて、父・博昭さん(78)、母・典子さん(72)にお話をうかがった。

【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/d2620c207cd412b67e2124cf287dcb70
【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/90422d79434ff8f1b9fa37b8ae355b61


《写真 インタビューを受ける父・博昭さんと母・典子さん》

冷たい安置所に家族3人 「あれが本当のお通夜だった」

きき手)王子スポーツセンターに、お母様と次男の潤一郎さんが到着したのは、だいたい何時ごろでしたか?
母)もう真っ暗でした、真っ暗です。夜の8時、もっと(遅かった)かな。伊丹から車で行くのも、街灯がないようなところを車の光だけで。そうすると電信柱が倒れてて、電線が垂れ下がって道を横切っているとか。道路がひびで段差があるとか、そういうところを抜けながら走ってくれたんで、はっきり覚えてないですね。
でもとにかくスポーツセンターに着いて、なんか…あれが本当のお通夜だったんですけれど。とにかく、冷たかったとしか、覚えてないですね。
どういうふうにしてひと晩過ごしたのかというの、ほとんど記憶にないですね。
きき手)スポーツセンターは体育館の1階のフロアでしたか?
父)ものすごく広いところですよ。体育館は。
母)その隅っこで、3人でいたよね。

母)健太郎が安置されていた場所と違うところで、一晩過ごしているから。
きき手)そうなんですか。
父)すぐ横で寝たわけじゃないんです。
母)だから安置されているところは、数十センチの間隔で、遺体がいっぱい並んでいましたので、横で寝れるような状況ではなかったですね。
きき手)そんな中で、ほかの神戸大生も同じスポーツセンターに安置されていることを聞かれたわけですか?
母)そうです。あの人は応援団の団長さんとか。そういうふうな話も、伝わってきてましたしね。

きき手)では健太郎さんは、胸にダメージを受けたのですね。
父)間違いなくそうでしょうね。美しい顔をしていました。
母)そのまんま寝ている感じでした。

「健ちゃんの代わりに僕が死んだらよかった」

きき手)当時、次男の潤一郎さんはおいくつでしたか?
母)1つ下なんです。健太郎は一浪してましたから、だから、同じ大学2年生でした。関東の方の大学の。
きき手)弟さんは、お兄様がそういう状況だというのを、どう受け止めておられましたか?
母)空港に私と行く時に、「健ちゃんの代わりに僕が死んだらよかった」って言ってました。怒りましたけど。
「どっちも大切な息子なんよ。そんなこと言うたらあかん」って言って怒りましたけどね。
母)とにかく、健太郎が大好きな子だったです。
「兄貴が、親の面倒を見てくれるから、僕は自由気ままに過ごさせてもらう」って。健太郎のほうも、「お前は団体生活多分無理やろうから、手に職をつけたほうがいいぞ」って、そんなこと言うような、仲のいい兄弟でした。
父)今、バンコクで元気に働いてますけどね。
きき手)何をなさってらっしゃるんですか。
父)会計事務所に、税務関係の資格も取ってましたので、だから、それを生かすような仕事をやっています。
母)まあ、そういう、税理士の資格を取るのも、健太郎が「お前は何か資格とれよ」って、言ってたんで。だから、兄貴の遺言だと思って勉強してましたね。

父)健太郎は、根岸ゼミに行くことが決まったんですよね。決まって喜んでたんですよ。
まだ、ゼミのスタートに間に合わず、その前に亡くなったんですが。
きき手)3年生から正式にゼミ生になれるはずだったんですね。
父)ですから、根岸先生に決まったよって報告を受けて。独禁法の先生でしょ、根岸先生は、私がいた企業法務の中ではよく知られた先生でした。


《写真》実家に帰省して、父・博昭さん(右)、弟・潤一郎さん(中央)と。(2022年11月20日午後)

被災者の中に似た青年 「健太郎が挨拶に来てくれたんかな」

きき手)健太郎さんに、お母様と次男の潤一郎さんが合流された時、奥様はどんなご様子でしたか。
父)はー(大きなため息)。
母)覚えてないね。
父)そりゃね。覚悟しきって、来ましたからね。
母)涙が出たかも覚えてないですね。

母)ただ、私はすごく、印象強くて、あれ健太郎が挨拶に来てくれたんかなと思ったのが…、その日じゃないんですけれど、明るかったんで、その1日、2日後だったかもしれないんですけれど。
伊丹の実家から神戸に走ってもらっているときに、途中で、西宮辺りだったんですけれど、被災された方たちが並んでいる中に、後ろ姿が、まるっきり健太郎の姿の子がいたんですね。
思わず、健太郎ー、健ちゃん!と言って叫んだんですけど。
その人とは、もう1回西宮辺りで、姿を見てるんですが、車の中からですから、お顔は分かんないんですけど、後ろ姿。ただ体格がまるっきり息子の体格だったんで。だから、健太郎が、最後の別れに来てくれたんかなとか思ったりして。そのときは、涙が出たけれど。

この20数年、閉ざした感情

母)一晩スポーツセンターで過ごした時とか、涙が出たような覚えがないんですね。
もう何か、別世界に自分が入れられたというような感覚だったと思うんですけど。
何かこう感情を閉ざしてしまったというか。それを、開けると、どうなるか自分が分からないから、閉ざしちゃったみたいな、そういう感覚だったんかなと思いますね。

母)だからきょう、久しぶりに感覚を、扉を開けちゃって。今まではもう本当に、この20何年間できるだけ(閉ざしていた)。
最初の半年とか2、3年は狂ったみたいになっていたんですけれど。でも、そこから立ち直って、あとは自分の心を閉ざしている。
神戸の震災のことに関しては、できるだけ刺激を与えないようにして、過ごしてきたという、そういう感覚があります。

「ここに涙を溜めて」 友人の陶芸作家が鉢を作ってくれた

父)会社から帰るでしょ。毎日ね。もうずっと、何か月も泣き続けなんですよね。泣き続けて、もう本当に、出る涙が無くなるのではないかと思ったぐらいで。
部屋の奥に大きなボウルがあるでしょう。鉢がありますが。
父)あれは、家内の友だちで陶芸家の方が、「二宮さん、そんなに泣くんだったら、この中に、思いきり涙を入れなさい」、「これを一杯にしなさい」と言って、あれを作ってくれたんです。
私もずっと、夫として何ができるのか途方に暮れていましたので、友だちの優しさをつくづく感じました。

きき手)会社に行かれるとお仕事ですよね。
母)だから男の方はいいですよね。気を紛らわすことが、ありますから。
父)その違いですよ、そう。


《写真》典子さんの友人の陶芸作家が作ってくれた大きな鉢。(2022年11月20日撮影)

ゆかりのある豊中に遺体を運ぶ

きき手)王子スポーツセンターでは、まだその健太郎さんを連れて帰るわけにはいかない手続きがありましたね。
父)翌1月19日の午前中に、検視がありました。
きき手)ドクターがそこにいたんですか?王子スポーツセンターに。
母)巡回して来てましたね。
父)たくさん手分けされていたんじゃないかと思います。(遺体が)多かったですからね。結構時間がかかりました。待ちに待ちましたからね。

父)19日の午前中にやっと検視が行われて、午後になって、健太郎を大阪・豊中の方へ、「玉泉院」という葬儀屋さんですが、運びました。
玉泉院の葬儀用の車がありますよね。
やっと棺もできて、それでもって運んで。

きき手)千葉ではなく豊中でというご判断は、お母様の実家も近いということなんですか?
母)まず連れて帰るという気持ちはなかったんです。で豊中は、昔住んでいたところです。
父)住んでいたんです。
きき手)関西時代に住んでいらっしゃった?
父)はい。われわれが以前住んでいたのは、豊中市の曽根なんです。ですから、庄内の玉泉院はそんなに遠くはないんですね。土地勘があるでしょ。
そして、健太郎のお友だちのね、それ(交通の便)もありますし。葬儀をやるなら、やはり関西でやったほうがいいだろうという判断でした。
母)私の父もまだいましたし、弟夫婦も(伊丹に)いますから。
きき手)関西の方が、お知り合いや親戚も多いし、ということで豊中を選ばれたんですね。

医学部で検案書を入手 灘区役所に死亡届

きき手)そしてそのあと、お父様の記録では検案書入手となっています。1月20日ですか。
父)はい。
きき手)これちょっとタイムラグがあるんですね、検視から。
父)そうですね大学まで行きまして…。
きき手)取りに行かなきゃいけなかったんですか?
父)はい行きました。
きき手)大変ですね距離がありますし、交通ストップしているし。
父)我々はまだ、泊まるところが伊丹のほうでしたから助かりました。
いちいち、東京とか往復するわけにもいかないし。

きき手)医学部で検案書を入手する、灘区役所に死亡届という移動は、弟さんの車で行かれたんですか。
父・母)そうです。
母)住民票は、神戸に移してたんです。
そんなことがあるとは思わないでただ、ちゃんと、自分がいるところに住民票を移しておいた方が何かあったときにはいいかなと、こっちに置いておくよりは持っていきなさいと言って。

順番待ちで、1月26日にようやく告別式

きき手)その後、1月21日が、湯灌となっています。
父)玉泉院は、それなりに広さはあるんですが、ここも満杯の状態でね。棺が並んでいて。これはちょっと時間がかかるなと感じました。そのとおりになりました。
きき手)順番待ちになってるわけですね。
父)そうなんです。

きき手)1月26日木曜日、さらに5日ほど後にやっと告別式が行われました。これは何待ちだったんですか。
母)もしかすると焼き場の順番待ちかな。
父)向こうの事情はよく分かりません。私たちが言われたのは、お通夜どうしますか?お葬式どうしますか?みたいな。お通夜はしません、ということを言いました。
きき手)それはなぜですか。
母)もう、スポーツセンターで過ごした一晩がお通夜です。

母)交通手段で、みなさんが来て下さるのかどうか分からない。そんな時にお通夜なんて、迷惑になると。我々だけで、お通夜をしたんだから、もうお通夜はいらないと、決めましたね。

母)次の日の、お葬式の日は、阪急電車動いてた?
父)阪急は動いてたんじゃない?全線じゃないけどね。西宮北口までとかね。
母)お友だちとか何か。あんなにたくさん、来てくれるとは思わなかったもんね。

友人も約80人が参列

きき手)告別式はどんな様子でしたか。
父)参列者140名なんですね。うち、友人80人です。
私の会社関係でたくさん来てもらうというのは、違うだろうなと。やはり健太郎の葬儀なんで、友だちを最優先にすべきだと判断しました。
会社には、そこら辺りは徹底しまして。それでも、手伝いの申し出もありましたもんですから、最小限の人間でやりました。
学生のみなさん、友だちに、たくさん来ていただきました。
きき手)大学のお友だちが多かったのですね。
父)もちろんそうですよ。テニスサークルとかね、そのほかの友人の方々も、いろいろおられたんじゃないかと思います。
母)サークルは神戸大学だけじゃなくて、周りの大学の…。
きき手)いわゆるインカレサークルでいろんな大学のメンバーがいたわけですか?
母)そうです。そういうところからも来て下さってたんだと、思うんです。

きき手)たくさん来られたんですね、80人も。だってみなさん、交通も大変だし自分のおうちも大変だったかもしれない。
父)よく来ていただきましたよね。

会長をしていたテニスサークルに優勝杯を贈る

父)健太郎はテニスをやっていました。テニスサークルで、ヘッド(会長)だったんです。震災から少し経ってから、私の方で優勝カップを作って、健太郎のメモリアルというかたちで大会を開いていただいて。優勝カップの取り合いみたいな感じで、やっていただきました。健太郎の思いが何らかの形で伝わったかなと、思っています。
きき手)つまり「健太郎杯」のようなかたちですね。
父)そういうことですね。

きき手)健太郎さんが所属していたのは、当時のニュースネットの紙面には、「テニスサークル・ビッグアップル」とあります。
父)そうです。
きき手)では、そのお友だちも、豊中での葬儀にはたくさん参列されて。で、1月27日に、こちら(千葉県船橋市)に帰ってこられた。
父)そうです。


《写真》学園祭「六甲祭」では、テニスサークル「ビッグアップル」の仲間と模擬店を出した。中央が健太郎さん。(1994年11月13日撮影)

葬儀では好きだったミスチルの曲

母)地震のあった日の直前の、彼の行動なんですけど。高校時代のお友だちが、阪大に行っていて、豊中にいたんですね。
服部くんっていうんですけれども、そこへ、健太郎は遊びに行っていて、その時に、僕のいま好きな曲やと言って、ミスチル(Mr.Children)のテープを流してたらしいんですね。
きき手)前日ですか。
母)2日前、1月15日です。
15日は2人で騒いだあと友だちのうちで泊まり、翌日も泊まっていくよう誘われたようですが、健太郎はバイクに乗って、家庭教師のバイトがあるからといって、神戸に戻って、家庭教師をして。国語が苦手な生徒さんに、どうしたらいいか考えていたようです。
健太郎のアパートのすぐそばの道沿いに、小さなレンタルビデオ屋さんがあったんです。そこでもバイトをしていたんですが、1月16日の夜はそこに立ち寄って、借りていたビデオを何本か返して、明け方の3時ぐらいまで、そこでお喋りをしていたそうなんです。
父)新在家の駅のほんの近くです。
きき手)大きな、通りに面している。
母)で、確か午前3時ごろまでおしゃべりしてて、それで、自分の部屋へ戻って…。だから、眠りが深かったんだと思うんですね。2時間ぐらいあとにドーンとなったわけですから。

母)それで、お葬式の時も、彼の持ってたそのミスチルのテープを会場に流しました。
まだミスチルが出てきて、1年、2年、それぐらいの頃だったんでしょうかね。
きき手)家庭教師しなくて、そのままお友だちの家にいたら…。
母)友だちが泊まれよって、言ってくれているのに。
父)アルバイトの家庭教師の教え子の家は、王子スポーツセンターの近くなんですよ。因縁というかね。

父)あいつも、律儀な人間ですからね。
母)高校時代の友だちで、関西に行ったのはその服部くんと、うちの健太郎と2人ぐらい。しょっちゅう、つるんで遊んでたみたいなんですけど。
きき手)ちょっと時間がずれていたらと思いますよね。
母)もしお酒飲んでたら、バイクにも乗らへんかったやろうなとかね。
バイクは大好きな子だったんですよ。

(編集部注:ミスチル=Mr.Children<ミスター・チルドレン>。1992年5月にメジャーデビューした4人組ロックバンド。1994年発売のシングル『innocent world』で初のオリコンチャート1位を獲得した)


《写真》バイクが好きだった健太郎さん(1994年9月26日撮影)

最後に会ったのは2か月前 愛媛の祖父の一周忌

きき手)震災に遭う前に、健太郎さんと最後に会ってことばを交わしたのは、いつでしたか。
父)前の年の11月ですね。私のふるさと、愛媛県の八幡浜市に私の実家があって、おやじが1993年に亡くなったんです。
で、1周忌が、1994年の11月だったんです。
健太郎もそこに来て、1周忌を行ったんですね。
(法要が)終わったら、今度は松山の方に行って。そこにお墓があるんです。
お墓で手を合わせるでしょ。
おじいちゃんが亡くなって1周忌に墓に来たわけですから、健太郎に向かって「次にお墓に入るのは、お父さんだからね。お前もしっかり、あと面倒を見てくれよ」と、お墓の前で彼と話をしたんです。そしたら彼は律儀に、「うん」と首を縦に振って、それで、神戸へ帰っていったんですね。
それから、2か月たたないうちに震災で健太郎が亡くなってしまった。順番が変わってしまって、私が、彼をお墓に入れなきゃいかんことになってしまった。それが最後の、彼との接触でしたね。


《写真》祖父の法要のあと、松山のお墓の前の健太郎さん(左端)。(1994年11月20日)

4日後に千葉の実家に帰ってくるはずだった

母)1995年の正月には帰ってこなかったんです。
きき手)千葉には帰ってこなかったんですね。
母)というのは、私の実家では私の父がまだ元気でいましたから、健太郎は「おじいちゃんとこで年末過ごさせてもらうわ」と言って。それで、1月の21日に、帰ってくるって言ってたんです。
きき手)千葉・船橋には…。
母)試験が終わってから帰るから、お正月は帰らへんわ言って。
確か21日に帰ってくるって言ってた。試験が終わってから。

多くの友人に好かれて サークル活動に熱中した日々

きき手)健太郎さんのどんなところが、お友だちを引き付けていたのでしょうか。
父)気持ちがものすごくおおらかな人間。ポジティブでした。
私も、下宿に何回か行って語り合い、近くの居酒屋に行って酒を飲みながら楽しく過ごすこともありました。
彼は、前向きに物事を考える人間なんだなと、そういう、印象を強く持ちましたね。千葉にいるころは、人間対人間の話をすることは少なかったんで、よく分からなかったんですが。
テニスサークルでも、結構、男性女性問わず、友だちが増えて結構エンジョイしてたんじゃないかなと思いますね。

母)あの1年生の時から、ビッグアップルの活動が楽しくてしょうがなくて、合宿だの何だの買い出し係。もう次の年は、会長はお前って言われてたらしいんですね。
それで、私に彼が言ったのは、「お母さん、僕、留年してもいいか」って、「僕、サークルの方の活動に、力を入れたいねんけど」って言うから、「あんたそれ、違うでしょ、学生の本分は勉強でしょう」って言って、笑っていさめたことがあるんですけど。それぐらいその、サークル活動がすごく楽しかったみたいで、だから、彼の、アパートには、結構いろんな人が、出入りしてたみたいです。


《写真》健太郎さんを追悼するメッセージが書かれた、テニスサークルの仲間の色紙。(一部画像を加工しています)

母)だからもう、下の息子も、とにかく、健ちゃんがいるから、何でも健ちゃんがやってくれるからって、ずっとそんなふうで。今でも、そんなこと言ったりしてますから。いたらボクもっと楽やったのになあとか。(笑)

きき手)告別式の時に、健太郎さんの友人とは何かお話とかされましたか。
母)法学部のお友だちが1人いたね。あとはビッグアップル系の人が多かったね。
お葬式の日の記憶っていうのはほとんど、頭から消えてしまってますね。
父)私の会社の若い人たちに、告別式のビデオを撮ってもらったんですが、1度も見たことがないんです。元気を持って、それを見つめるというか、そういうエネルギーがなかった。そういう状態でしたね。
健太郎の友だちとはもう少し話ができてたらよかったな、と今になって思っているところです。

愛媛まで墓参りに来てくれた友人も

きき手)告別式のあとに訪ねて来た人はいましたか?
父)ビデオのお店の人とかね、家まで来ていただいて。
母)最後のバイト代を持ってきて下さった。それと彼が好きだったお酒を。
父)酒を持ってきてくれましたね。
父)お酒が強い子だったですね。

父)それから、お墓参りをね、お墓は松山にあるんですが愛媛県の。そちらのほうに友だちが行ってくれたようでした。
母)何か書いてくれてるのね。
父)その時、皆さんが寄せ書きしてくださっていたようで、たまたま、その紙片がお墓の前にありましたので、持って帰りました。
遠くまで友だちが足を運んでお墓参りしてくれたんだなというのが分かりましたですね。非常にうれしかったです。

母)こちらで通っていた中学時代のお友だちも、2回ぐらい、社宅に住んでた頃に、お友だち同士が集まって、寄ってくれたことがありましたね。命日だからとか言って。
きき手)親は分からない交友関係も、そういう時にわかりますね。
母)それとたしか、予備校時代のお友だちも、何人か来てくれたよね。
きき手)健太郎さんには結構いろんなお友だちがいたんだなと思いますね。

後世に伝えるべきものを消さないで

きき手)1月17日には大学キャンパスで、慰霊の献花式があります。お父様お母様、は慰霊碑には、なんども行かれたことがありますよね。
母)主人は大阪出張の時とかに、神戸に行っています。
父)けっこう、はい。
母)私は関西に戻る時に、神戸に友だちとかいるし、一緒に大学まで行ってもらってとか。東遊園地(慰霊のモニュメント)に寄ったりして、関西に戻る時には行ってます。
ただ大学に、慰霊碑のところまで私が行ったのは3回ぐらいですかね。
コロナになってからは、まず関西に行くことができません。

きき手)先生方もどんどん退官されて、人も替わります。学生も4年に1度で入れ代わってしまいます。震災があったこと、慰霊碑があることは、どうやったら伝わっていくでしょうか。
母)行事としてやっていくのは、何年かしたらだんだんと細っていく。でも、歴史の1ページにしちゃいけないと思うんです。こうして伝えていただくのは、本当にありがたいことやなと思います。でも、今の学生さんたちに、こういう思いをかぶせるのも悪いなと思ってますけど。

きき手)今の学生が生きている間にまた何かが起きるでしょうし。
母)南海トラフだって、ねえ。
きき手)その時に今の学生が、いままでそういうことがあったんやというのを知っているのと知ってないのではちょっと違うかなと、思いますよね。
母)こういう大きな災害があった時に、日本国民としての矜持の持ち方といいますか。
神戸のあの時見ても、みんなが、お水を運んだり、そういうのを知ってるのは私たちの年代か、もう少し下の人たちなので。これを、神戸で大きな地震がありましたっていう1行で、終わらしたら、それこそ、後世に伝えるべきものが消えてしまうような気がする。
父)日本は、その災害列島としての特殊性を持っているがゆえに、その、位置づけというかね、そんなんをしっかり見定めて、後々に伝えていくことは、リスク管理というふうなことだけでなくて、人間形成というか、そういうふうなものにも通じる、そういうことではないかなと、私は思ってます。

きき手)健太郎さんをはじめ39人の学生さんが、あの時亡くなられて、そういう先輩たちがいたんだということを、私たちは忘れてほしくないと思っています。そしてそういう事実が、町であったんやということを知らずに、そのまま神戸を通り過ぎてほしくないなというふうに思っています。今日は長時間ありがとうございました。
父・母)ありがとうございました。

【二宮健太郎さんの歩み】
1973年 豊中で生まれる
2歳から4歳まで父・博昭さんの留学でアメリカに
1980年 豊中の小学校に入学
1981年 奈良県の小学校に転校
1987年 父の転勤で千葉・船橋の中学に転校
1989年 千葉県の市川高校に進む
1993年 神戸大学法学部入学
1995年 阪神・淡路大震災で被災


《写真》リビングに飾られた、健太郎さんの写真。(2022年11月20日撮影)

【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/d2620c207cd412b67e2124cf287dcb70
【慰霊碑の向こうに】16 故・二宮健太郎さん(当時法学部2年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/90422d79434ff8f1b9fa37b8ae355b61

【連載 【慰霊碑の向こうに】 震災の日、学生たちの命は…】
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています

https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3e6b34f6761ad0439dea1a0d93c2e9c1

<2022年11月20日取材/2023年1月13日 アップロード>



【編集部注】集合写真に写っておられる方すべてに承諾を得ることができていません。写っておられる方で、画像加工を希望される方や、掲載取り消しを希望される方は、お名前と連絡先(メールアドレス)を 神戸大学ニュースネット委員会 newsnet_kobe_u@goo.jp あてお知らせください。


【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)=姉・都築和子さんの証言=<前編>

2023-01-13 10:42:15 | 阪神・淡路大震災
 櫻井英二さん(当時22歳、愛媛県立八幡浜高校卒、法学部4年・阿部ゼミ/ユースサイクリング同好会)は、神戸市灘区六甲町5丁目7番地の安田文化1階5号室に下宿していた。
 四国・八幡浜に暮らす母・幸子さんにインタビューを申し込んだが、高齢でもあり、英二さんの姉の都築和子さん(神戸市兵庫区在住)に聞いてほしいという答えだった。
 夫や子供とともに東灘区の集合住宅で被災し、加古川へ船で避難。さらに、故郷の愛媛での英二さんとの対面。
圧迫のせいか、「顔が真っ黒だったんですよ。だからすごい苦しかったんだろうな」と証言する。
取材班は、神戸・三宮のビルの会議室で和子さんにお話を伺った。

【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/9bf0c4a091b634fa88beb244e92ff7cb
【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/4a7df18ea52c327df001a6bad941545f


《写真》櫻井英二さん(1994年4月撮影)

社宅マンションの1階がつぶれて… 自身も東灘区で被災した

きき手)櫻井英二さんとは、何歳違いでしたか?
都築さん)昭和39年生まれの私が、小学校2年の時に生まれた弟です。7つ、8つ違いになります。間に妹がいます。

きき手)はじめに震災当日はどこにいらっしゃったんですか?
都築さん)私は当時、神戸市の、東灘区の、阪神高速道路が倒れましたでしょう、あのすぐ近くの、10階建て社宅の8階に住んでいたんですよ。グラグラッと揺れて、すぐに飛び起きて、主人と、子供が2人いたので、お互いにかばうように、覆いかぶさったんです。2回目(の揺れ)が来たんですよね、地震が。今度はドンときたんです。

都築さん)しばらくたってから、とりあえず外に出ようということになって、冷蔵庫とか、全部倒れているんですけれど。そこをよけながら、必死で玄関をあけて、階段から下に降りたら、2階までしか行けないんですよ。ちょっと外を見ると、みなさん2階から飛び降りてるんですよね。
きき手)つまり1階がつぶれて、2階が1階になっていた。

都築さん)1階が、つぶれていると言っても、ぺちゃんこではなくて、2階から飛び降りられる高さまでつぶれていたんですよ。とりあえず私と子どもはそこから飛び降りて、道路脇に腰掛けて待ってたんです。2回目の揺れだと思っていた、ドーンと突き落とすような衝撃は、まさかの1階がつぶれる揺れだったんですよ。主人は、社宅内の仲間と一緒に、1階の人を助けに行こうということで、主人たちは行って。私たちは寒空で震えて待っていたって感じなんです。

都築さん)結局、誰も犠牲者はいなかったんです。あとから避難先で聞いたんですけれど、1階のお部屋の奥さん方は、もう死ぬかと思ったと。結構怖かったみたいですね。

きき手)住んでいた社宅の場所は?
都築さん)東灘区北青木なんですよ。今もうそこは取り壊して、新しい社宅、立派な社宅が建っていますけれど。

[地図]東灘区北青木 https://goo.gl/maps/cz2PeH7Q2fZZkH5x9

きき手)どういう会社の社宅だったんですか。
都築さん)神戸製鋼です。
きき手)神戸では有力な企業で、社宅があちこちにありますね。阪神電車の青木駅の近くでは火災もありました。
都築さん)そこはちょっと気が付かなかった。

きき手)ご自宅自体が大変でした。
都築さん)そうなんです。だから被災者というか。被災者でありながら遺族っていう感じで。はい。

夫の会社からの情報が頼りだった

きき手)東灘区の青木(おおぎ)は、芦屋から神戸市内に入ってすぐのところですね。
都築さん)ですから高速道路が倒れたすぐそばですよ。阪神電車の、北側に7分ほど行ったところですね。先ほどお話ししたように主人達が1階の人を助けに行っている間、つぶれた社宅前の道路脇に腰掛けていた時、その近くの人が(自分たちが)パジャマ姿で来たんで、洋服とか差し入れてくれて。捨てたもんじゃないですよね、いい人もいるんだなと思いました。これ着てねとか言って。つらかった震災ですけれど、あれはちょっと心にしみて、うれしかったですね。

都築さん)独身寮が近くにあるんですよね。とりあえず、そこにみんな避難しているから行こうということになって。行ったんですけど、とにかくひび割れているので、ちょっと怖くって独身寮もね。とりあえずその日の夜は、小学校に避難したんですよ。

きき手)小学校は何小学校でしたか。
都築さん)本山南小学校です。小学校に避難して夕方になって、それであくる日になったんですけれど、小学校に避難していたら会社の情報って入ってこないですよね。とりあえず独身寮に戻って、そこにいました。


《写真》インタビューに応じる都築和子さん(2022年11月3日、神戸市中央区で)


きき手)やっぱり情報というのは、大切でしたか?
都築さん)会社の情報は大切ですよね。頼るところがそこしかないんで。(四国の)実家に頼ろうにも遠すぎるでしょ。(神戸市内に)親戚もいるんですけれども、もうすごいことになっていて、行く手だてがないんで。ここはもう会社にすがるしかないっていう感じで。子供も小さかったので。

愛媛の実家に電話 「英二からまだ連絡がない」

きき手)震災のとき、お子さんはおいくつでしたか。
都築さん)そのころが、3歳と、6歳かな。(幼稚園に)行ってたら年少で、上の子が小学1年生だったんですよ。
きき手)まだ小さいから、お母さんがそばにいないと。
都築さん)そうなんですよね。そこはやっぱりね、私がそばにいないと駄目やなと思って。その独身寮に行くところで、実家に電話したんですよ。
きき手)どこから?
都築さん)独身寮に行くまでの道路沿いに公衆電話があったんで、実家に電話したら母が出て。無事でよかったわ、と。高い所に住んでいるので8階だから、もうすごく心配したみたいで、「よかったー」とは言ったんですが。その後、「英二から電話がない」と言って。
男の子だし、1階に住んでるんで逃げて大丈夫なんちがうかなと、母は言っていたんですよね。で、私もそうやな、と思ったんで、まさかね。つぶれているなんて、死んでいるなんて思わないでしょ。1回目(に実家に電話)かけたのはそこなんですよ。

きき手)何時ごろになりますか?
都築さん)何時ごろか覚えてないですけど、1月17日の午前中でした。
きき手)公衆電話はすんなりかけられましたか。
都築さん)かけられたんですよ。並んでなかったんですよ。

都築さん)家から脱出するときは、電話とかまで気が回らず、とりあえず下まで行かなきゃという感じでした。電話が(実家に)つながったのは、よかったんですけどね。でもその段階でまだ弟からは電話がなかったんで。

都築さん)会社のほうから、「加古川に社宅があるので、そこに避難できる」という話があって。行くんだったら今しかないと思いました。会社の船で行くんですが、ルートが(他に)ないんでね。行かなかったら、そのあと会社からの情報がないでしょう、やっぱり。避難してた人が、全員行ったんじゃないですかね。私の近くに避難してた人はみんな行ったんですよね。もちろんそこまで歩いて行ったんですよ。

都築さん)会社は、灘区の南にあるんですよ。
きき手)当時は灘浜、脇浜一帯に工場がありましたね。
都築さん)はい、今もあります。そこから船に乗って、会社の敷地から船が出たんですが。
きき手)当日ですか翌日?
都築さん)そこが、主人と話したんですが、当日ではないんですよ。次の日か、その次の日。神戸で2泊したと思うんですが、加古川で2泊したのか、どっちで2泊したのか分からないんですよね。私の記憶では次の日かなと思うんですけれど。

きき手)加古川に船で避難できたのは、神戸製鋼の会社の力があるからですね。
都築さん)そうですね。英くん(えいくん=弟の櫻井英二さん)のことも気になったんですけれど、そこはやっぱり、交通も動いてない、周りはみんな家など潰れているし、見た感じもすごい景色だったんですよ。(会社に)すがっておかないと無理と違うかなと思って。

きき手)すごい景色とは?
都築さん)もう何かね、潰れてる家が多かったですね。ほとんど1階がつぶれているけれど、4階とか、5階が潰れているビルもあるんですよ。これは、もう自力では無理だなと思って。避難所に行けば、何か支援があるかもしれませんけれど、さっきの小学校は、ほかの方もたくさんいらっしゃったので。
きき手)混乱の中で、まずお子さんをまず守らなければ。
都築さん)そうですね。

船で加古川に脱出 弟は絶対生きてると信じて

都築さん)船で加古川に着いたのは、夜だったんですけれど、そこでまた(愛媛の実家に)電話した時に、「駄目らしい」と聞いたんです。親戚が神戸市北区の鈴蘭台にあるんですよ。そこに(両親は)行ったっていうのを、留守番してくれている親戚から聞いて。まだ(英二は)見つかってはなかったですけれどもね。
きき手)じゃあお父様とお母様は、愛媛から神戸市北区のご親戚の家に向かっていたのですね。
都築さん)そうです。

きき手)鈴蘭台は神戸市北区で、比較的被害は少なかったですね。
都築さん)はい。でも、あとで母から聞いた話では、ルートがなかった。四国から姫路まではいつもどおり行けたんです。そこから先に進めなかったんですね。だから親戚のおじさんに、車で姫路まで迎えに来てもらった。
きき手)そこからは?
都築さん)迂回して、鈴蘭台にやっと着いたみたいなんですけれどもね。

きき手)お父様、お母様はとりあえず鈴蘭台でスタンバイする。一方、都築さんご一家は、加古川に行かれた。
都築さん)そうなんですよ。(両親が)鈴蘭台へ行くっていうのが(最初から)分かっていたら…。弟が亡くなっている可能性がわかっていたら、私たちも鈴蘭台のほうに行ったかもしれない。でも「絶対生きてる」って思ってたんですよ。信じて疑わなかったから。

再び愛媛の実家に電話 「ダメだった」

都築さん)で、次の日の昼ごろだったかな、と思うんですけれど、どこかで、たぶん電話して、やっぱり(英二は)駄目だったと。
きき手)加古川に着いて愛媛のご実家に電話をしたら、英二さんが駄目だったらしいという情報だったんですね。
都築さん)親戚のおばさんが電話に出て、「ダメだった」っていう。

都築さん)鈴蘭台に行かなきゃと言ったら、動かない方がいいんじゃないかということだった。
きき手)それで、そのあとは。
都築さん)しばらくして電話したんです。で、その時に、「(遺体は)自宅に帰ってくるから。かえっておいで」といわれて、愛媛に帰りました。

遺体は愛媛へ 和子さんも実家に帰ることに

きき手)あの、震災後1年目にですね。ニュースネットが、お母様に聞き書きをした記録があるので、それをちょっと読ませていただきます。

やさしい子でした。一人っ子(編集部注:男の子は一人)でした。残念で残念でならんのです。
 お正月に帰って来て、今度就職したら、地元に帰るから、ゆうてね。伊予銀行に内定していました。両親が弱ったら、近くの(八幡浜の)伊予銀に配属してもらう、言うてました。
 あの日、大家さんから『息子さんから連絡あったか』と電話がありました。十七日に出発して十八日朝に(六甲町に)つきました。
 消防署に頼んでも、音沙汰のないところは放ってあって。二階が一階になっとりました。二階の畳はがして、木を切って。それでも見つかりませんでした。本なんかをかき分けたら、その中におりました。
 友人や私の兄や七、八人が出してくれました。十九日の朝でした。二十一日に車で連れて帰って、お葬式をしました。
 百人超える友達がお参りにきてくれました。ありがたいことやなぁと思います。うちに財産はないから、学校やるのが財産やけんな、とあの子に言っとりました。卒業証書ももらったけど。残念でなりません。

<「特集 震災から一年〜あなたのことを忘れない 神戸大学四十四人への追悼手記」1996年1月17日発行『神戸大学NEWS NET』紙面より>

このように書いていらっしゃいます。

都築さん)そうですか。そのへんが、忘れているみたいで。21日にお葬式だったと記録が残っているんですね。

きき手)お母様は1月17日に愛媛・八幡浜を出発したけれど、神戸に着いたのは18日の朝だと書いてらっしゃいます。夜が明けたんだと思いますね。
都築さん)朝早く行ったみたいですね。あっ、それで謎が解けました。
きき手)整理すると、お母様、お父様は地震のあった1月17日には出発して、18日の朝に神戸市に着いた。一方、姉の都築さん一家は神戸を船で脱出して、18日には加古川市に着いていたということになります。

きき手)都築さんは、英二さんの住んでいた灘区六甲町5丁目の安田文化住宅の現場にはいつ行かれたのですか。
都築さん)当日、(現場に行こうとして)周りに一緒に避難していた人たちに、子どもたちを見ていてもらえないか頼んだんですよ。でもこの状況でしょ。何かあったときに責任持てないからそれは無理ですって言われて。

都築さん)(東灘区から灘区の六甲町の英二さんのアパートまでの)距離を考えたら、歩いて行くだったら行けるかもしれないけれど、帰ってこないといけないでしょう。それを考えると無理だなと思って。
で、主人には(現場のアパートに)行ってもらったんですけれども、1月17日の当日、昼間に行って、夕方暗くなって帰ってきたんですけれども…。呼びかけたけど返事がなかったという話は聞いたんですけれど。

おじ2人と大学の友人たちが引っ張り出してくれた

きき手)お母様の談話によると、「友人や私の兄が出してくれました」と書いてありますが。
都築さん)あの、母の妹もいたんですけど。母の弟と兄が水道工事してるんですよね。
聞き手)都築さんからすると、おじさんやおばさんにあたりますね
都築さん)おじ2人と、大学生の友人たちが助け出してくれた。

都築さん)消防署のかただったって、母が言ってたんですけど。そばで救助活動をしていた人に、「ここにいるはずです」って頼んだと母は言うんです。けれど、やっぱり声がするとか、生存反応がある人が優先なんで、「呼びかけに応じない人は後になる」「1週間先になるか10日先になるか」と言われたので、2人のおじが、「僕たちは、水道工事しているから、全責任私たちが見ますから、引っ張り出すのを許可してください」と言ったというんです。それで、2階から、穴を開けるというか…。
聞き手)床をはがす訳ですね
都築さん)そう、はがして。おじ2人と、来てくれたたくさんの大学生の方が…、
きき手)大学生というのは?
都築さん)多分友人、英くんの友人だと思いますね。
きき手)大学のある灘区内ですからね。
都築さん)大学生の人たちとおじたちが、助け出して。母は倒れたらいけないんで、周りから、「行ったらいかん」と言われて、家(つぶれた下宿)のそばで見てた。母を見守るために、母の妹が付きっきりでいたそうです。



文化住宅の1階 斜めに倒れてペチャンコだった

都築さん)だから、助け出すときには、立ち会えなかったんです。
きき手)ご主人もそのときは立ち会えなかった?
都築さん)立ち会ってないです。その時わたしたち2人は加古川にいましたんでね。

都築さん)私が潰れたアパートに行ったのは、お葬式も終わってしばらくたった時が最初ですね。1か月ぐらいたってからです。はい。
きき手)でも、ちょっとしんどかったのではないですか。
都築さん)うーん…でもやっぱり、どんな感じだったのか見ておきたかったので、はい。

都築さん)こう、斜めに倒れて、ペチャンコだったんですよ。建っているものがこうなるわけですね西側に(手を斜めに上から下に動かす)、弟の、部屋に向けて斜めに倒れた。逆だったらもしかしたら助かっていたかもしれない。
きき手)弟さんの部屋は、(ニュースネット委員会の記録)では六甲町の安田文化1階5号室と、ありますけれども、5号室は、1番西側ですか。
都築さん)はい西の端です。

布団の中で圧死 1階じゃなかったら…

都築さん)母の話ですと、(大学の)寮に入る予定だったんですよ。手続きに行ったんですけれど、担当者に言ったら、「そこは留年してる人が毎年数名出るから」っていうことで。で、勧められたところが、この下宿(安田文化)だったんですけれどもね。
そこは、お年寄りがたくさんいて少々騒いでも大丈夫だし、1階だから、すぐ何かあったときに逃げられるからいいですよと言われて、そこに決めたっていう話を聞いて、ね。「寮に入ってたらなぁ」と…。

きき手)最初は寮に入るつもりだった?
都築さん)でもね、地震とかきてまさかぺたんこになるとは思わないんでね。助け出したときに、おじたちが、こたつの高さしかないって言ってたみたいですけれどもね。でも、私がしばらくしてみた時は、もっとぺったんこよねっていうぐらい、すごい潰れようでしたね。この椅子の高さもないんじゃないですかね。天井が落ちたみたいで。もう息をするすき間がないん違うかな、これじゃ駄目よねっていう感じで、苦しかったやろうなと思って。

きき手)布団に、寝ていらしたんですか。
都築さん)寝てました。布団の中で、はい。圧死と聞きましたけどね、圧迫されて。

都築さん)1階じゃなかったら、もしくは、もうちょっと時間がずれて昼間だったら、ねえ、大丈夫だったろうなと。それかもう2か月ぐらいあと、そしたらもう(アパートを)出る予定だったんで。だからちょっと(地震の)時期があとにずれてたらなと。
きき手)地元の伊予銀行に内定されていました
都築さん)母にしては、ちゃんとしたところに、(下宿を)用意しとったらなっていうのがあるみたいですね。
きき手)もっと別の所に住まわせていたらということですね。
都築さん)そうですね。でも、神戸に地震がきて、家がつぶれるなんて、だれも思わないですよね。もし、タイムマシーンがあったら、地震前に時間をもどして、「この下宿はダメよ」と伝えたいですね。



顔が真っ黒だった すごい苦しかったんだろうな

きき手)避難した加古川から、急きょ愛媛・八幡浜の実家に向かわれたんですね。
都築さん)私が帰った時はもう、弟は運ばれてきていました。私たちのほうがあとだったんですよちょっとだけ。
きき手)ご実家に、和子さん戻られたのはいつだったですか。1月21日がお葬式だったのではないかという記録ですよね。
都築さん)(震災後実家に帰り着いたのが)20日だと思うんですけれど。だから帰った日はお通夜をしたんですよ。でその次の日がお葬式なんで。

きき手)お葬式にはたくさんの方が見えたと、記録がありますね。
都築さん)そうですね。初めはね。神戸の鈴蘭台でお葬式したらって言われたんですよね。でもね。やっぱり父と母は、生まれたところでどうしてもということで、連れて帰ったみたいなんですけれど。でもそれにもかかわらず、たくさんの方や、たくさんの大学生のお友だちが来てくださいましたね。
きき手)当時、神戸周辺では交通期間も止まっている中で、よく四国まで。
都築さん)どうやって来られたのか分からないですけれど、来てくださいました。ありがたいことです。

きき手)愛媛で、実際にご遺体と対面されたのですね。
都築さん)顔が真っ黒だったんですよ。だからすごい苦しかったんだろうなと思って。傷とかはなかったんですよね。多分圧死というか、圧迫されて亡くなったらそうなるのかしらね。その姿が、目に焼き付いて、いまだに忘れられない。
何かすごい本当に苦しかったんやろうなと思って。真っ黒というのは汚れてるとかそんなんじゃないんですね。うっ血かなんかだと思うんですけれど。

きき手)お葬式の場所はどこだったんですか。
都築さん)自宅です。どうしても自宅でって言って。

都築さん)実家の一番奥というか、一番広い部屋ですね。畳敷きのところの、いちばん北側に寝かせました。お棺に入れて。

きき手)英二さんはどんな体格でしたか?
都築さん)大きいですね。私より大きくて体格もよかったですね。顔も真ん丸で。
きき手)何かスポーツなどはなさってたんですか。
都築さん)どうなんでしょう聞いたことないですけどね。中高は何かやってた思うんですけれど、弟が中学の時に、私は結婚して神戸に来たんですよ。
で、帰ってきた時に会うぐらいで。

7つ違いのかわいい弟 私が面倒をみていた

きき手)弟の英二さんとは、7つ違いだったんですね。
都築さん)だから親代わりです。父と母が兼業農家なんで、すごい忙しかったんで、学校に行ってる時は別ですが、ほかは、私が弟や妹の面倒をみてたんです。
お姉ちゃん子ですね。かわいくてしょうがない。保育所の参観日も、母の代わりに行ったことがあります。

きき手)どんな弟さんでしたか。
都築さん)物知りで、優しい、自慢の弟でした。だから、大学生になって、近くに住むようになって、日帰りなんですけれど、しょっちゅううちに来て、私の娘2人をかわいがってくれました。
きき手)英二さんにとって、姪っ子さんになるんですよね。
都築さん)そうです。で、お兄ちゃん、お兄ちゃんって娘たちもなついてて。2人もうちに来るのを楽しみにしてたんですね。

きき手)お姉さんが嫁がれた町の大学に来たんですもんね。
都築さん)そう。灘区のアパートから東灘区北青木だから、歩いたら遠いんですけれども、バイクだとすぐなんで。泊まりはしないですけど、よく来て遊んでくれて。ごはん食べて帰るという感じですね。
きき手)どんなバイクですか。
都築さん)ちょっと大きなバイク。それも、震災後乗ってくれるんならといって、友人に譲ったみたいですね。

きき手)都築さんの2人の娘さんたちにとっても、よく来てくれるお兄ちゃんが亡くなって、ショックだったでしょうね。
都築さん)ショックですね。神戸の大学を選んだのも、私が嫁いでる土地だし、親戚もいっぱいいるし。で、皮肉にも、東京みたいに地震なんか来ると思ってなかったでしょ。安全な場所というのが(意識が)あったみたいなんですよ。

きき手)それは、ほかの方もおっしゃってますね。東京の方が地震が多く危険だと思っていたと。
都築さん)そうなんですよ。まさかこうなるとは思わないですよね。だったらもっと丈夫なマンションか何かにね…。1階は選ばないですよね。

地震の数日前も遊びに来て 娘たちと遊んでくれた

きき手)震災前、弟の英二さんに最後に会ったのはいつですか。
都築さん)震災の数日前に、日帰りで、うちの娘たちと遊んでくれたんです。震災があった日にうちに泊まっていたら大丈夫だったのに。
きき手)じゃあお正月明けてからですね。
都築さん)そうです。私はお正月は神戸にいたんですけれど、弟は実家(の愛媛・八幡浜)に帰っていたみたいですよ。実家に4、5日いたんですよね。そのあと。
きき手)10日ほどの間ですね。
都築さん)その間に日帰りで来てたんですよね。
きき手)その時どんなご様子でしたか。
都築さん)いや普通どおり、うちの子どもたちと遊んで、公園に行って。その間、私はごはん作って、みんなで食べるという。もう、娘たちが、気にいってて、お兄ちゃんお兄ちゃんって言って、私がしゃべる間もないっていう感じで。
きき手)お姉さんが会話に入るすきがないと。
都築さん)だから、弟としゃべった記憶があんまりないんですよね。
きき手)英二さんと姪っ子さんたちの様子は、ほほえましいですね。
都築さん)来るの楽しみにしてたから。写真もあるんですけれど、すごくなついてたんですよ。


《写真》姉・都築和子さんの2人のお嬢さんと(1994年4月22日、神戸・布引で)

将来は父母や妹の面倒を見たい 地元の銀行に内定

都築さん)はい。(写真を取り出す和子さん)こんな感じなんですけれどもね。
きき手)優しそうなお兄ちゃん。
都築さん)肩車してもらったり、こうやって遊んだりとか。かわいがってくれるんですよね。
きき手)子どもさんが好きだったんですね。
都築さん)ちっちゃい子と遊ぶのが得意だったみたいで、やっぱり優しいから余計ですよね。

きき手)神戸大学の法学部を選ばれたのは、神戸という土地もあって選ばれたんでしょうか。
都築さん)そうですそうです。神戸大学だったら、法学部と決めていたみたいです。合格発表の時、私が大学の掲示板まで見に行って、すぐに、校内から合格の電話をした時、すごく喜んでいました。掲示板で確認するのが、一番早かったので…。あこがれの大学で学べて、幸せだったと思います。
きき手)伊予銀行に内定というのも、これもご希望だったんですね。
都築さん)これは私、いつ聞いたのか覚えてないですけれど、在学中、就職内定したあとに聞いたんです。「伊予銀にしたよ」って言ったんですけれどもね。伊予銀も悪くはない。でもメガバンクとかに挑戦しなかったのって言ったら、やっぱり、父母の面倒とか妹の面倒を見ないといけないからって言って。母も言ってましたけれど、弱ってきたら、実家近くの伊予銀の支店があるでしょう。そこに戻れるので。それまでは転勤でもいい。だけど、(親が)弱ってきた場合に戻れるから伊予銀にしたっていったんですよ。地元にあっていい会社。だから選んだみたいなんですよ。

就職試験の面接官が実家に訪ねてきてくれた

きき手)妹さん、つまり真ん中のお姉さんのそばにもいたいという気持ちがあったんですか。
都築さん)そうですね。

都築さん)何年か前に、入社の面接で担当された方が、「やっと来れました」と言って、実家にお越しになりました。「やっと来れました。私はいま銀行の一番トップにいます」って言って。
きき手)そのときの人事の担当者の方が?
都築さん)面接官です。面接の時、「なぜうちの銀行を選んだのか」と聞いたら、長男なので、妹のこともあるし、両親が弱ったりしたらゆくゆくは実家の支店に戻らせていただけるんなら採用してくださいと、弟が言ったらしいんです。
「その時の発言に、感動しました」って、話されていたそうです。弟ながらすごいなと思って、なかなか言えないでしょ。
都築さん)わざわざ来てくださっただけでも、うれしいですよね母も。「有望な人を亡くしてすごく残念です」ってその方言われて、母も、びっくりしてたというか、感無量というか、でしたね。
きき手)面接官の方もずっと、記憶に残っていたんですね。
都築さん)20数年たってね。まだ入社前で内定しただけで、1日も働いてないでしょ。震災さえなければ、すばらしい上司に恵まれてたでしょうね。

きき手)お父様、お母様は農家でいらしたのですか。
都築さん)父は専業です。母は兼業でした。
きき手)お母様ははたらきながら農業を?
都築さん)いろいろやってましたね。製造業とか。

きき手)農業は、愛媛ですから、やっぱりみかんですか?
都築さん)いろいろ作っていました。みかんも野菜も。母は今も作ってますね。はい。
きき手)お父様は2年前にお亡くなりになられましたね。お母様が今はご実家に?
都築さん)その時はやっぱりねえ、弟がいたらなあって思いますよねえ。
きき手)お母様は、下の妹さんと、今一緒に住んでらっしゃるんですね。
都築さん)はい。近所の人とか、親戚がこまめに来てくれてすごくよくしてくださるので、ありがたいことやなと思います。私が、実家に住み、母たちのお世話をしてあげるのが一番良いとは思うんですけど、いろいろな事情から、電話したり、たまに帰省したりする事しかできなくて心苦しいです。

ユースサイクリング同好会では3人が亡くなった

きき手)英二さんは、大学ではユースサイクリング同好会で活動されていましたね。
都築さん)はい。集合写真もたくさんあるんですよ。弟の部屋からは写真をとり出せなかったから、友達が全部送ってくれて。楽しい充実した、大学生活を送ってたんだなって思って。
きき手)ホームページを見ると、現在はユースサイクリングサークルycc(https://kobeycc.jimdofree.com/)という名称で活動しています。「1974年に設立された自転車愛好サークルとあります。震災で、たしか3人亡くなっているんです。神戸大のクラブ活動の中で、震災で最も多い部員が亡くなった団体です。
都築さん)3人は多いですね、初めて聞きました。


《写真》都築さんの2人のお嬢さん、母、真ん中の姉とともに。(1994年4月22日、新神戸駅で)


きき手)(集合写真を見ながら)英二さんはどこですか?
都築さん)大体ね、端のほうに写ってるんですよ。これとかそうですね。
きき手)確かに端っこの方に。
都築さん)そう、控えめなのかしら(笑)。

きき手)本当にいろんな所にいくんですね。
都築さん)日本はもう全国行ってるんです。実家に帰るのも、自転車で帰ってきたことがあって。
きき手)えー!
都築さん)私もびっくりした(笑)自転車で四国に帰ってきたのって。
きき手)すごい。

都築さん)私も日本一周もしました。船やバスとか乗り継いで。ツアーですよ。やっぱり、旅行好きだった弟みたいな真似をしたいな、みたいな感じで、はい。


《写真》ユースサイクリング同好会(現ユースサイクリングサークルycc)の仲間と。櫻井英二さんは後列左端に写っている。(撮影年、撮影場所不明)。

<2022年11月3日取材/2023年1月13日 アップロード>

【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)=姉・都築和子さんの証言=<後編>に続く

【連載 【慰霊碑の向こうに】 震災の日、学生たちの命は…】
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています

https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3e6b34f6761ad0439dea1a0d93c2e9c1



【編集部注】集合写真に写っておられる方すべてに承諾を得ることができていません。写っておられる方で、画像加工を希望される方や、掲載取り消しを希望される方は、お名前と連絡先(メールアドレス)を 神戸大学ニュースネット委員会 newsnet_kobe_u@goo.jp あてお知らせください。


【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)=姉・都築和子さんの証言=<後編>

2023-01-13 10:40:15 | 阪神・淡路大震災
 櫻井英二さん(当時22歳、愛媛県立八幡浜高校卒、法学部4年・阿部ゼミ/ユースサイクリング同好会)は、神戸市灘区六甲町5丁目7番地の安田文化1階5号室に下宿していた。
 姉の都築和子さんは、英二さんが自分の娘をかわいがってくれたことを、写真を手に振り返る。
 ユースサイクリング同好会でいっしょだった同級生は、毎年実家を訪ねて手を合わせてくれるという。
 1月17日の震災の日は、ほぼ欠かさず神戸大学の慰霊碑に、坂道を歩いて行くという和子さん。神戸・三宮のビルの会議室でお話を伺った。

【慰霊碑の向こうに】14 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/9bf0c4a091b634fa88beb244e92ff7cb
【慰霊碑の向こうに】14 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/4a7df18ea52c327df001a6bad941545f


《写真》インタビューに応じる都築和子さん(2022年11月3日、神戸市中央区で)

2人の娘も「おにいちゃん」に懐いていた

きき手)(英二さんと都築さんのお子さんの写真を見ながら)こちらのお写真は、上のお子さんですか
都築さん)はい。そうですね。後ろに…
きき手)裏に平成4年って書いてある。震災の3年前くらいですね。大学に入られた年ぐらいですね。
都築さん)そうです。こんな感じですごい懐いてたんですよ(笑)。優しいからやっぱりなつくんですよね。弟も、小さい子を扱うのに慣れているので、なぜ慣れているのか分かりませんけど、慣れてたんで。

きき手)都築さんのお宅に行ってたのはどんなときでしたか。
都築さん)休日だと思います。
きき手)じゃあ土曜日とか日曜日に
都築さん)そうですねはい。


《写真》姪と遊ぶ櫻井英二さん(1992年9月1日)

詩を書いた娘 天国にいったおにいちゃんへ

きき手)都築さんのお子さんたちは、英二さんのことをどのように覚えいらっしゃるでしょうか?
都築さん)今回、取材受けるにあたって、聞こうと思ったんですけれども、聞いていないんですよ(笑)覚えているとは思います。当時も、新聞に応募してて、詩みたいなものを書いています。それが、新聞に載ったので。
きき手)それは小学校の時ですか?
都築さん)そうですね。長女が9歳の時です。
きき手)英二さんとの思い出を?
都築さん)はい。
きき手)当時、幼かったお嬢さんたちも今、もうおいくつぐらいですか。
都築さん)今もう30歳超えました(笑)。生きていれば、弟も結婚して、子どもも生まれ一緒に遊べたのになあと思って。すごい残念ですね。

きれいに かがやくお月さま
わたしのおにいちゃんは、はんしんだいしんさいでしんで 天国にいっちゃったの。
いもうとは、天国は、お月さまの中にあるっていっていた。
ほんとうですか。
おにいちゃんは、お月さまの中から わたしたちをみまもってくれているの。
がんばれってね。
いっぱい あそんでくれた おにいちゃん。
いっぱい おかしをかってくれた おにいちゃん。
いっぱい べんきょうをおしえててくれた おにいちゃん。
いつも やさしかった。おにいちゃんと もっといっぱい
あそびたかったよ。
じしんのとき、ふしぎなことがあったの。
わたしたちがねているところだけ タンスがたおれなかった。
ほかのへやは タンスや れいぞうこなど、いっぱい
たおれたのに。
きっと おにいちゃんが まもってくれたのね。ありがとう。
だって、おにいちゃんのしんだかおは、まっくろだったから。
いっしょうけんめい まもってくれたんだね。ありがとう。
お月さまをみていると おにいちゃんを いっぱいおもい出します。
お月さまをみていると おにいちゃんのぶんまで、ながいき
したいとおもいます。
お月さまをみていると おにいちゃんのぶんまで、がんばり
たいとおもいます。
(1996年 読売新聞に掲載)

きき手)都築さんのお子さんは、英二さんが亡くなられた前と比べて変化はありましたか。
都築さん)そうですね。すごいショックを受けてたんですよね。愛媛に3月末までいて4月から加古川に移ったんですよ。秋までいたんです。加古川と愛媛の小学校と保育園に通ったんです。みんなよくしてくれましたし。愛媛の時は春にはつくしがあったり、加古川ではレンゲ畑とか、おたまじゃくしとか、セミとか。
きき手)震災直後は、いったん愛媛に移られたんですね。
都築さん)お葬式後もずっと、3月まではそのままいて、加古川の社宅に入れるということで、加古川に戻ったんです。加古川でもすごいみんなよくしてくださって、友達もたくさんできて、ああよかった…精神的ショックが表に出なくてよかったよねと思っていたんですよ。ところが、神戸に帰った途端、下の子があんな楽しみにしていた幼稚園に行かなくなったんですよね。
きき手)そうだったんですね。
都築さん)それが結構長いこと、数か月続いたんですけれども。親と離れたくないみたいで、あれはちょっと困りましたね。私が毎日連れていったんですけれど、先生に抱っこされながら大泣きする娘に、後ろ髪をひかれながら私は家に帰っていました。
義務教育でないからね、幼稚園って。もう行かさなくていいんじゃないって主人が言うほど、すごい大泣きで。でも先生の話では、私の姿が見えなくなると、ケロッと泣きやんで、お友達と楽しそうに遊んでいたみたいです。あの大泣きの時期はちょっとつらかったですね。

都築さん)母が「神戸は怖い所」うーん、「また地震来るぞ」とか言ってた。母としては悪気はなかったんでしょうけれど、やっぱり子どもにとっちゃ、体験もしてるしね。お兄ちゃんは亡くなってるしね。
きき手)実家のお母さまとしては、愛媛から神戸に帰ってほしくなかったということなんでしょうか。
都築さん)そうですね。落ち込む中でも孫ってはしゃぎ回っているからね。でも、実家の母としては、ほんとうに神戸は怖いところだったと思うんです。小さな地震(余震)もまだあったし、かわいい孫を危険な目にあわせたくないという強い気持ちからでた言葉だったと思うんですよね。遺族であり、かつ被災者でもある私にも、母の気持ちがよくわかります。

▽都築和子さんの震災後の行動
1月17日 地震発生。夫がアパートに探しに行くが見つからず。
1月18日 夫の会社手配の船で加古川に避難。
      空いている社宅にとりあえず身を寄せる。
1月19日 親戚や大学友人が英二さんを瓦礫から出し、愛媛に搬送。
1月20日 都築さん一家が愛媛に帰郷。英二さんの通夜。
1月21日 英二さん葬儀
3月末まで 2人の子どもと愛媛・八幡浜に残る。
4月1日  加古川に空の社宅ができたので戻る。
11月   神戸の社宅に戻る(修理できた同じ敷地の棟に)

約10か月後 神戸の社宅に戻る

きき手)およそ10か月後に神戸のほぼ元の場所に戻ってこられたんですね。
都築さん)愛媛と加古川を経由して、はいそうですね。
きき手)大人としては、事情は分かりますが、お子さんとしてはね。大変だったでしょうね。
都築さん)でも、ふだんできない体験ができましたね。山があるから、あれは、救われましたよね。神戸にずっといたらもっと気持ちはひどかったかなというのはありますね。

きき手)お子さんは、英二さんのことを言ったりされましたか。例えば、どうして会えないのかなとか…。
都築さん)それは聞いたことがないですね。亡くなったことは分かってます。顔も見てますし、お骨拾いも行っているので…。もう帰ってこないというのは理解できて。

都築さん)自分もつらいけど、周りの泣いている人を見ているから、やっぱり悲しませる訳にはいかないなというのは身に染みて分かってたみたいですね。だから私も、娘の前では泣かないように、負担をかけないようにはしましたね。

きき手)お嬢さん方は、もうそれぞれ独立されたんですか。
都築さん)独立しています。でも、家を借りるときは、1階は駄目って。どこでもいいから1階だけはやめといてねって、それは念を押して。やっぱり1階はね、もうトラウマですね。



悲しみを封印… でも、ふいに涙が止まらなくなることが

きき手)都築さんご自身も、心理的にしんどいことはなかったですか
都築さん)私ですか。ありました。地震を体験して、弟が亡くなっているでしょ。でもやっぱり子どもには悲しんでる姿を見せたくない、強い母でいたいので、閉じ込めてはいたんですよね。最初に、亡くなったと聞いた時は、涙で座り込んじゃいましたけど…。それからしばらくは、ほとんどお葬式も涙出てこない。しばらく封印という感じだったんですよ。無理して。
それに、実家の両親がすごく悲しんでいたので、私がしっかりしなきゃと思ったんですね。きょうだいより両親の方がつらいというのは、私も理解してましたから。周りの方の「お母さんたちを助けてあげてね」という発言にも苦しみました。言った方の気持ちはわかりますし、私自身、両親たちを助けなきゃという気持ちがあっただけに、両親と娘の前では、涙を見せてはいけないと思いましたね。

都築さん)泣いちゃいけない、涙を出しちゃいけないという感じですね。そう我慢したのがいけなかったのかわからないけど、避難先の愛媛で、娘が通いだした小学校で音楽会があったんです。曲を聴いている時に、感極まって涙が出て、それから涙が止まらなくなっちゃって…。その後も家庭訪問とか、全然震災と関係ないことなのに涙が出て、道で誰か似た人を見たら涙が出る。そういうのが数年続きましたね。弟に似ている人を見たら、涙が出て。食べ物とか、友達と震災とは関係ない話をしていても涙が出たり。家庭訪問のときは娘のこと話して、震災関係の話も出てこないのに、涙が出るっていうのが数年続いて。そして誰もいない時は、涙が出て止まらない。

都築さん)人間ってこんなに泣けるんだなって思いましたね。でも、それじゃいけないって思って、数年後にね思ったんですよ。どうして立ち直ったかというと、家族旅行したんですよ。それまで、私の家は、実家に帰るのが旅行だったんです。で、思い切って、初めて家族旅行で沖縄に行ったんですよ。で、飛行機から見るでしょ、きれいな海を。見た時に、あーやっぱり、楽しい思い出をいっぱい持って、天国で(弟と)しゃべりたいよねと思ったら、涙が出て。それがきっかけになって、少しずつ涙が出なくなった。その旅行が転機になって。
「一生懸命生きる」「楽しい思い出をいっぱい作る」。これが、生きたくても生きられなかった英くんの供養になると思うんです。

きき手))何年後ぐらいですか。
都築さん)震災後2、3年たってましたね。それでやっと立ち直れたというか。悲しみを我慢していたというのもあるし、最初に避難した加古川が1階だったんですよ。主人に「何で1階なんよ。ダメや」なんて言ったんですけれども、1階で…。さらに4月に加古川に行った時に、社宅が割り当てられましてね。ベランダ開けたらお墓なんですよ。落ち込んでいるのに…、あれで余計に辛くなっちゃってもう…。

きき手)誰も悪くはないけど…。
都築さん)会社としては知らないですからね。(家族に)亡くなっている人いない人と、無造作に社宅を割り当てたみたいなんですよ。悲しみを封印してるし余計ですよね。あのころはつらかったですね。4人家族の中で一番ひどかったのは私かなっていう感じで。今でこそ結構ね、にこやかに話していますけれど、あのころは辛かったですね、はい。

きき手)いろいろお辛い気持ちとかあったと思うんですけれど、震災前と震災後で、何か考え方とかに、変化ってありましたか。
都築さん)変わりましたね。何て言うのかな、後悔しないで生きようとか。いろいろありますね。あと、さっきみたいに友達とか上司とか…気にかけてくれる友人関係。そういう人に出会えるのが、一番の財産や思うようになりましたね。誰か助けてくれる人がいる。そういうのが(気持ちの変化が)ありました。



1月17日は必ず大学の慰霊碑に向かう 坂道を歩いて

きき手)毎年、1月17日の震災の日は、どう過ごされてるんですか?
都築さん)震災の日は必ず大学の慰霊碑の所に行くようにしています。(お昼にある)大学の慰霊献花式より、時間的にちょっと早めに行ってて。だから、ほとんど誰もいらっしゃらないんですよ。準備している係の人がいるぐらいで。

きき手)ほかの遺族の方との交流とかは?
都築さん)最近はないですねここ何年か。
きき手)来年も行かれますか。
都築さん)行きます。

きき手)大学にある慰霊碑は、都築さんにとってどのような存在ですか。
都築さん)あそこは唯一何て言うかな、やっぱり、弟の魂があると思っていて。弟の楽しい思い出がいっぱい詰まっている大学ですから。私も元気をもらえるし、ここに来たら、弟に会えるような気がする。それと、1年の報告をしたいなと思って毎年行っています。もちろん、最初の数年は辛い場所でしたけど。
きき手)行かれるときは都築さんお一人で?
都築さん)ここ数年は、私一人だけですね。以前は、娘を連れていったこともあったんですけれども、ここ数年は私一人で行っています。六甲道からずっと全部歩いてます。
きき手)あの坂道を?
都築さん)坂道を。あそこで、何ていうのかな。1年間のことを振り返って、「これからも頑張るから、見守ってね」という思いもあるんです。バスで行ったらすぐですからね。貴重な時間です、私には。

きき手)毎年欠かさず?
都築さん)1回だけちょっとね。退院直後で。私は行く気だったんです、行く気満々で、「行く」って言ったら、実家の母に止められて。「いかないでくれ、そんな退院直後に行ったらあかん」と言われて、1回だけいかなかったことがある。8年、9年ぐらい前かな。あとは全部行っています。もう寒い日だろうが、どんな日でも雪がちらつく時もありましたよね、確か。

命日に毎年実家に来てくれる 高校・大学時代の友人

きき手)お母様が来られたことは?
都築さん)何回もありますけれど、最近はもう、神戸に行くこと自体大変みたいで。
きき手)そうなんですね。
都築さん)母は、1月17日には来ないんですよ。それは、友だちの坂上君(坂上義典さん=岡山県の自治体職員、同級生)が毎年来て下さるんで。

都築さん)その方が毎年来て下さって、いろいろ話していただいています。どうしてもこれないっていうのが2,3回あったんですけどね。そういう時は阪上君の、お母さんと妹さんが、代わりに来るという感じで、はい。職場の方も、その日は行っておいでって温かく送り出してくれるらしいっていう話を聞いて、やっぱりいい職場なんだなと思って。
きき手)その方は大学のご友人ですか。
都築さん)高校が一緒、大学入っても一緒。同じ愛媛なんですよ。去年もコロナ禍の中だったけど、わざわざ来られて、こういう時期だから、と言って、すぐ帰られたっという話を電話で聞いて…。数年に1回だったら分かるけど、毎年だから。いい友達だったんだろうなあ、生きてたらねもっとね。いろんなことをね。共有して楽しめたのになと思って。

きき手)ほんとうにいいご友人ですね。
都築さん)お母様は、お葬式の時に大勢来られた友人を、みんな泊められたみたいなんです、宿泊先として。私もそれ知らなくて…。そこまで気が回らないでしょう、こちらは。どうしたんだろうと気にはなってたんだけれども、ああそうか、坂上君が泊めてくれたんだなと思って。なかなかね、友人としてできるかもやけど、親までね。なかなかできないでしょう。だから育て方もよかったし、お母様もすばらしい方だな思って、優しい良い人ですよね。

風邪をひいた友人にうどんを作ってあげた英二さん

都築さん)数年前に、このことを読売新聞が取材してくださいました。
きき手)(ネットで検索する)2016年の記事にありますね。「阪神大震災21年、あの日 今も胸に 県内各地追悼の催し」という見出しで、愛媛県版に出ていますね。
都築さん)はい。はい。

きき手)記事にはこうあります。
「震災で亡くなった神戸大法学部4年生だった櫻井英二さん、当時22歳の、八幡浜市、大平(おおひら)の実家に、八幡浜高校と神戸大法学部で一緒に学んだ、岡山県矢掛町の職員、坂上義典さん43歳が訪れた。遺影に向かって手を合わせると、父・福安さん、(83歳)、母幸子さん(77歳)も頭を下げた」とあります。
都築さん)岡山だったんですね。
きき手)「震災2日後、福安さんらが駆けつけたときには、1階の跡形はないほど。坂上さんも、ともに探したが、冷たくなった英二さんが遺体で見つかった」。坂上さんも探したと書かれていますね。

(うなずく都築さん)

きき手)英二さんは穏やかで、優しい性格で、震災の3日ほど前、坂上さんが熱を出して寝込んだ時には、英二さんが夜訪れてうどんを作ってくれたというエピソードも記事になっています。
都築さん)ああ、そうなんですか。
きき手)大学ではともに、サイクリングのサークルだったとも載っています。
都築さん)ああ、一緒でしたね。
きき手)風邪で寝込んだ友だちの所に行ってうどんを作る男の子って偉いですよね。すごいなあ。
都築さん)ねえ。優しい英くんらしいエピソードですね。


都築さん)写真を見ると本当に日本全国に行ってるみたいですね。
きき手)これは1993年3月31日になっていますね。この「天然坊主地獄」というのは大分県の別府温泉ですかね。


《写真》ユースサイクリングの仲間と。中列右から2人目が櫻井英二さん。(1993年3月31日、大分県別府で)

都築さん)そうです別府ですね。家族でもよく行ってたんです。弟が小さい時もよく行っていました。

アパート跡には長いこと行っていない 「もうここには弟はいないなと」

きき手)1月17日は(大学の慰霊献花式が)12時半から行われますから、お昼前に行かれるのですか。
都築さん)もっと前ですね。
きき手)それは、どういうお気持ちから?
都築さん)ちょっとね、いろいろ用があるのと、あと、何でしょうね。何か行きづらいなっていう感じもありますよね、多少は。
きき手)たくさんの人がいたり、あと報道関係もいたりするからですか。
都築さん)そういうわけではないんですけれど、はい。
きき手)静かな時間に行かれると。
都築さん)そうです。それの方が、なんか気持ち的に、はい。もうちょっと早い時間だったらね、行けるんですけれども。
きき手)大学の昼休みに合わせているんですよ。
都築さん)あっそうなんですか、知らなかった。

きき手)午前中に坂をのぼって下りて、それで兵庫区のおうちに帰られる?
都築さん)はい、そうですね。
きき手)アパートのあったところへは?
都築さん)ここ数年はもう、だいぶ、長いこと下宿先は行かないですね。あまりにも変わってて。もうきれいになって。ここには弟いないなと思って。もう行かないですね。あそこを見ると。
きき手)やっぱちょっと気持ち的にしんどい、
都築さん)そう、気持ち的にしんどい。それでなくてもやっぱり、1月が来ると、つらいですね。1月が近づいてくると、何か体調を崩す。寝込むほどではないんですけれども、気持ち的に。弟の魂がいないであろう跡地に行くと、余計なんかつらくなって。はい。だから大学に行ったあとはそのまま帰ってますね。まっすぐ。

都築さん)三宮の、東遊園地には行く時がありますね。
きき手)そうですか。
都築さん)でもあそこも何か、人が、もう多いでしょ。静かにお参りできる所じゃないなって。だから、2、3年に1回だけは行ってます、はい。

「英くん」「かあ姉ちゃん」と呼び合っていた姉弟

きき手)最初におっしゃってましたけど、英二さんのことをなんと呼んでおられましたか。
都築さん)母は英二とか言うんですか、でも私は英くん、英くんと言ってたんですよ。娘たちの前では、英二兄ちゃんって言っていたんです。

都築さん)英くんは、私のこと、かあ姉ちゃん、かあ姉ちゃんと言ってたんですよ。ずっと。
きき手)かずこお姉さんだから?
都築さん)そう。ずっと。大きくなってもかあ姉ちゃんと呼ばれてました。
きき手)で、親代わりに参観日に行かれていたのはいつごろですか?
都築さん)中学、ですね。
きき手)中学ぐらいの時に、おかあさん代理で、おねえさんが行っていた。
都築さん)そうですそうです。もうかわいくてしょうがなかった(笑)。でも、保育園の参観日に行ったのは、数回ですよ。自慢することでもないですね(笑)。

きき手)でもどうして、英二さんはそんな優しいお子さんになったんですかね。風邪ひいた友達のうどん作るとか、
都築さん)みんなに優しかったんですよね。(弟が)優しいから(周りには)優しい人が集まったんだと思いますよ。だからもう、生きてたら本当もっとね。人間関係広がってて。よかったんでしょうね。

先輩たちが亡くなったことは、伝えていってほしい

きき手)新型コロナウイルスの感染の広がりで、慰霊碑に学生が集まることが、この2年はできなかったんですね。
都築さん)はい。
きき手)その前の、震災25年が2020年でしたけれど、その前の年までは、慰霊碑があそこにあることも、多くの学生から忘れられているという状況でした。

きき手)学生たちが、震災の慰霊碑があることすら知らない、ということについては、お姉様はどう、思われますか。
都築さん)時代の流れですからね。忘れられるのはつらいですよね…。

きき手)どうしたら若い人たちにも伝わるのかなと思うんですけれど。
都築さん)どうしたらいいんでしょうかね。(首をかしげる都築さん)…難しい問題ですね。でも、やっぱり、先輩たちが亡くなったのでね。伝えていってほしいなというのはありますね、はい。

都築さん)でも1番は、やっぱり、自分の命を大切にしてほしい。慰霊碑を見て命の大切さを分かっていただければ。今、若者の犯罪とか多いですよね。自死もあるし、他人を…ね、巻き込む犯罪とか多いので。やっぱり、命の大切さを、生きたくても生きられなかった先輩たちがたくさんいるのでね。それを、感じ取って頂ければいいなと思います。やっぱりあれ(慰霊碑)はずっと、置いておいてほしいですね。そういう意味では、はい。


《写真》ユースサイクリング同好会の仲間と。櫻井英二さんは後列左端。(撮影年、撮影場所不明)。

やっぱり忘れられることが一番つらい

きき手)あと2年で震災から30年ですね。
都築さん)そうですね。早いですよね。知らない方が増えるはずですよね。
きき手)当時50代の方がもう80歳過ぎですね。
都築さん)そうですよね。私も(当時の)母の年齢を超えましたし、娘たちも、かわいがってくれた弟の年齢を超えてますから。で、親もだんだん弱ってきますしね。今まで(このインタビュー連載で)取材された方でもね、おとうさんおかあさんどちらかが亡くなられた方、たくさんいらっしゃるんでしょう。

きき手)そうですね。インタビューさせていただいた直後に亡くなられたお父さんお母さんもいます。
都築さん)私も話すの嫌いなので(このインタビューを受けるのを)やめておこうかなと思ったんですけど、でも、私の言葉で何か感じ取っていただければ。ねえ。はい。こういう機会がなかったら知らなかったこともたくさんありましたし。こうして記録に残るということは、記事を読んで、何かふと感じ取って頂けたら、いいなって思うんですよ。やっぱり忘れられることが一番つらいですしね。もちろん、弟の生きたあかしを、文章として残しておきたいという思いもありました。

<2022年11月3日取材/2023年1月13日 アップロード>



【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/9bf0c4a091b634fa88beb244e92ff7cb
【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/4a7df18ea52c327df001a6bad941545f

【連載 【慰霊碑の向こうに】 震災の日、学生たちの命は…】
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3e6b34f6761ad0439dea1a0d93c2e9c1


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