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遺族7組9人が参列 友人・知人らも 震災27年の献花式

2022-01-17 23:59:59 | 阪神・淡路大震災
 阪神・淡路大震災から27年。今年も昨年に引き続き、コロナ禍のもとでの開催となった震災慰霊献花式。前年より多い、7組9人の遺族がキャンパスの慰霊碑に花を供えた。故人の同級生や、クラブ活動の先輩・後輩、教職員にまじって、現役の学生も花を手向けた。<献花式取材班>


(写真:慰霊碑前で集合写真に収まる遺族や関係者ら。2022年1月17日13時24分)

 阪神・淡路大震災から27年が経った2022年1月17日。この日の12時30分から、神戸大六甲台第1キャンパスでは震災慰霊献花式が行われ、参列者は1分間の黙祷を捧げた。藤澤正人学長をはじめとする大学幹部が慰霊碑に献花し、それに続いて遺族らが花を捧げた。新型コロナウイルスのオミクロン株の流行や遺族の高齢化などもあり、神戸入りを断念し参列を見送った遺族もあった。今回はニュースネットのライブ配信が試験的に実施されたが、慰霊碑から離れた場所で献花式を見守った人たちもいた。
 献花式は13時から一般の学生や市民の献花の時間帯が設けられ、震災に関心を持つ現役の学生や学ラン姿の応援団長、震災当時を知る教職員の姿が見られた。

亡くなった学生のご遺族のコメント

▽戸梶幸夫さん(74歳)
 当時経営学部2年 故・戸梶道夫さん<大阪府立三国ヶ丘高卒/バドミントン部>の父。
「どうしてもこの日だけは来ないと、という思いで毎年来ている。毎年ここ(神戸大慰霊碑)に来て、他の遺族の方とお話をするが、コロナ禍で来られない人がいて寂しい。今の学生にも震災のことを忘れてほしくない。」
▽戸梶栄子さん(72歳)
 故・戸梶道夫さんの母。
「ここでほかのご家族と一年に一回会うのが楽しみだったが、コロナの影響で会えない人が多く、寂しい。ここに来ないと話せないことを話せる。この後、東遊園地に行ってくる。」



▽坂本秀夫さん(76歳)
 当時工学部3年 故・坂本竜一さん<兵庫県立八鹿高卒>の父。
「もう元気で動ける間は、絶対に来ないと気が悪い。5時過ぎに起きて、お墓参りしてから車できた。息子が亡くなったのは西尾荘で、鈴木さんと遺骨探しなどを一緒にやっていた。」



▽上野政志さん(74歳)
 当時発達科学部2年 故・上野志乃さん<兵庫県立龍野高卒/マンドリン部>の父。
「一年に一回しか来ないし、会えないけど、『久しぶりに会ったよね』という気持ちで来ている。」



▽加藤りつこさん
 当時法学部2年 故・加藤貴光さん<広島県立安古市高卒>の母。
「今朝は震災の講演会があったので、昨日東遊園地に行って黙祷してきました。こんな時期だけど、献花式が行われてよかった。大学に来てよかったと思います。息子のことを忘れないで、この日はずっと神戸のことを思い出します。」

▽高橋和さん(立命館大4年)、国清彩さん(関西大3年)
「加藤さんの付き添いできた。今までも何回か訪れている。加藤さんのそばにいたい、亡くなられた息子さんが通っていた大学に来たい、という思いできている。壮絶な体験があったにもかかわらず、温かさを持っている加藤さんの性格に引き込まれた。加藤さんは寄り添ってくれるから、私たちも寄り添いたい。」



▽阪口真咲さん(48歳)
 当時自然科学研究科博士前期課程1年 故・今英人さん<石川県立泉丘高卒/軟式庭球同好会、スキー同好会、湧源クラブ>の妹。
「昨年はコロナの影響で来られず、今年も時間をずらして参加したが、母親は来ていない。昨年は朝震災が起きた時間に起きて、その後は普通に過ごしたと思う。」



▽森尚江さん
 当時法学部4年の故・森渉さん<大阪府立泉陽高校卒/軽音楽部Rock>の母。当時下宿していたアパートの大家の末吉種子さんとともに参列。
 「悲しいことばかりです。」



▽磯部滋さん
 当時教育学部4年 故・磯部純子さん<滋賀県立膳所高卒>の父。夫婦で献花式のあと慰霊碑を訪れた。
「下宿跡に訪れた後、毎年ひっそりと来ていた。あまりおもてだって騒ぎたくない。テレビで東遊園地などを見ているとにぎやかだなと感じるけど、実際にお参りしたら辛い。いつまでも悲しんでいられないけど、毎年この日だけは辛い。」



亡くなった学生の友人・知人のみなさん

▽安永倫子さん
 当時経済学部3年 故・高見秀樹さん<鳥取県米子東高卒/応援団>の後輩。
「1月17日に行われる時は、毎年来ている。先輩(高見さん)が亡くなったのはいつまでも残念。神戸大に通っている娘を連れてきた。」

▽国司和丸さん
 高見秀樹さんの1期後輩の第36代応援団長。
「(高見さんは)優しくて厳しい先輩だった。毎年来て、自分の一年の変化などを報告している。」



▽奈良崎武志さん
 当時自然科学研究科博士前期課程1年 故・竸基弘さん<名古屋市立向陽高卒/ユースサイクリング>の同級生。
 名古屋から来られない竸さんの母親とスマートホンをつないで、ビデオ通話で慰霊碑の周りの様子を見せていた。



▽兵庫県西宮市に住む女性
 プレートの名前を指でなでて、花束を捧げた。「自分が中国に留学したとき、世話になった天津大学の先生の息子さんが、地震で亡くなった工学部研究生の溥建鴻さん(中国から留学)です。毎年来て慰霊碑に献花して、写真を先生に送っています。」 



学生のみなさん

▽農学部3年の男女学生
「僕(男子学生側)が、来たかったから来た。朝も東遊園地に行ってきて、大学でもやっているなと思い、来た。大学の献花式に来たのは初めて。出身は関西じゃないけど、下宿で神戸に住んでいる以上は、知っておかないといけないと思っている。」



▽古田徳幸さん(応援団長)
「(先輩にあたる当時の)団長が亡くなった。やりたいことなどいっぱいあっただろうと思う。ご両親から団旗の寄付があった。両親にも伝わるほど熱い思いを持ってやっていたのだと感じている。『先輩頑張ります』という気持ちで献花した。」



▽浅井健一さん(保健学研究科 50歳)
「当時社会人一年目で、印象深い(できごとだ)。ボランティア派遣の仕事で、職場からも何人か神戸に派遣された。いつまでもあの日のことを忘れないために、今日ここに来た。」



教員のみなさん

▽藤澤正人さん(学長)
「時間はどんどん過ぎていく。年に1回献花式を行うことで1人でも多くの人の心に震災をとどめておくことができる。防災にも大学として取り組まなければならない。私自身、阪神・淡路大震災の当日の朝、神戸大学附属病院で当直をしていて、病院が大変な
状況になったのを覚えている。二度とこのようなことがあってほしくない。神戸に住む今の学生は震災を胸に刻んで次の時代に引き継いでほしい。コロナ禍でなければ、学内に周知して、学生も(献花式に)足を運んでほしかった。大学としても途切れることなく、この震災慰霊献花式を続けていきたい。」



▽萩原泰治さん(経済学部教授)
「働いている大学で行われていることなので、毎年来ている。当時は垂水に住んでいて、自分も周りもけがなどはなかったが、家が壊れた。」



▽正司健一さん(名誉教授) 
「顧問をしていた部活の学生(森渉さん)が亡くなったので、(この日は)来ている。」



▽高田義弘さん(大学院人間発達環境学研究科人間発達専攻 准教授)
「当時、地震が起きて、すぐに大学に来て学生の安否確認をした。自衛隊が神戸大学内に基地を設営して救助にあたったが、隊員の人が生存者を救えなくて悔し涙を流していたのを覚えている。授業を通じて、学生たちに防災、減災の知識を伝えたい。」



▽新居昌明さん(大学職員)
「震災があった時、本部の5階にいた。窓から建物が燃えて煙が上るのが見えた。非現実的だった。他大学からの支援がありがたかった。」






震災27年 今年もコロナ禍のもとで慰霊献花式

2022-01-17 23:59:43 | 阪神・淡路大震災
 震災から27年をむかえた1月17日。今年も神戸大六甲台第1キャンパスの慰霊碑で神戸大の震災慰霊献花式が行われた。昨年に引き続き、今年も新型コロナ感染対策のため、神戸大役員と遺族で開催され、その後、一般の献花が行われた。〈島袋舜也〉



(写真:慰霊碑に献花する藤澤正人学長 神戸大六甲台第1キャンパスで)

 
 例年よりも暖かく、穏やかな日差しが差し込む中、定刻の12時30分に参列者は1分間の黙祷を捧げた。
 藤澤正人学長が花束を慰霊碑に献花し、続いて、理事ら大学幹部が白い菊の花を慰霊碑に供えた。
 その後、参列した遺族が花を捧げた。昨年よりも参列した遺族の数は増えたものの、新型コロナウイルスのオミクロン株の流行や遺族の高齢化などもあり、参列を見送った遺族もあった。
 13時からは一般市民や学生による献花が行われ、現役の学生や大学教員が、亡くなった神戸大の学生や職員を偲んだ。

 就任後、初の参列となった藤澤学長はニュースネットの質問に答える形で、「献花式を行うことで1人でも多くの人に震災を心にとどめておくことができる」と語った。


(写真:ニュースネットの質問に回答する藤澤正人学長 六甲台第1キャンパス慰霊碑前で)

【藤澤正人学長のコメント】
時間はどんどん過ぎていく。年に1回、献花式を行うことで1人でも多くの人に震災を心にとどめておくことができる。防災にも大学として取り組まなければならない。私自身、阪神・淡路大震災の当日の朝、神戸大学附属病院で当直をしていて、病院が大変な状況になったのを覚えている。二度とこのようなことはあってほしくない。神戸に住む今の学生は胸に刻んで次の時代に引き継いでほしい。コロナ禍が明ければ、学内に周知し、学生も(献花式に)足を運んでほしい。大学としても途切れることなく、この震災慰霊献花式を続けていきたい。

 1995年(平成7年)1月17日午前5時46分に発生した兵庫県南部地震で、神戸大では、学生39人(うち留学生7人)、職員2人と、名誉教授1人、生協職員2人が犠牲になった。海洋政策科学部の前身の神戸商船大では、学生5人、研究員1人が亡くなった。六甲台第1キャンパスの慰霊碑は震災の翌年3月に建てられ、その後、毎年慰霊碑前で献花式が行われている。




下宿跡で娘を偲ぶ 上野志乃さんの父・政志さん

2022-01-17 10:14:13 | 阪神・淡路大震災
 震災から27年目の1月17日の早朝、上野さんは娘の志乃さんが亡くなったアパート跡地で静かに祈りを捧げた。<OB取材班>


(写真:学生や大学OBたちと娘の亡くなったアパート跡で黙祷する上野政志さん。)

 阪神・淡路大震災が起こった1月17日午前5時46分。まだ太陽が姿を現す夜明け前。吐く息が白くなるほど、空気は冷え切っていた。

 上野政志さんは、神戸市灘区琵琶町3丁目の一角で静かに黙祷を捧げていた。この場所は、上野さんの娘である上野志乃さん(当時発達科学部2年)が住んでいたアパート「ニュー六甲ビラ」の跡地。1995年のこの日、志乃さんは課題作成のために訪れていた友人とともに大きな梁の下敷きになり、命を失った。

 上野さんは毎年、この場に訪れ、震災の発生時刻に祈りを捧げる。この日の朝は上野さんと交流のある震災救援隊の学生とそのOB、そしてニュースネットOBが上野さんとともに祈りを捧げた。


(写真:下宿跡の前で木製の像に祈りを捧げる上野さん)

 上野さんのもとに集まった人々は、上野さんが佐用町の自宅から持ってきた、アパートで亡くなった学生3人を表す、木製の3つの像に向けて、線香を灯し、菊の花を供えて、手を合わせた。

 午前5時46分になると、集まっていた全員で1分間黙祷を捧げた。上野さんは「娘は2階の梁が落ちてきて、窒息死した。5分くらい息をしていたので、今の時間が一番苦しい時間だったかもしれない。」と当時の状況を語った。

 その後、一同は近隣の琵琶町公園に移動し、震災慰霊碑に献花を行った。


(写真:慰霊碑に手を合わせる上野さん 琵琶町公園で)

 神戸大ニュースネットOBの瀧本善斗さんは「2015年に上野さんに取材してから、毎年来ている。震災について考えたり、直接お話を聞いたりするので、上野さんとはご縁がある」と語った。

 2019年入学以降の震災救援隊員にとって、今回は志乃さんの下宿先での黙禱する初めての機会だった。現役部員の植田さん(2年)は、「自分は今成人式を終えたばかりの20歳で、志乃さんが亡くなった年齢と同じということもあり、おこがましいかもしれませんが、志乃さんと自分とで重なり合うところがありました。もし今自分が死んだら、家族や祖母がどう思うんだろうと考えました。完全にくみ取ることはできないと思いますが、政志さんの気持ちのことを想像しました」と語った。
 同じく現役部員の堀田さん(3年)は、「(前日に行われた)政志さんの講演会で志乃さんの話を通じて、数字で表される死者の裏には、一人一人の命があることを感じました。今日は志乃さんの遺影を見て、改めて人一人の死というものの衝撃を受けています」と話した。
 震災救援隊代表の山重さん(3年)は、「震災から時間が経過する中で、ご遺族の記憶は残る一方、人々の記憶は風化していっている。当時、震災に関連して結成された学生団体は多くあり、今では震災という側面が薄れてしまっている団体もあるが、残っているだけでも継承につながると思う。」と話した。


(写真:アパート跡前で像に向かって手を合わせる救援隊の学生)

 震災救援隊OBの長谷川益大さんは「学生の頃、講演会を聞いて上野さんを知った。毎年震災の黙祷には参加しているが、今年初めて上野さんのところに黙祷にきた。毎年、震災を忘れないために黙祷の行事には参加すると決めている」と語った。

 被災地に学ぶ会の藤室玲治代表は、毎年上野さんとともに下宿跡と公園に訪れており、「神戸市北区の家でどんと来たが、まさかこんなことになっているとは、思わなかった。阪神高速が落ちているのをみて、大変なことになっていると気づいた。15日に成人式があって、飲みに行っていた店も潰れたので、タイミングが違えば危なかった。友達は色々だった。ゲーム機抱えてきた子がいて、一階が潰れていて、2階だったのにスッと出れた。当時放送委員会だったので、高見団長と付き合いがあった。亡くなった学生のリストをもらって、号外を作っていた。高羽の無事だった友達の家で作業をしていたが、そういうところの弱みに漬け込む人もいた。当時は、大和公園の仮設住宅で活動していた。そこに暮らしていたの人の中に、琵琶町に元々住んでいた人が多かった。」と、当時のことを振り返りながら思いを語った。


(写真:像に手を合わせる藤室さん)

 上野さんは「例年来ていたのは4~5人だったため、今日はこんなに多くの人が来てくれて嬉しい。」と笑みを浮かべた。また、「多くの人に来てもらうということは、震災を知ってもらうということ。」と語った。「神戸大の人と関わりがあって嬉しい。また以前のように神戸大で震災講座を担当したい」と話した。





下宿跡横のともだ公園 高見元応援団長の仲間が祈る

2022-01-17 08:59:12 | ニュース
 震災から27年になる1月17日早朝、灘区のともだ公園では、阪神・淡路大震災で亡くなった高見秀樹さん(当時経済学部3年)が所属していた応援団の仲間らが、下宿していたアパートの横の公園で黙祷した。<OB取材班>


(写真:ともだ公園で黙祷する応援団のOBや現役部員)

 17日午前5時46分、灘区友田町1丁目のともだ公園では、震災で亡くなった高見秀樹さん(当時経済学部3年)が当時団長をつとめていた応援団のOBや現役団員らが6人集まり、黙祷を捧げた。

 山内正嗣OB会長は、「私が卒団してから彼が入ったので、直接は知らなかったが、(亡くなったこと)をOBなどから聞いて、まさかそんなことになっているとは、と驚いた。去年高見さんのご家族から寄付をいただき、団旗を作った。高見さんは団旗になりたいと言っていたので、それが叶って団旗から後輩を見守ってもらえたら。」と語った。
 高見さんとは応援団で1つ下の後輩だった国司和丸さんは、「優しくて厳しい先輩だった。毎年来て、自分の一年の変化などを報告している。」と、先輩に対しての思いを話した。
 また、応援団OBの助野吉郎さんは、「最近ちょくちょく来ている。全壊したし、自分の家全壊したし、上司も亡くなった。ここで集まったら、今の話や昔の話をよくしている。」と語った。

 応援団が復活してからの団員も2人公園に手を合わせに来ていた。

 宮脇健也前応援団長は、「卒業して今社会人になったが、関西に就職したので、できる限り来たいと思い来ました。魂はちゃんと受け継いでいますよってことをご報告したいです。これからも見守っていてください。」と大先輩である高見さんに語りかけた。
 古田徳幸現応援団長は、「去年も来たので2回目です。震災は遠い他人事として受け取っていた節があったが、寄付していただいたことからも応援団への思いや、熱い思いを持って活動されていたことがわかりました。当時の団員の方やご遺族の方がそういった活動されているということで、震災は自分のことではないですが、捉え方も変わりました。僕たちもそれを受け継いで、頑張らないといけない、という気持ちになります。」と、決意を新たにした。