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神戸大学メディア研ウェブログ

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部室使用の制限が実質撤廃 コロナ感染対策を条件に

2023-01-20 14:01:55 | ニュース
 1月4日付で神戸大の課外活動制限が変更された。部室利用について新型コロナウイルス感染対策を講じることを条件として、時間制限が廃止されるとともに、利用申請が不要となった。部室の使用制限の実質的な撤廃となる。<本多真幸>


(写真:六甲台第1キャンパスグラウンドにある部室棟。2023年1月19日撮影。)

 神戸大学学務部学生支援課は1月4日付で神戸大学HPの「課外活動の制限について」を更新した。学生支援課によると、変更点は部室の利用に関する部分。

 変更前、部室の利用には、30分以内で更衣や用具の搬出入に限るといった制限があり、30分を超えるときや練習のために利用するときには、課外活動申請をし、課外活動小委員会での審議のうえ、 許可を得る必要があった。

 変更後は、新型コロナウイルス感染対策を講じることを条件として、部室利用の時間制限が廃止されるとともに、利用申請が不要となり、実質的な平常化となった。コロナ感染対策には、①マスクの着用、出入りの際の消毒、換気の徹底、②会食の禁止、③鍵の管理、戸締りの徹底、④密になりすぎない程度の人数による部室の利用があげられている。

神戸大学HP「課外活動の制限について(令和5年1月4日更新)」=https://www.kobe-u.ac.jp/NEWS/sub_student/2021_05_11_01.html#seigen01

 部室は鶴甲第1、第2キャンパス、六甲台第1キャンパスにある。使用時間は午前9時から午後9時まで。時間外及び休日などに使用しようとする団体は、使用予定日の10日前までに時間外など使用許可願を学長に提出し、許可を受ける必要がある。詳しくは、「学生生活の手引き」62ページにある神戸大学部室等(六甲台地区等)使用要項を参照のこと。

神戸大学 令和4年度 学生生活案内=https://web-pamphlet.jp/kobe-u/2022e14/#page=71

部室利用について、これまでの規制とそれに関わる主な動き
▼2020年
<3月4日付>学生支援課が、課外活動の中止または延期と、部室を含む課外活動施設の使用禁止を通知。

<6月15日>
神戸大の4団連(体育会、文化総部、学生学会、応援団総部)の代表が連名で学生支援課に課外活動制限解除を求める嘆願書を提出。

<9月24日付>
神戸大は「学内施設における課外活動の一部実施について」のページを更新。用具搬出入・着替えなどのための入室のみ許可。

▼2021年
<12月10日付>
学生支援課が課外活動団体あてにメールで通知。部室の使用は更衣・用具の搬出入等最小限。ただし、練習等で利用が必要な場合は、「課外活動計画申請書」を提出し、課外活動小委員会において審査のうえ許可を得れば利用可能に。

▼2022年
<7月19日付>
神戸大は「課外活動の制限について」のページを更新。部室の利用が、次の条件のうちいずれかを満たす場合に限り認められるように。
●課外活動小委員会により許可を得ている
●荷物の搬出入、部室内の清掃などを目的とした短時間(30分以内)の作業
●その他、やむを得ない理由により学生支援課から許可を得たものである

▼2023年
<1月4日付>
神戸大は「課外活動の制限について」のページを更新。コロナ対策を講じることを条件として、部室利用の時間制限を廃止するとともに、利用申請を不要とする。

関連記事「『黙ってたらだめ。もっと学生側からの声を』 前応援団長・宮脇さんに聞く」(2021年3月24日)https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/f71e9b283e74844db6dea5aa4247bc27

関連記事「1月から学内の「課外活動制限3時間」など緩和 学生支援課が正式に文書通知、Q&Aも添付」(2021年12月10日)https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/e503011462d83811465ddb5c62bf8588


学生は22人増加 1月11日~1月17日の学内コロナ感染者数 

2023-01-18 23:59:59 | ニュース
 神戸大は毎週水曜日に前日までの1週間の感染者数を掲載している。1月18日の発表によると、1月11日から1月17日までの2週間で、学生118人、教職員24人の感染が確認された。学生は22人増加、教職員は35人減少した<奥田百合子>。


(画像:2021年4月14日~2023年1月17日の学内感染者数推移 グラフ)

▼神戸大サイト「本学の新型コロナウイルス感染者について」=https://www.kobe-u.ac.jp/NEWS/info/corona_infected.html

【2022年度神戸大の新型コロナ感染者数】(神戸大サイトから)
1月11日~ 1月17日 学生118人、教職員24人。
12月28日~ 1月10日 学生96人、教職員59人。
12月21日~12月27日 学生92人、教職員50人
12月14日~12月20日 学生89人、教職員33人。
12月 7日~12月13日 学生52人、教職員27人。
11月30日~12月 6日 学生57人、教職員18人。
11月23日~11月29日 学生25人、教職員14人。
11月16日~11月22日 学生35人、教職員24人。
11月 9日~11月15日 学生25人、教職員8人。
11月 2日~11月8日 学生15人、教職員8人。
10月26日~11月1日 学生12人、教職員10人。
10月19日~10月25日 学生24人、教職員6人。
10月12日~10月18日 学生11人、教職員10人。
10月5日~10月11日 学生23人、教職員11人。
9月28日~10月4日 学生 7人、教職員15人。
9月21日~9月27日 学生17人、教職員14人。
9月14日~9月20日 学生44人、教職員24人。
9月 7日~9月13日 学生58人、教職員68人。
8月31日~9月 6日 学生54人、教職員109人。
8月24日~8月30日 学生117人、教職員17人。
8月10日~8月23日 学生152人、教職員114人
8月 3日~8月 9日 学生180人、教職員78人。
7月27日~8月 2日 学生212人、教職員32人。
7月20日~7月26日 学生131人、教職員60人。
7月13日~7月19日 学生95人、教職員24人。
7月 6日~7月12日 学生22人、教職員 8人。
6月29日~7月 5日 学生57人、教職員 5人。
6月22日~6月28日 学生22人、教職員 2人。
6月14日~6月21日 学生 9人、教職員 3人。
6月 8日~6月13日 学生53人、教職員 3人。
6月 1日~6月 7日 学生22人、教職員10人。
5月25日~5月31日 学生27人、教職員 8人。
5月18日~5月24日 学生58人、教職員15人。
5月11日~5月17日 学生63人、教職員13人。
4月27日~5月10日 学生 8人、教職員 4人。
4月20日~4月26日 学生90人、教職員 2人。
4月13日~4月19日 学生57人、教職員 5人。
4月 8日~4月12日 学生29人、教職員 8人。
3月30日~4月 7日 学生16人、教職員 4人。
学内の累計感染者数(2020年4月以降)学生2863人、教職員1084人。


震災28年慰霊献花式 参列者のことば【後編】

2023-01-17 19:15:30 | ニュース

 阪神・淡路大震災から28年。当時から神戸大学に勤務していた人をはじめ、様々な形で震災に巻き込まれた人、震災に関心を持った人たちもキャンパスの慰霊碑に花を供えた。後編では大学職員や市民の言葉を掲載する。<震災取材班> 

教職員のみなさん

▽正司健一さん(67歳)

神戸大学名誉教授

「震災発生時も神戸大に勤務していた。六甲アイランドに住んでいたため、震災直後は橋が崩れて大学に来られなかった。卒論提出の間近であり、神戸に残って取り組んでいた学生が大勢被害に遭われたことを覚えています」

(写真:取材を受ける正司さん)

▽千田真也さん

神戸大農学部教務学生掛

 「震災のときは、小学生で大阪にいた。神戸大の学生や職員も亡くなられたということで、献花にきました」

 

▽大村直人さん(60)、木戸良明さん(63)、吉田潔さん(59)

大学役員

 大村さん「献花式に来ると、やはり当時のことを思い出す。震災当時は助手をしていたが、学生の安否が確認できなくて大変だった。電話したり、職員で手分けして下宿周辺のいろんな避難所に行ったりしました。」

 木戸さん「阪神淡路大震災は限定的な地域で被害があったから、他県からの支援がありがたかった。電気の供給が止まっていて信号はなくても、何とか秩序を保って交通が成り立っていたのには驚いた」

 吉田さん「震災当時は東京に住んでいたので、最初はニュースで見て「ちょっとした地震かな」と思ったが、高速道路の倒壊をみてただごとじゃないと感じたのを覚えている」

 

▽岡田修一さん

放送大学勤務 神戸大学名誉教授 

 「発達科学部で上野志乃さんを教えていた。お父さんのお話も2回くらい聞いたことがある。卒業できなかったのが残念です」

 

▽橋野知子さん (54歳)

神戸大学経済学研究科教授  

 「被害に遭われた魂が安らかに眠れるように、という思いです。震災で亡くなった白木健介君を記念して経済学部の卒論に賞が与えられるようになったという経緯もあって、献花式に参列しました」

(写真:取材を受ける橋野さん)

 

▽神戸大職員

 「当時は、神大で震災で被害を受けた人の見舞金を出す仕事をしていた。大学でやっているのでいくべきだと思ってきた。震災当時のことは鮮明に覚えている。二度と起こってほしくない、びっくりした」

▽赤松朋広さん 

神戸大職員

 「去年まで献花式を担当していた。毎年仕事で関わっていたこともあり、来た。震災のときも職員をしていた。震災当日は出勤できなかった。携帯も今ほど普及していなかったので、職場の人が無事かどうかもわからなかった」

▽奥村弘さん

神戸大学大学院人文学研究科長

 「震災のときも、神戸大の教員だった。震災はやっぱり大変だった。六甲台キャンパスから見渡せる神戸の街の景色だが、震災が起こってから5年は建物の屋根がブルーシートに覆われていて、全く違う光景だった」

▽高田義弘さん

国際人間科学部准教授

 「震災の時、発達科学部で助手を務めていた。学科の学生や応援団長の高見秀樹さんなど関わりのある学生が亡くなった。何もできなくて悔しかった。あと5年したら神戸大から震災を経験した教員がいなくなるので語り継いでいってほしいです」

 

神戸大OBのみなさん、市民のみなさん

▽藤室玲治さん

福島大学特任准教授、被災地に学ぶ会代表、神戸大OB。

 「震災のときは大学2年生で、(当時応援団長だったが、震災で亡くなった)高見秀樹さんのことも知っていた。自分と同じ世代の人が亡くなって…震災はずいぶん前の出来事のような、でも昨日の出来事のような気がします」

▽津村知世さん(83歳)

 「篠原台から来た。遺族ではないけど、皆さんの死を無駄にしないでほしい、という気持ちで毎回(慰霊碑に)手を合わせています。震災当時は市民病院に勤めていて、けが人や亡くなった人が運び込まれて大変だったことを今でも覚えています」

▽碓井和貴さん

神戸大学生震災救援隊OB。

 「自分は震災で、生き埋めになったが助かった。おじは亡くなり、東遊園地に名前が刻まれている。震災を『風化させない』というが、風化してしまうからそういう表現があって、抗っているのだと思う。こういうときにみんなが震災のことを思い出していただけることがありがたい。また来られるときは慰霊碑に来たい」

▽野村真弓さん(49歳)

ご遺族の上野政志さんの元・教え子。

 「上野さんのことはメディアでもよく見ていました。同じ小学校の友人と『先生がテレビに出ていたよ』という話になった。私としては、震災から生き残った罪悪感から中々連絡ができなかった。しかし、友人の後押しがあって、『志乃さんのことをわすれていない』と示すために連絡しました」

▽神戸大生の保護者夫婦

 「東京から旅行できた。せっかくなので慰霊碑に来た」

▽瀧本善斗さん

ニュースネット委員会元編集長

 「毎年来させてもらっているので、来年も状況が許せばまた来たい」

(写真:取材を受ける瀧本さん)

▽神戸大工学部1年生の息子をもつ母親

 「大学広報のツイッターで見つけて、息子の入学を機に献花式に来ることを決めました。私自身も通っていた大学が全壊するなど被災したので、献花すると当時のことを思い出す。お子さんを亡くされた親御さんがどれほど辛いか、今だからこそ分かります。」

▽チョンマンチョルさん

韓国・青雲大学社会サービス学部社会的企業学科教授

 「1996年から2002年まで神戸大の大学院に留学していました。一昨日、韓国から当時の先生に会うために来日した。今日で阪神・淡路大震災から28年になるので慰霊碑に立ち寄った。神戸大に入学した1996年は三宮の崩れた建物や亡くなった学生が多くいたことが印象に残っている。」


震災で神戸大生の娘を亡くした上野政志さんが遺族代表挨拶 1月17日朝の東遊園地

2023-01-17 10:09:14 | ニュース
 1月17日午前5時から神戸市中央区の東遊園地で、阪神・淡路大震災の犠牲者を悼む式典「阪神・淡路大震災1.17のつどい」が行われた。会場には、神戸市長や遺族、地域住民をはじめ、数百人近くの人が訪れた。献花台付近では「むすぶ」の文字をかたどった灯籠に火がともされ、詰めかけた人々は灯篭を囲み、震災が起こった時刻の5時46分に一斉に黙祷をささげた。当時神戸大生だった娘の志乃さんを震災で亡くした上野政志さんが遺族代表として挨拶を行った。<尾畑陽貴、本多真幸>


(写真:献花する上野政志さん 2023年1月17日午前6時ごろ)

 娘の上野志乃さん(当時発達科学部2年)を震災で亡くした上野政志さんは被災者遺族の代表として追悼の言葉を述べ、献花した。
 上野さんはスピーチの中で、娘・志乃さんを震災で亡くした時のことを鮮明に語り「目の前にいながら助け出せなかった無力さを感じました。」と振り返った。「忘れ去られたときに死が訪れると言いますが、取材などを通じて志乃の話を聞いてくれる人がいる限り、ふと志乃が生きていることを思うのです。震災の教訓は生きている人間で生かしていくことが大切で、そのために何か一つでも伝えることができたら幸いです。」と話した。


(写真:追悼の言葉を述べる上野志乃さんの父・政志さん。2023年1月17日午前5時47分ごろ 神戸市中央区の東遊園地)

 上野さんの挨拶に聞き入る人たちの中には、神戸大学学生震災救援隊に所属する学生たちもいた。震災救援隊は、震災の復興祭として始まった灘チャレンジの主催や、震災を経験した住民との交流、震災に関する学生間での学習会などといった活動を行っている。
代表の植田丈嗣さん(法3年)は、上野さんの「人は忘れたときに死が訪れるが、話を聞いてくれる人がいるから志乃はまだ生きている」という話が「ぐさっときた」という。
植田さんは、「亡くなった方の身近な人から思いを聞いていくことが大事」としたうえで、「自分は福井出身で震災について知らなかったが、神戸に住み、生きて、震災なしに(神戸を)語ることはできないと感じている。経験していない身でも、経験した人から聞いたことを伝えていく必要があると思う。」と語った。
 
 志乃さんと同い年で被災地に学ぶ会の藤室玲治さんは、「上野さんとは、2010年ごろに初めてお会いして、10年以上の付き合いになる。挨拶では、『亡くなった方の顔を覚えている人がどれだけいるでしょう』という言葉が印象に残っている。ひとりひとりのことを忘れずに伝えていったり、まだ僕も知らない死があると思うので、それを知っていって、次の世代につながないといけないと思った。」と語った。

 久元喜造神戸市長は挨拶の中で「震災から得られた教訓を風化させてることなく、継承していかなければならない。昨年も自然災害は大きな被害をもたらし、予断を許さない。市民の力を合わせて防災、減災に取り組み、地域貢献を目指したい。」と話した。
 

(写真:午前5時46分、地震発生の時刻に黙とうをささげた多くの市民。2023年1月17日 中央区の東遊園地で)

 上野さんは東遊園地を後にし、午前8時ごろに志乃さんが当時住んでいた下宿跡を訪れた。「当時から唯一変わらないのは、このフェンスだけ。」と話し、自作の資料をめくりながら命の尊さについての歌の紹介などをした。また「みんなの心で忘れなければ生きている。」と語り、娘・志乃さんとの思い出の花であるデンファレの花束を供えた。
 その後に訪れた琵琶町公園の慰霊碑前では、「東遊園地での追悼の言葉を引き受けたのも、志乃を知ってもらうため。世間的には”もう”28年と言われがちだが、私にとっては”まだ“28年。この乖離が寂しく感じる。」と述べた。


(写真:志乃さんが描いたマンドリンクラブのポスターを紹介する上野さん。2023年1月17日午前8時ごろ、神戸市灘区琵琶町の志乃さんが当時住んでいた下宿跡で。)



(写真:琵琶町公園の献花台で手を合わせる、上野志乃さんの父・政志さん。2023年1月17日午前8時26分、神戸市灘区琵琶町の琵琶町公園で。)

《追悼のことば》(全文)

まだ28年前の出来事です。6434人、多くの死がありました。しかし、私たちの多くはそのうちの何人の顔を思い浮かべることができるでしょうか。
 娘・志乃は、20歳と8カ月という若さで亡くなりました。
 「一歩一歩を大切に生きていきたい」と成人式にその言葉を残していました。しかし、親に一言も言わないで、突然、一歩も歩まないで、遠くへ行ってしまいました。

 1月17日の夜、意外と渋滞を気にせずに山麓バイパスから灘区琵琶町のニュー六甲ビラ 注1)のアパートに着き、現場は瓦礫の山だったのですが、近くの避難所を巡りをし、ラジオ関西の尋ね人報道に依頼をし、車中泊をしました。

 18日6時40分ごろ、少し明るくなってきたので瓦礫の山をのけていると、お友達の頭を、その横に志乃の足を見つけました。
 ホームこたつに差し向かいで寝ていたようで、2階の梁がその真ん中に落ちてきており、挟まれた状態でした。
 目の前にいながら助け出せないでいる自分の無力さを味わいました。昼から垂水の兄が来てくれて、壁を崩し、屋根瓦を落としたりして、夕方の5時ごろに少し梁が動いて、引き出すことができました。

 王子スポーツセンターの、丸一日以上かかった検視。200人近くが収容されて、1000人以上が黙って検視を待ち続けた武道場。全く寒さと静けさがそこにありました。

 葬儀を終えてからは、毎日のようにアパートに遺品捜しに行きました。
 1カ月ごとにビニール袋にくくられた新聞を見て、何でも丁寧にする性格だなあということを見つけたり、いま学校や図書館などに寄贈しているおもしろい発想の「空を泳ぎたかった魚の話」のパラパラ絵本などを持ち帰りました。
「陽子、志乃。ここに眠る」 注2)の新聞報道があって、以来多くの記者たちと出会うことになりました。初めは泣いてばかりいましたが、3、4人目ぐらいから、話終わってふと、気持ちが軽くなることがありました。

 平成8年の5月のお誕生日に合わせて、娘が生きていた証しにと、「忘れないで」という記録本を作って、関係する人たちに配りました。その作成途中に、神戸大学の社会学の浅野慎一先生から、志乃が受講していた講座の小レポートを送っていただきました。その中に、「私にとって家族とは絶対的な存在である」と言い切っていました。
 それが縁で、4回ほど社会学の講座でお話をさせていただき、のちには全学部対象の震災講座で、コロナが流行する前年までの何年間か、「行きてこそ」というテーマで、お話をさせていただきました。
 その受講生の中に、「生と死は両極にあるのではない」「みんなの心から忘れ去られたときに本当の死が訪れる」という小レポートがありました。まさにその通りだと思いました。
 だから時々、ふと「志乃は生きている」という思いになることがあります。
 なぜなら、私の話を聞いてくださる方がいて、どんどん志乃を知ってもらえる人が増えているからです。

 「生きてこそ」という題は、1976年アンデス山中に墜落した飛行機事故で、72日間救助もなく16名が生き抜いた記録で、映画化されたその題名『Alive 生きてこそ』からとったものです。
 生への執着無くしては生ききられないこと。生きることの素晴らしさを伝えるために使っているものです。

 娘・志乃の無念さ、将来の夢や思いを実現できないまま志半ばで逝ってしまったこの逆縁の体験を通して、生きることの意味について、伝えていきたいと思っています。
 今も志乃の足に触れた時の氷より冷たかったという感触、助け出せないでいる情けない自分の存在を鮮明なまでに覚えています。
 二度とこういう体験は味わいたくありません。そのために東北の大震災で、釜石市が行なったような事前の津波防災教育や、多くの災害から学ぶ教訓を、今生きている人間で生かしていく必要があると思います。

 この追悼の言葉も、その機会と捉え、何か一つでも伝えることができたら幸いと思って、引き受けたものです。

 言葉足らずの私の話を聞いてくださったみなさん。そして、こうして話す機会と場を用意してくださった関係者のみなさんに感謝します。
 ありがとうございました。
                           2023年(令和5年)1月17日 上野政志

注1)「ニュー六甲ビラ」は志乃さんの住んでいたアパートの名前。
注2)志乃さんとともに亡くなった川村陽子さんのこと。





阪神・淡路大震災から28年 神戸大生の遺族らが5時46分に各地で黙祷

2023-01-17 08:51:39 | ニュース
 阪神・淡路大震災の発生から28年となる1月17日の早朝、東遊園地(中央区)やともだ公園(灘区友田町)、琵琶町公園(灘区琵琶町)には多くの人が被災者の追悼に訪れた。<ニュースネット取材班>


(写真:東遊園地で追悼する人たち。2023年1月17日5時46分)

 阪神・淡路大震災が発生した1月17日5時46分。各地の献花台の周りには灯籠や街灯の光を頼りに、地域住民や遺族、友人、知人を亡くした人など多くの人が集まった。

▽東遊園地
 東遊園地には、神戸市長や遺族、地域住民をはじめ、数百人近くの人が訪れた。献花台付近には、メッセージの書かれた灯籠が置かれた。灯籠で「むすぶ」の文字が作られた。
 震災で上野志乃さん(当時発達科学部2年)を亡くした上野政志さんは、遺族代表として挨拶を行った。上野さんは、「がれきを目の当たりにして、助けられない無力さを感じた。震災の教訓を、生きている人間で活かしていくことが大切」と話した。


(写真:遺族代表挨拶をする上野さん、東遊園地で。2023年1月17日5時51分。)

▽ともだ公園
 下宿していたアパート跡の横にある灘区友田町のともだ公園では、阪神淡路大震災で亡くなった高見秀樹さん(当時経済学部3年)が当時所属していた応援団OB会長である山内さんや後輩の国司さんら関係者5人と現役の応援団員2人が、黙祷を捧げ、手を合わせた。


(写真:ともだ公園で黙祷する応援団のOBや現役部員。2023年1月17日5時46分。)

 山内正嗣OB会長が、代表して「28年経ちました。四半世紀以上になるけど、高見くんにこうやって手を合わせることは大切なことだと思うし、忘れたらいけないと思います。(高見さんのご家族が寄付した)団旗についても現役も忘れずに活動してください。」と挨拶した。
 また、インタビューには、「彼が下敷きになって現役最後で団長になった年に亡くなったことは残念で、悔しい。国司さん達とは、毎年ここで年に1度しか会えていないので、そういう場にもなっている。応援団の総会もオンラインでやっていて、他のOBと会う機会も今はあまりないが、今年から対面でもいいかなと思っている。」と語った。

 高見さんとは応援団で1つ下の後輩であり、ともだ公園での黙祷では中心となって動いている国司和丸さんは、「毎年の今年1年で変わったところなどを高見さんに手を合わせながら報告している。昨日の夜から神戸に来ていて、この後は東遊園地に行って、午後には献花式に行く。」と話した。

 田代浩也現応援団長(法3年)は、応援団長としてやっていく覚悟と、「団旗から見守っていてください」というメッセージを先輩である高見さんに伝えた。


▽神戸大学六甲台第1キャンパス震災慰霊碑

六甲台第1キャンパス慰霊碑前では人の姿は見えず、しんと静まりかえっていた。石碑のそばにはたくさんの花束やタバコなどが置かれていた。


(写真:慰霊碑前。2023年1月17日5時46分)

▽琵琶町公園

 琵琶町公園には、5時30分頃から人が集まり始めた。献花し手を合わせる人、集まった人と震災当時について語る人、遠くから様子を見守る人など、20人近くが追悼に訪れた。5時46分には黙祷が行われた。


(写真:献花台の前に集まる住民ら、2023年1月17日5時40分ごろ)