ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

戯曲「るつぼ」の読み方ーその1

2019年09月25日 18時53分39秒 | 読書
以前、本ブログでアーサーミラーの「るつぼ」を取り上げたことがあります。そのときは「るつぼ」の時代背景や簡単な感想を書いてみました。あれからしばらく経っています。今回はその戯曲「るつぼ」をどのように読むことが出来るかを考えてみたいと思います。
「るつぼ」は1692年に起こった米国東部のセイラムという片田舎での「魔女裁判」の経過を1950年初め頃の「マッカーシズム」になぞらえて論評するものが多いのです。
この作品についてマッカーシズムの不合理性や不正義が引き起こした悲劇を描いてみせた、という評価は有りうるだろうが、アーサーミラー自身は1958年3月9日のニューヨーク・タイムズ紙で次のように語っている。少々長くなるがそれを引用しよう。
「私は単にマッカーシズムに対する答えとして『るつぼ』を書く気になったのではない。これが赤狩りを正すための試みでないことは、『セールスマンの死』が旅まわりのセールスマンの生活条件の改善を訴えたものではなく、また「みんな我が子」が飛行機の部品検査の改良を説いたものではなく、あるいは「橋からのながめ」が移民局に対する攻撃でないのと同じである。「るつぼ」は、内容的には、「セールスマンの死」の血をわけた兄弟である。これは私が前から深い関心をもっていた問題ー人間の生(なま)な行為と、人間が自分自身であることについてのあいだにある葛藤の追及である。善悪の観念すなわち良心は実際に人間の一部なのかどうか、それが単に国家や時代の道徳観のみならず、友人や妻に引き渡されたらどうなるだろうという問題である。(後略)」とアーサーミラーは述べているのである。この言が1958年になされた事に注目してみよう。1954年に政府、軍部内にもマッカーシーに対する批判が広がり、同年の12月2日に、上院は65対22でマッカーシーに対して「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」として事実上の不信任を突きつけ、ここに「マッカーシズム=アメリカにおける赤狩り」は終焉を迎えることになる。 そして1957年5月2日 にジョセフ・マッカーシー上院議員は死去する。
翌1958年3月にニューヨーク・タイムズに「るつぼ」についてアーサーミラーは上記のように述べているのである。
「るつぼ」が単にマッカーシズムに対する答えだったとすれば、マッカーシーが死去したことにより、その作品が「際物(きわもの)」としての役目を終わってしまうはずであるが、そうはならなかった。この演劇はそれ以降もしばしば上演されてきている。我が国での最近の例を挙げれば、2012年と2016年に上演されている。そしてその観客の多くはマッカーシズムを知らない世代であるという。
これは何を意味しているのだろうか。

アーサーミラー自身が言うように『生(なま)の人間の行為とそれを取り巻く周辺との葛藤』がどのように「るつぼ」で『追及』されているのかを見てみようと思うのである。
ーーーーこの項続くーーーー


最新の画像もっと見る

コメントを投稿