ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

田舎の神社で不思議なものを発見した。

2020年09月21日 19時28分55秒 | 秋田県のくらしと歴史
秋田県八郎潟町へ出かけてみた。田んぼアートを見るためであったが、残念ながら稲は刈り取られていた。その代わりではないが偶然に通りかかった神社で思いがけないものを発見した。その神社は八郎潟町真坂の八幡神社である。


この神社は八郎潟町指定文化財となっているとのことである。これが建てられたのは明治29(1896)年であると案内板には表示されていた。今から124年も前のことである。建物の全体はこじんまりとしているが、その造りは本格派であった。次を見て頂こう。



建物の各所に施された彫刻や絵馬を見ると、ここの八幡神社は小粒だが重厚さと威厳を持つ本格的な神社建築であることがわかる。

さて、これからが私の本文である。
この神社の境内に石碑があった。

「國威宣揚祈願記念碑」と銘文が彫られている。
文字を判読すると次のように表記されていた。
『昭和八年五月十五日
 聯盟離脱満州獨立
 國威宣揚祈願記念碑
 非常時國民之更生

 面潟村 眞坂』

この碑文の意味は次のようであろう。
『年号と月日はこの碑が建てられた月日であろう。
この碑を建てた目的が次に記載される。それは国際連盟から離脱して満洲国を独立させる為に国威宣揚を祈願してこの碑を建てる。
その為には非常時なのだから国民はこれ更生を図らねばならない。

面潟村 眞坂(おもがた村まさか)』はこの地の旧地名である。

日本が国際連盟を脱退したのは1933年(昭和8年)3月である。また満州が愛新覚羅溥儀(アイシンカクラ フギ)を皇帝に据え独立国を宣言したのは1934年であった。
この碑はかって我が国が膨張主義の対外政策をとっていた名残である。
こんな物が無傷で残っていることにまずは驚いた。敗戦後GHQは秋田の片田舎の神社の碑文までは目が届かなかったのかなと感じたのであった。
秋田県の片田舎までも戦前の日本国家の政策は徹底され、国民の意識はそれに同意していたことの証左として、この碑は意義を持つであろう。

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1 コメント

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こんばんは (猫の誠)
2020-09-22 19:47:02
それこそ東京都心にも、皇紀二六〇〇年と刻んだ石柱が何カ所かの神社に奉納されています。大抵軍人の揮毫です。この手の記念碑は都内の目立つところに案外あります。その反面一部には、これらと同様のものをノミで削って痕跡を消したものもあります。これらのことを小生のブログでも紹介しています。共通するのは、普通の観光地にあるような解説銘板がないことです。これらのことを総合すると、GHQが戦前の記念碑に目をつけて撤去させようとしたのではなく、自主規制したものが一部ある、ということです。秋田の満州事変の記念碑も、満州事変にも日本なりの正当性があり、多くの国民も是としていたことを考慮すれば、その時代のものをきちんと残していただいた、秋田県民の心意気に感動します。ご紹介感謝します。
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