ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

アーサー・ミラー「るつぼ」の戯曲を読んで。(追記あり)

2016年11月05日 11時46分18秒 | 読書
アーサー・ミラー「るつぼ」が書かれた時代背景については先日のブログで触れておきましたが、今日はこの劇の内容について、少し触れてみたいと思います。

まずこの戯曲はすごく読み易いのが特徴です。劇中の登場者が多いのですがこれは「セイラム魔女裁判」という史実に基づいているからなのだと思います。また、幕間の途中に作者によるト書きが詳細なのもこれの特徴です。

登場人物が多いのにも関わらず、劇中で主要な位置を占めている人物ははほんの数人です。
私見ですが、以下の数人の言動を軸に物語は進行していきます。

パリス牧師、少女アビゲイル、農夫プロクター、その妻エリザベス です。

さて、この劇で最も腑に落ちないのは四幕の最後での農夫プロクターが取った行動です。

プロクターが受けた受難とそれに対処した彼と妻のとった行動がこの劇の主題と思われがちです。
最後の四幕でプロクターは処刑されることをなぜ自らに課したのか?という疑問が残ります。

プロクターが選んだ道はほかにはなかったのでしょうか?
プロクターの選択は、彼の良心に逆らってでも生き延びて、少女アビゲイルと彼女が引き起こした「魔女裁判」そのものを糾弾する道を選ぶこともできたはずなのです。

アビゲイルと彼女の仲間たちが悪ふざけでとった行動が、その後のセイラム村の善良な人々を、「隣人を魔女に仕立て上げ」絞首台へと送ってしまう結果を生んでしまいます。これは単に歴史の悲劇として、私たちは見ていいのでしょうか?

プロクターは妻を裏切り少女アビゲイルとの過ちの贖罪をしなければならないと思って死を選び取ったのでしょうか?
彼は一度は「自分は魔女と契約を交わした」ことを認めます。その宣誓書が教会の扉に貼られ公開されると知ったとたんに宣誓書を破り捨ててしまい処刑台に行くことを自ら選んでしまいます。

アーサー・ミラーはセイラム魔女裁判の史実に忠実に描こうとするあまり、プロクターの決断を「自分の良心を裏切ることが、できなかった善良な農夫の物語」にしてしまったのでしょうか?
作者のアーサー・ミラーがそんな通俗的な物語を描こうとしたとは思えません。この戯曲はプロクターの行動を主題としたものではないだろうと思ってしまいます。
事件の渦中にいながら事件の進行をおどおどしながらも、最後まで見届けたヘイル牧師こそが、この劇の「狂言廻し」と見ることができます。

今回の「るつぼ」の劇を観てもいないわたくしが、原作を読んだだけでこんなことを言うのは、おこがましいのですが、そもそも、戯曲は演出家の捉え方により、観客が受ける印象が大きく変わるものです。

アーサー・ミラーのこの戯曲は、さっきも言いましたが、本当に読みやすいのです。
劇の上演が3時間ぐらいとすれば、本を読む限りでは3時間以内で読めました。
実際の劇の進行より、早回しで読んでいけるのが活字の強みなのです。
この記事は、あくまでもアーサー・ミラーの戯曲を読んだだけのわたくしの感想です。

実際の劇を見た方はどのように「るつぼ」を見たのでしょうか?


<追記>
この戯曲を書かれた背景については以前にも触れておきましたが、ここでもう一度考えさせられる事があります。
セイラムの善良な村人たちを「魔女狩りの狂気」に駆り立てたものは何だったのか?という事です。

アビゲイルがプロクターに横恋慕して、彼の妻を追い落として、プロクターを苦しめてやろうと一連の行動をとった、と考えることは可能です。アビゲイルの嫉妬心がこの事件の発端と見ることはできます。
この場合、アビゲイルは私的な目的のために「魔女狩り」という宗教的、社会的な手段を意図的にとったのでしょうか?

個人の狂気(アビゲイルの嫉妬心)が村人の多くを同じ状態にさせてゆくのは、なぜなのか?
個人の思念がグループや社会全体の思念となっていったのには、そこにどんな構造があったのか?

個人の病理が国家の病理にまでなっていった例を、私たちは20世紀の戦争の歴史で経験済なのですが、いまでもこれは姿を変えて残っているのかもしれません。

そんな事を、この戯曲を読んで感じました。
















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