ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

鎌鼬(かまいたち)美術館のこと

2023年12月13日 18時46分39秒 | あのころ
今日(12月13日)の地元紙に鎌鼬美術館の記事が載っていた。鎌鼬(かまいたち)という変な名前をつけた美術館が秋田県の羽後町にある。秋田市出身の舞踏家、土方巽と写真家の細江英公が羽後町田代に突然現れて写真を撮っていった。1965年の秋のことであった。細江英公はそれを「鎌鼬」という写真集にまとめた。鎌鼬はつむじかぜにのって現れて人に切り付けて去ってゆくとされる妖怪である。土方と細江は田代に忽然と現れ数 . . . 本文を読む

「ソビエト崩壊から30年」に思うこと

2021年12月26日 20時12分25秒 | あのころ
旧ソビエト連邦が崩壊したのは1991年12月でした。ソビエトはロシア共和国になりましたが、今のロシアより旧体制の方が良かったと思う人は3人に2人の割合でいるとの報道を目にしました。その理由は旧ソビエトは歴史上初めての社会主義体制を実現したこと。そして実情はどうであったかはともかく建前としては「公平な社会」であったことに誇りを感じているようです。しかしロシア国内に旧体制を懐かしむ人が多数を占めている . . . 本文を読む

スノーシェルターの名前

2020年10月10日 08時44分34秒 | あのころ
八幡平は豪雪地である。冬季間の通行止めの解除後は立派な雪の回廊が現れる。そんな八幡平なのであるが、八幡平アスピーテラインの岩手県側には少し変わった名前のスノーシェルターがある。これである。そのシェルターは「学習院前スノーシェルター」となっている。学習院といえば、あの学習院である。皇族の進学する学習院なのである。シェルターや橋などの道路上の構築物には普通はそこの地名が名づけられるのだが、ここは「学習 . . . 本文を読む

寺山修司だったなら、いまのコロナにどうしただろうか。

2020年07月12日 07時11分09秒 | あのころ
寺山修司という人は47歳の若さで亡くなっている。青森県に生まれた寺山は地元の高校を卒業後、早稲田大学に進学した。名司会者として知られる大橋巨泉が早稲田に入学して俳句の道に進もうと考えたのであるが、先に入学していた寺山の存在を知って、巨泉は寺山には敵わないと思い、俳句の道を断念した、と後年語っている。そんな彼は多方面で才能を発揮したのであるが、著作に次の書名の評論集がある。「書を捨てよ町に出よう」で . . . 本文を読む

ガロとCOMで思い出すこと

2019年09月12日 12時35分09秒 | あのころ
上記の画像は先日の美術展で展示されていたコミック誌です。上にあるのは『ガロ』下は『COM』です。共に創刊号の表紙です。『COM』の表紙は「火の鳥」の一場面ですね。『ガロ』の表紙は何の劇画でしょうか。白土三平が描く劇画にはこのような場面が多くあるので、作品名は私には判断が出来ませんが、ヒントになるものがこの表紙にあります。ガロの創刊号は白土三平傑作選集①と銘打って次の作品が載せられているのです。「ざ . . . 本文を読む

51年前の4月下旬にはこんなことがあった。

2019年04月13日 20時10分18秒 | あのころ
51年前と言うとわたくしは東京の私立大学の学生であった。1968年のことである。その年の4月に思いがけないことが世間の注目を浴びた。それはベトナム戦争に投入されていた米空母「イントレピッド」の乗組員の4人の若者が空母を脱走してソ連を経由してスウェーデン に渡ったことが明らかにされたのである。当時彼らは「イントレピッドの4人」と呼ばれた。彼らの国外退避を手助けしたのが「べ平連」であった。べ平連自らの . . . 本文を読む

「星の王子様」の思い出

2019年04月07日 15時40分46秒 | あのころ
孫が中学に進級したので、記念になるものと思い本を買ってやることにしました。選んだのは「星の王子様」です。知ってのようにこの本は世界の多くの人に愛されている物語です。わたくしは大学に進学したときこの本を持参して上京しました。短期間でしたが親戚の家に下宿をしてました。下宿先にはおない年の女子大生の娘さんががおりました。同世代の娘さんと同じ屋根の下にいるのは うまくないことと考え、その後わたくしはアパー . . . 本文を読む

橋本治氏が亡くなった

2019年01月29日 20時17分59秒 | あのころ
「とめてくれるなおっかさん 背中のいちょうが泣いている 男東大どこへ行く」 これは当時東大生だった橋本治氏が駒場祭の為に書いたポスターに添えられていたコピーでした。 その橋本氏が、1月29日に亡くなったとのこと。70歳であったという。 このポスターが制作されたのは1968年の晩秋である。そして「東大安田講堂、落城」が翌1969年1月19日であった。 共に半世紀も前の出来事である。 「東大安田講 . . . 本文を読む