唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

「アインシュタインとモーツァルト,どちらが天才だと思います?」――?

2023-04-15 | 日記

 先日たまたまテレビドラマ「あなたがしてくれなくても」[1]をみた.これはいわゆる「セックスレス」の夫婦がテーマのようである.そのテーマと(多分)直接の関わりはないと思われるが,主人公・吉野みちとその勤務先(建設会社)の上司・新名誠との会話には少々おどろくことがあった.

 新名誠は,AIを使ってある施工計画を選択したが,データ化されていないむかしの計画も参考になるかも知れないと考え,広い保管室のなかで資料探しをする.そして,それを吉野みちが手伝うのである.この作業の途中,誠がみちに突然「クイズ」を出す:「アインシュタインとモーツァルト/どちらが天才だと思います?」[2]

 みちは「どっちも」と言いかけるが相手が否定的だったので,「じゃあアインシュタインで」と答えるとこれも否定され,誠はモーツァルトのほうだと言う.彼によれば,「アインシュタインの発見したことは/彼でなくても/まあ例えばAIにデータを与えて/学習させれば/到達できたかもしれない/でもモーツァルトは/彼にしかつくれない音楽を生み出した」.

 この誠の言うことには危険な誤解がある.何事かを引き出そうとしてAIにあらかじめ与えるデータは「与件」と呼ばれるものであるが,注意すべきは,新理論(たとえば,相対性理論)は与件から論理的には(――ということは,機械的には)引き出すことができないということである.与件と新理論との間には論理的な飛躍(断絶)が存在するのである[3].逆に,新理論からは与件を論理的に引き出すことができる.これが,本ブログにおいて私がしばしば言及する「のりこえの構造」あるいは「半通約不可能性の関係」である[4]

 理論の提唱者の個性は上述の「飛躍」に現れる.他方,出来上がった理論(科学理論)はその性質上普遍性を有しており,その発展の過程で提唱者の個性は消え去ってしまう.その意味で,たとえば相対性理論は,アインシュタイン以外の人によっても発見され得たと考えられる[5](ただし,上述の理由で,AIによる発見は原理的に無理である).他方,楽曲の場合は,科学理論とは事情がまったく異なる.モーツァルトの音楽は確かに彼にしかつくれない.しかし,モーツァルト以外の作曲家による音楽も,《天才的》音楽か《凡庸な》音楽かの違いは別として,ほとんどの場合,その人以外にはつくれないであろう.したがって,新名誠の言うことは,アインシュタインについても,モーツァルトについても,(ごく穏やかに表現して)まったくの《トンデモ》なのである[6]

 「天才は(アインシュタインではなく)モーツァルトである」という《答え》を示したあと,新名誠はさらに付け加える.アインシュタインの言葉として,「死とはモーツァルトを聴けなくなること」を吉野みちに紹介するのである.この「言葉」については,私は先のブログ記事[7]で,根拠の不明確な「与太話」であると論じた[8]

 「死とはモーツァルトを聴けなくなることだ」がアインシュタインの言葉として拡がったのは,私の知る限りでは,吉田秀和・高橋英郎編『モーツァルト頌』白水社(1966)以後である.先のブログ記事では敢えて書かなかったが,この本では「――死とは・・・・・・,モーツァルトを聴けなくなることです」をアルバート・アインシュタインの言葉とし,「出典は不明であるが,編者の記憶により引用しておく」と注記している(390ページ).こんな引用の仕方は著作家として許されるものではない.記憶には誤りや不正確さが伴う.したがって,出典の調査には手間・ヒマをかける.それでも明らかにならないときは引用をあきらめる.これがまともな著者のやることである[9]

 こんないいかげんな文献にもとづく(と思われる)《アインシュタインの言葉》が大新聞社,大出版社,大放送局を通してどんどん拡散されている.引用するなら,まともな出典を示してほしい.そうであるなら私としては,「与太話」であっても気持ちよく受け入れることができる.

唐木田健一


[1] フジテレビの連続ドラマ(原作:ハルノ晴,脚本:市川貴幸,おかざきさとこ,黒田狭).私がみたのは2023年4月13日(木)放映の第1回.出演者は,奈緒(みち),岩田剛典(誠),永山瑛太(みちの夫)らである.

[2] 斜線「/」は字幕における改行.

[3] この飛躍こそ,サルトルが人間の自由と呼んだものであり,その飛躍において人間は何者か(・・・・・・である者)になる.ここが人間と機械(たとえばAI)との決定的違いである.

[4]“半通約不可能性”における関係(1):サルトルの“行動の構造”および“意味のピラミッド”」,「渡辺慧教授の論文“求む:理論変化の歴史的動的見解”に答える」,ほか.

[5] 本ブログ記事としては不要な議論であるのは十分に自覚しているが,特殊相対性理論ならともかく,一般相対性理論がアインシュタイン以外の人によって発見されたとしたら,いかなる思考プロセスによるものなのか,私にはちょっと想像がつかない.

[6] いまのAIなら,適切な「データ」を与えてやれば,専門家でも「モーツァルトの未発見の作品」と誤って鑑定するような楽曲をつくれるのではないか.ただし,その「データ」は全面的にモーツァルトに依存したものになる.そして,出来上がった《新曲》は,モーツァルトの作品ではなく,「モーツァルトもどき」ということになる.

[7]“死とはモーツァルトを聞けなくなることだ”はアインシュタインの言葉か?」(2022年5月18日).

[8] ただし,「彼(アインシュタイン)はモーツァルトの音楽をこよなく愛していた」(新名誠のセリフ)は事実である.

[9] 最近,ChatGPTが作成したとされる文書をいくつか目にした.結構まともな文章があって感心することもあった.しかしいずれの文章にも出典は示されていなかった.出力としての文章はウェブ上の既存の文献の検索からつくられるのであるから,出典の明示は可能なはずである.それは出力された文章の品質評価の手段のひとつになるのではないか.


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