このところしばしば「親ガチャ」なる言葉を耳にする.親の資質や家庭環境が子どもの人生に与える影響はきわめて大きい.それにも関わらず,子どもは親を選ぶことができない.それを「ガチャ」に譬え(たとえ)たもののようである.「ガチャ」なる表現は,抽選式の玩具自動販売機やネットゲームに由来するらしい.要するに,子どもにとって与えられた親には当たり/ハズレがあり,「親ガチャ」は自分がハズレを引いたと考える子どもの側によって使われるとのことである.しかし私には,まずはこの譬え自体がまったく不適切なものに思われる.
確かに子供は親を選べない.しかもそれはいわば絶対的なのである.「ガチャ」のように,いろいろな候補があって,その中からランダムに選ばれたものが否応なく押しつけられるといった意味で選べないのではない.自分はこの両親以外の親のもとでは存在し得ないのである.それにも関わらず,「ガチャ」(あるいは当たり/ハズレ)なる表現は,何か運/不運にもとづく選択の余地があったかのような印象を与える.結局のところ「自分は運悪くハズレてしまった」ということなのである.
素朴な思考によれば「母がもっとマシな男と結婚していたら,自分ももっとマシ(な容姿や試験偏差値)であっただろう」などという妄想を抱くかも知れない.しかし,母がもっとマシな男と結婚したとしたら,自分は存在しないのであって,そのとき生まれた(かも知れない)子供は自分の修正版などではなく,まったくの他者なのである.「親ガチャ」なる概念は,この程度の思考の人々によって用いられ,もてあそばれているように感じられる.
ついでに付け加えておけば,ある一組の男女にとっては,無限に多様な子供が誕生しうる.この意味で,「子ガチャ」なる譬えは成立しうる.実際,たまにそのような表現も用いられるらしい.その場合,「親ガチャ」とは逆に,「当たり」が強調されるようである.それはそうであろう.ごく一部の不幸な例外を除き,ほとんどの親にとって誕生した子供は「当たり」なのである.
もちろん,子供にとって,親の資質や家庭環境はきわめて重要である.しかし,重要ではあるが,それは出発点に過ぎない.人間は生まれたときは何者でもないものである.人間は出発点によって定義されるのではない(☆).出発点をもとに,何を選び何をつくってきたかによって,いかなる人物であるのかが定義されるのである.仮に「親ガチャ」によるハズレを受け入れ,鬱々とそれに流されるままとしたら,その人物は自らによって「ハズレ」人生を実現することになろう.
☆人間をその出発点で定義することは,差別そのもの/あるいは容易に差別にむすびつきやすいものである.そのような定義として「彼は○○の出である」を考えてみればよい.この○○がたとえ「高貴」であったとしても,何ら差別から逃れられるものではない.
親の資質や家庭環境が子どもの人生に与える影響がきわめて大きいことはむかしからよく知られていることである.しかし「親ガチャ」は,最近の社会における格差の固定化を表現する用語として評価するムキもあるらしい.すなわち,「ハズレ」は「ハズレ」を生むということである.しかし,こんな問題のある「親ガチャ」なる概念をまともに扱うことこそ,社会的格差を形成する政治勢力を野放しにするものではないのか.「親ガチャにハズレた」との認識があるなら,少なくとも事態を否定的にとらえているということである.この否定性をいかに否定していくのか.それが問われているのである.
唐木田健一
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