「“御苦労様”という言葉は目下の者(「正確には」同輩以下)に対して用いられる」との《説》は,私自身は1990年代に入ってから耳にする/目にするようになったと記憶する.その後,いろいろな組織の幹部たちの言動に注意していると,多くが一般に「御苦労様」は避け,「お疲れ様」を用いているようである.しかし,言葉の本来の意味からして,「御苦労様」が上位者に対して失礼であり,「お疲れ様」はそうではない,などという理由はみつからない.こういうことは,ごく低いレベルの「マナー講師」が何かの拍子に言い出して,それが広まってしまったものであろう.「“御苦労様”は同輩以下の人たちに対して使われるものです.だからあなたがたは,上位者に対して“御苦労様”などと言ってはいけません」(☆).
☆「上位者(目上)」という表現は,私自身は辞書的意味で用いている.すなわち,年齢や地位が上の人のことである.「地位」というのは,組織内には存在するであろう.
だいぶむかしのことにはなるが,ある行事をすませたあとの昭和天皇に対して侍従が「陛下,御苦労様です」と言うのを聞いたことがある.企業でも,たとえば「部長,御苦労様でした」との挨拶はふつうになされていた.それにも関わらず,「“御苦労様”は目下の者に用いられる」などというバカげた《マナー》はなぜ広がったのか.その理由は多分簡単で,まともな人は誰でも自分が相手を「目下扱い」しているなどと思われたくないのである.そういう事情で,上に書いたように,幹部たちは部下に対しても「御苦労様」が使えなくなってしまったのである.
こんな《マナー》には根拠がないことを明確にしようと辞書をひいてみておどろいた.『大辞泉』(☆)の見出し「御苦労」によれば:
[1]他を敬って,その人の「苦労」をいう語.お骨折り.ごやっかい.「―をおかけします」
[2]他人に仕事を依頼したときなどに,その苦労をねぎらっていう語.同輩以下の者に対して用いる.「遅くまで―だったね」
[3]苦労の成果がなくむだにみえることを,あざけりの気持ちを含んでいう語.「この暑いのに―なことだ」
とある.
☆『デジタル大辞泉 逆引き大辞泉』小学館(CASIO XD-GW9600;この辞書の発行年はわからなかったが,「刊行にあたって」の日付は1995年8月)
[1]の意味では,「敬って」とあるから,上位者にも用いることができるのであろう.問題は[2]である.ここでは「同輩以下に用いる」がauthorizeされてしまっている.「御苦労様」を使う側にとっては,受け取る側が[1]と[2]の区別をしてくれることなど期待できないので,それは禁句ということになってしまう.他方,『広辞苑』の手元の版(☆)には「同輩以下・・・」に類した記述はなかった.
☆『広辞苑 第4版(電子ブック版)』岩波書店(1991)
ついでながら『大辞泉』で「ねぎらう」の項をみたら:
苦労や骨折りに感謝し,いたわる.現代では,同等または下位の人に対して用いる.「従業員の労を―・う」
とある.これでは,《下から上》に対してはねぎらうことができなくなってしまう.「現代では」というなら,「下位の人」などという概念が入り込んでくること自体がふさわしくないのではないか.さらについでながら,『広辞苑』の手元の版の「ねぎらう」の項では,「下位の人・・・」に類した記述はなかった.
私は以前,根拠に乏しい「与太話」が大新聞社,大出版社,大放送局を通してどんどん拡散されている事態を問題として提起した(☆).この「御苦労様」も,同様の事態なのではないだろうか.
☆本ブログ記事「“死とはモーツァルトを聞けなくなることだ”はアインシュタインの言葉か?」「“アインシュタインとモーツァルト,どちらが天才だと思います?”――?」
唐木田健一
すなわち相対性…
条件付の解法は 数学と法律学の分野だが 言葉の使用条件付は 行政のおせっかいと同じで
自由度のつまらなさと 文化の劣化にも思えることだ
情けは人の為ならず
は 別にひとのためにつかおうが自分のことにつかおうが自由でいいと思う
いちいち細かな拘り自体が 人間には病的でよくない
げんに英語は 状況で同じフレーズの意味が違ってくる
自然社会の人間の法に より 沿っているからだ