理論変化A→BにおけるAとBの関係
基本理論の交替において,古い理論Aと新しい理論Bとの関係は次のようにまとめることができます:
(1)BはAを母体として誕生する.しかし,
(2)BはAに還元できないし,またAからBを導出することもできない.ただし,
(3)AはBにおいて理解できる.
私はこのAとBの関係を「半通約不可能性」と呼んでいます.すなわち,AからBへは断絶しているが,BにおいてAは理解できるということです.これは科学史における理論交替の動的メカニズムから抽出したものです.しかし,あとになって,これにはもっと一般的な意味が内包されていることを知りました.
ここでは,ジャン=ポール・サルトルの『方法の問題』にもとづき,この関係の意味について考察します.サルトルによれば,この関係は,人間と人間の生み出したものを理解するための枠組みを構成します.だから,その個別例として,新理論を生み出す科学者とその生み出した新理論が,この関係において,理解できるのです.
☆Jean=Paul Sartre,“Critique de la raison dialectique (précédé de Question de méthode), Tome I” (1960)/日本語版・平井啓之訳『方法の問題』人文書院(1962).
投企
サルトルは実存主義哲学者といわれています.実存主義では,人間は,自己が日常・非日常の行動において選択するところのものにより定義されます.すなわち,行動が非常に重要な意味をもっています.行動の構造は,サルトル独特の用語として,「投企(とうき)projet」と呼ばれます.投企はここでのキーワードです.
行動は必ずある目的と結びついています.あるいは,ここでは行動をそのようなものと定義することにします.たとえば,テロリストが爆弾を仕掛け建物を破壊したとしたら,それは行動です.一方,科学者がヘマをして可燃性ガスを爆発させ実験室を破壊したとしても,それは行動をしたことにはなりません.このような意味での人間の行動とは,現在の状態(レベルA)から出発して未来のある状態(レベルB)をめざすことです.どんな素朴な行動であっても,これら二つのレベルが同時に関与しています.投企というのは行動のこのあり方のことをいいます.
了解
人間の行動の意味を把握するには,ドイツの精神科医や歴史家が「了解」と名づけたものが活用されます.了解とは,絵画,彫刻,音楽などの文化的産物を心的生活の産物とみて,追体験からその意味を理解することです.これは,ディルタイ(1833-1911)により精神科学の根本方法とされました.サルトルはこれを,人間の行動の理解に用いようというわけです.彼の言い方によれば,了解とは行為をその出発のときの条件(A)をもとにしてその終局の意味(B)によって説明する《弁証法的運動》です.ここで,AとかBと挿入しているのは,理論変化A→Bとの対応を意識してのことです.
了解の一例
サルトルが使った例を紹介しましょう.たとえば,私がある部屋で友人と二人で議論していたとします.ところが,彼(友人)は私にちょっと合図し,椅子から立って窓に向かって進んだ.このとき私は,彼のこの行為を,その場の状況とともに理解することができます.つまり,部屋の中が暑かった.そして彼は空気を入れ換えようとしているのです.
私が彼の行為をその場の状況とともに理解できるといっても,その行動は気温の中に書き込まれていたわけではありません.つまり,一連の反作用が刺激によって引き起こされるような仕方で行動が暑さによって発動されたのではない.それどころか,私は彼と《同じ》状態にあったはずですが,彼が立ち上がったときは一体何が起きたのか理解できなかったのです.私は彼の行動に着目して初めて,彼がその場の状況をどうとらえていたかが理解できたのです.つまり,彼にとっては室温が高過ぎた.そういえば,私も議論に熱中していたけれど,漠然とした居心地の悪さは感じていた.そして,私は彼の行為により,私の居心地の悪さの意味―すなわち,部屋の中が暑苦しいということ―を認めたのです.
同時に,また別の角度からではありますが,私の友人はその行動によって自己の姿をも明らかにしています.たとえば,彼は議論に疲れ,夢中になってしゃべっている私を,少し,もて余していたのです.そして,窓を開けることによって気分を変えようとしたのです.あるいは,私たち二人が議論しているときにもう一人別の友人が部屋に入ってきて何はともあれ窓を開けたとすれば,その行為は私たち二人が暑さも忘れて夢中になって議論していたということを明らかにするでしょう.
了解の特徴
このように,人間の行動においては,二つのレベル(AとB)が同時に絡み合っています.上の例でいけば,Aは部屋の温度(状況,与えられた条件),Bは開け放された窓(めざした状態,総合),そしてそのAとBを結びつけるのが友人の行動です.私は彼のおかれている状況とともに彼の行動を理解しますが,かといって彼の状況が彼の行動を決定しているのではありません.人間の行為は,それを条件づける因子によっては説明されません.そのような説明は複雑なものを単純なものに同化させ,行為の特殊性を否定し,変化を同一性に還元することです.言い換えれば,人間を条件反射として,あるいはロボットとして説明することです.これに対し,了解は逆の操作を行います.すなわちそれは,与えられた条件をのりこえるのです.のりこえられたもの(A)は,のりこえ自体も,またその後の総合(B)も説明する力はありません.逆に,その後にくる総合(B)こそ,のりこえられたもの(A)を照明し,行為者にとってのその意味を明らかにするのです.ここにおけるAとBの関係は,冒頭に述べた(1)~(3)の関係と正確に対応しています.
フローベールとは何か
サルトルはこの方法をさらに拡張します.ここでは,彼にしたがって,私たちは作家フローベールを研究したいのだとしましょう.私たちは,まず,フローベールが「ボヴァリー夫人とは私だ」と語ったことを知ります.また私たちは彼の同時代人の中で最も鋭敏な人々,とくに《女性的》気質の人であったボードレールがこの両者の同一性を予感していたことを発見します.
☆フローベール(1821-1880)はフランスのレアリスム文学の巨匠.自然主義文学の先駆者.代表作に『ボヴァリー夫人』(1857)などがある.
☆ボードレール(1821-1867)はフランスの詩人.芸術至上主義,頽廃主義の代表者.象徴派の先駆者.代表作に『悪の華』(1857)などがある.
フローベールの伝記をみれば,彼の依存性・屈従・《相対的生き方》,すなわち当時《女性的》と名づけるのが通例あった諸性格のすべてが発見できます.同様に,彼の作品は彼のナルシスム・自慰癖・観念主義・孤独・受動性を明るみに出します.そこで私たちは次の問いを立てます.すなわち,自分を女として描き出す可能性をもつためには,ギュスターヴ・フローベールとは一体どんな男でなければならなかったのか?
彼の諸性格は,彼のおかれていた社会状況―彼は地主であった,年金を受け取っていた,等―と彼の幼少期における悲劇―秀才の長兄に常に比較されたこと,父親の愛情に飢えていたこと,等―とを想起させます.それは同時に,ナポレオンの帝政時代に形成された知的プチ・ブルジョア階級とそれがフランス社会のその後の進化を体験する仕方とを浮かび上がらせます.こうして探究は歴史そのもの,すなわち当時の地代の動き,知的プチ・ブルジョア階級の勃興,プロレタリア階級のゆっくりとした成熟,等へと溯(さかのぼ)ります.私たちはこのようにして異質な意味づけの諸段階を獲得します.すなわち,(1)作品としての『ボヴァリー夫人』,(2)フローベールの《女らしさ》,(3)フローベールの幼少期と当時のプチ・ブルジョア階級の諸矛盾,(4)フランスの社会・経済状態,などです.
意味のピラミッド
サルトルは,人間のすべての行動はピラミッド状で段階を異にする多種多様な意味をもつといいます.このピラミッドでは,下層のより一般的な意味(A)は上層のより具体的な意味(B)の母体の役割を務めます.とはいえ,上層の意味を下層の意味から演繹したり,そこに還元することはできません.逆に,上層の意味に着目することによって,私たちは下層の意味が1個の人間においてどう具体化されたのかを理解することができます.
人間が行動を通して生み出す事象の独自性は,これら多層の意味を総合的に結びつけることによってのみとらえることができます.このように,意味のピラミッドにおける隣接した任意の上下二層において,私のいわゆる「半通約不可能性」の関係が成立しています.いまの私たちの探究におけるピラミッドの頂点は絶対的に具体的な存在,すなわち作品としての『ボヴァリー夫人』です.私たちはそこから最も抽象的な条件,すなわちフランスの社会・経済状態にまで下降したのです.
次の私たちの仕事は,下層から上層に向かい,より抽象的な段階から個々の段階を生み出す全体的な豊饒化の運動を見出すことです.それは,フローベールが,プチ・ブルジョア階級を脱しようとして可能性のある種々の分野へと身を投じ,『ボヴァリー夫人』の著者として,また彼がそうなることを拒否したプチ・ブルジョアとして,不可避的にまた断固として,自己をつくっていくその投企を再発見することです.この投企は一つの意味をもち,人はそれを通し客観的な全体として世界の中に自分自身を生み出すのです.これは《偉人》だけでなく,いかなる《凡人》でもそうなのです.
フローベールの独自性とは,ある在り方をする世界の中で自己表現をするため,ある仕方で書くことを選んだことにあります.彼は,その当時の思想の枠内において,自分の根源的条件を否定し,自分のもつ諸矛盾の客観的解決として,文学に独自の意味づけをしたのです.その結果として生まれ,その中に彼の客観化と疎外(挫折)の姿がみられる雄偉でみごとな作品が,すなわち『ボヴァリー夫人』なのです.サルトルの意味のピラミッドにおける多層の意味の結合は,このようにして,一定条件のもとにおかれた人間の独自性を明らかにします.
〔以上は,唐木田健一『理論の創造と創造の理論』の3.1-3.6にもとづく〕
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